人生劇場、終幕。
重い瞼を押し上げ、死人のような足取りで校門をくぐった。
昨夜のあの生々しい拒絶と模倣の記憶が胃の奥でどろりと焼けている。
職員室に入るとそこには不自然な静寂が漂っていた。
ホワイトボードの端、綾目先生の名前の横に書かれた「欠勤」の二文字。
それを見た瞬間、俺の視界がぐらりと揺れた。
「先生、おはようございます」
背後から低く、湿った声がした。
振り返るとそこには真っ赤な眼をした佐倉が立っていた。
一晩中泣き明かしたのか、それとも一晩中どこからかあの「音」を繰り返し聴き続けていたのか。
彼女は俺にしか聞こえない音量で、小さく手招きをした。
「……こっちへ。……先生に、お話ししたいことがあるんです」
俺は吸い寄せられるように、彼女の後に続いて誰もいない視聴覚準備室へと入った。
鍵を閉める音が静かな廊下に虚しく響く。
佐倉は俺の正面に立つと、薄気味悪いほど満足げな笑みを浮かべた。
「先生……昨夜のラジオ、最高でした。……私、何度も何度も聴き返してしまいました。……彼女さんも、なかなかいい演技をしますね。……綾目先生のあの壊れる音が、今も耳から離れません」
「……お前、どうしてあれを……」
「私が仕掛けた鍵に、録音機能が入っていないとでも思いましたか?」
佐倉はスマホの画面を俺に向け、昨夜の音声ファイルを誇らしげに提示した。
そして一歩、俺との距離を詰める。
「ご褒美に教えてあげます。……綾目先生がどうしてあんなに必死に先生を奪おうとしたのか。……彼女が隠していた本当の目的を」
佐倉の瞳が狂気的な熱を持って俺を射抜いた。
「彼女、先生を愛してたわけじゃないんですよ。……彼女は自分を壊した『かつての男』に先生を重ねていただけ。……先生を自分と同じ地獄に引きずり下ろして、一緒に堕ちることで自分の過去を清算しようとしていたんです。……あの旅館の夜も、先生への告白も……全部、彼女が自分自身を納得させるための、ただの儀式だったんですよ」
俺の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
綾目先生のあの涙も、執着も、すべては俺という個人に向けられたものではなく、過去の幻影を殺すための道具に過ぎなかったというのか。
「先生はただの身代わり。……でも、そんな彼女を奥さんが完璧に叩き潰してくれた。……今の綾目先生は過去を清算するどころか、新しいもっと深い地獄に閉じ込められました」
佐倉は俺のネクタイをゆっくりと指先でなぞった。
「先生……これで本当に独りですね。……彼女さんにも愛されず、綾目先生にも利用され。……ねえ、先生。……私だけは先生の『本当の姿』を見てあげますよ?」
彼女の囁きは甘い毒のように俺の耳に浸透していく。
学校という聖域の中で、俺を巡る地獄はさらにその深さを増していった。
校舎の輪郭を曖昧に溶かしていく。
放課後の喧騒が遠のいた旧校舎の一角、使われていない文芸部の部室。
「荷物を取りに来ました」という、事務的でいてどこか嫌な予感をさせるメッセージに導かれ、俺は重い扉を引いた。
室内には鉄の匂いと、嗅ぎ慣れた綾目先生の香水の匂いが混じり合って停滞していた。
「……綾目先生?」
俺の声に窓際で椅子に座る影がゆっくりと揺れた。
月光に照らされた床には黒い糸のようなものが無数に散らばっている。
それは彼女が誇りにしていた、あの艶やかな長い髪の残骸だった。
「……先生。来てくれたんですね」
彼女は事務用のハサミを握りしめていた。
その手首は激しく震え、切り刻まれた髪は不揃いで無残なほどに短くなっている。
鏡も見ずに切り落としたのだろう。
剥き出しになった首筋には、俺が刻んだあの跡が赤黒くなって無惨に露出していた。
「何を……何をしてるんだ、綾目先生!」
俺が駆け寄ろうとすると彼女はハサミの先を自分の喉元に向け、静かに俺を制した。
その瞳は濁りきった底から冷たい光を放っている。
昨夜、電話越しに聴かせたあの音が彼女の正気を完全に削ぎ落としてしまったのだ。
「……綺麗に、なりたくて。……あの人の声、あの人の吐息。……全部、この髪に染み付いて離れないから。……切り落とせば、消えると思ったんです」
彼女は不揃いな髪を指で掬い上げ、力任せにハサミを入れた。
止めることも叶わず、ジャリ、という嫌な音が静かな部屋に響く。
「佐倉さんと喋って気づきました。……私、先生を誰かと重ねてたみたいですね。……自分でも気づかなかった。……でも、もうどうでもいいんです。……今の私はあの人の声を聴いて、先生に絶望されて、自分という形を失くしてしまったから」
彼女はハサミを床に落とした。
高い金属音が響き、彼女はふらふらと立ち上がって俺の胸に縋り付いた。
短い髪の毛が俺のシャツの間にチクチクと刺さる。
「……先生。私を、終わらせてくれますか?」
彼女は俺の手を取り、自分の細い首へと導いた。
あの跡が俺の手のひらに直接触れる。
熱を帯び、ドクドクと脈打つ生身の衝動。
「愛じゃなくていい。……憎しみでもいい。……ただ、私を誰の記憶からも消して。……先生の手で私の呼吸を止めて。……そうすれば私は本当の意味で、先生のものになれるから」
彼女の顔にはこの物語で一度も見せたことのないような無垢で、慈愛に満ちた恐ろしいほどの「笑顔」が張り付いていた。
彼女は俺を愛しているのではない。
俺という凶器を使って、自分を呪縛から解放しようとしているのだ。
「……先生。……早く。……あの人がまた私を笑いに来る前に」
俺の指が綾目先生の細い首にゆっくりと食い込んでいった。
指先に伝わる、綾目先生の熱い拍動。
「ッ、ぁあぐ、れ」
彼女の喉が喘ぐように震え、俺の掌の中で命という名の灯火が今にも消えようとしていた。
俺は自分の意思で力を込めているのか、それとも彼女の狂気に引きずられているのか、もう判別がつかなかった。
その時だ。
カシャリ、という乾いた場違いな電子音が静寂を切り裂いた。
「……っ!」
俺は弾かれたように手を離した。
綾目先生が床に崩れ落ち、激しく咳き込む。
俺が血の気の引いた顔で振り返ると、開かれた部室の扉の影に二人の影が立っていた。
スマホを構え、画面を確認して満足げに口角を上げる佐倉。
そしてその横で魂を抜かれたような目をして立ち尽くす俺の彼女。
「はい、チーズ。……とっても綺麗に撮れましたよ、先生」
佐倉の声は放課後の他愛ないお喋りのように軽やかだった。
彼女はスマホの画面をこちらに向け、保存された「証拠」を誇示する。
そこには後輩の首を絞める、狂気に憑りつかれた男の姿が無残に記録されていた。
「これで先生、正真正銘の『殺人未遂犯』ですね。……それとも、嘱託殺人って言った方がいいのかな?」
「佐倉……何をしに……」
「何って、先生に『トドメ』を刺しに来たんです。……あ、もちろん奥さんにも全部見ておいてもらおうと思って。……先生が別の女と心中しようとする、その立派ぁな姿を」
隣に立つ彼女は声も出せずに震えていた。
昨夜、自分の家で繰り広げられた地獄を耐え抜き、それでもなお俺という男の底を見極めようとしていた彼女。
だが、目の前にある光景は彼女が唯一残していた「信頼」の残骸を塵一つ残さず粉砕した。
「……ねえ。どうして?」
彼女が掠れた声で呟いた。
その瞳から一筋の涙が感情の抜けた頬を伝い落ちる。
「……私との生活も、私の愛も……全部この人の死に勝てなかったの? ……死んでまで、この人を自分のものにしたかったの?」
「違う、これは……!」
「先生ー、言い訳は聞き苦しいですよ」
佐倉が愉悦に満ちた声で割り込んだ。
彼女は一歩踏み出し、俺の足元に散らばった綾目先生の髪を爪先で弄ぶ。
「これで先生の社会的地位も、家庭も、未来も、全部おしまいです。……あ、この写真は警察に届けてもいいですし、学校の掲示板に貼ってもいい。……どうします? 先生。……私に、一生飼われますか?」
床に倒れたまま綾目先生が狂おしい笑い声を上げた。
短く切り刻まれた髪の間から、俺を呪い、愛し、破壊した瞳が覗く。
俺の人生という盤上からすべての駒が消えた。
残されたのは俺という抜け殻と、それを食い散らかそうとする二人の女。
そして二度と元には戻らない壊れた「正解」の女だけだった。
───
あの部屋での惨劇からどうやって家まで辿り着いたのか、記憶が定かではない。
佐倉の嘲笑も、綾目先生の狂ったような笑い声も、遠い世界の出来事のように輪郭を失っていた。
俺の隣にはただ、意思を持たない人形のようになった彼女が静かに寄り添って歩いていた。
街灯の下、二人の影が伸びては消える。
彼女は一言も発さず、俺の服の裾を子供が迷子にならないようにと必死に掴むような力で握りしめていた。
その手の冷たさが彼女の中で何かが完全に凍りついたことを物語っていた。
家に着き、玄関の鍵を開ける。
数日前まで、ここは温かな夕飯の匂いがする俺たちの帰るべき場所だった。
今やただの冷たい箱だ。
「……ねえ、」
部屋に入り、電気も点けないまま彼女が初めて口を開いた。
その声は驚くほど澄んでいた。
澱みも、恨みも、悲しみさえも消え去った透き通った無の声。
「私ね、あなたのことが本当に、本当に大好きだったんだよ」
彼女は俺を見ることなく、ふらふらと部屋の奥へ歩み寄った。
俺は昨夜の綾目先生とのビデオ通話を思い出し、胸を騒つかせた。
けれど彼女の足取りはあまりに自然で、月明かりを浴びようとする少女のように無防備だった。
「……でももう、あなたの中に私の居場所はないんだね」
「何を言ってるんだ。……これからは、二人でやり直そう。佐倉のことも、……」
「無理だよ。……あなたの首にはあの人の跡があって。あなたの手にはあの人の感触が残ってる。……私、もう、どこを愛したらいいのか分からなくなっちゃった」
彼女は傍にあった小さい箱を持って部屋の窓の鍵を開けた。
夜風が部屋に流れ込み、彼女の細い肩を揺らす。
「待て、そっちに行くな……!」
俺が手を伸ばした瞬間。
声を出す暇も、その指先が彼女の衣類に触れる刹那も与えられなかった。
彼女は羽ばたくことを知らない鳥のように、静かに重力に身を任せた。
抵抗も、躊躇も、叫びもなかった。
ただそこにあったはずの彼女という存在が、ふっと視界から消えた。
「……っ、あああああ!」
俺は窓に駆け寄り、身を乗り出して下を見下ろした。
アスファルトの上に、黒い塊があった。
月光に照らされて、彼女からいつか聞いたお気に入りのスカートが、夜の闇に白く浮き上がっている。
動かない。
指先一つ、髪の一房さえも、もう動くことはない。
世界から音が消えた。
彼女が地面に叩きつけられた衝撃音さえ、俺の耳には届かなかった。
ただ冷たい夜風が俺の頬を撫で、部屋に残された彼女の香水の匂いを遠くへ、遠くへと運び去っていく。




