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日常の崩壊

 佐倉は俺の頬を優しく撫で、そのまま音もなく玄関へと消えていった。


 カチャリ、と鍵の閉まる音が俺をこの地獄に閉じ込めた。


 リビングには彼女の嗚咽だけが響いている。


 俺は手に握らされたトドメの封筒を見つめた。


 これを出せば彼女は完全に壊れる。


 けれど出さなければ佐倉が次に何を仕掛けてくるか分からない。


 「……ねえ、嘘だよね? ……何かの間違いだよね?」


 彼女が縋るような瞳で俺を見上げた。


 その無垢な期待を、俺は今からこの手で握り潰さなければならない。


 だが俺は佐倉から渡された封筒を背後に隠した。


 せめてこの紙切れだけは、今この瞬間に渡すべきではない。


 俺は喉の奥に張り付いた言葉を、必死にかき集めて吐き出した。


 「……違うんだ。いや、違わない。でもあの日、俺は……」


 「何が違うの?」


 彼女が顔を上げた。


 その表情を見た瞬間、俺の言葉は凍りついた。


 泣き腫らした瞳には怒りも悲しみも、もはや宿っていなかった。


 ただひどく冷めた空虚な断絶だけがそこにあった。


 「仕事の相談だって、あなたは言った。……でも、実際はあの子と遊んで、あんな旅館に泊まって。……首に、あんな跡をつけられるまで、その人と……」


 「それは、仕組まれたことなんだ。佐倉という生徒が、俺を陥れようとして……」


 「仕組まれたから、抱くの?」


 彼女の声は低く、平坦だった。


 その静けさが狂気よりも鋭く俺の理性を削る。


 「仕組まれたら私との約束を破って他の女の人と一晩中一緒にいるの? ……佐倉さんっていう子が悪いなら、どうしてあなたは普通にその子をこの家に入れて私の隣で笑わせていたの?」


 「それは……」


 「ねえ。……私、あなたのことがもう分からない」


 彼女はゆっくりと立ち上がった。


 ふらつく足取りで俺から距離を置く。


 その動きはまるで汚いものに触れないように、細心の注意を払っているかのようだった。


 「あなたが言う弁明は全部、自分を守るための言葉にしか聞こえない。……私の痛みを分かろうとしてるんじゃなくて、自分が『悪くない』って思いたいだけでしょ?」


 「……そんなことはない! 俺は、君を失いたくないから……」


 「失いたくないから嘘をついたの? ……失いたくないからあの日、あの人と肌を重ねたの?」


 彼女の言葉は論理的で、残酷なほど正しかった。


 信頼という名の硝子が粉々に砕け散り、その破片が俺たちの間に降り積もっている。


 俺が歩み寄ろうとすればするほどその破片は彼女の足を、そして俺の心を深く切り裂いていく。


 彼女は俺が渡そうとしていた封筒に気づき、冷ややかな視線を向けた。


 「……それ、何? また新しい嘘?」


 「……いや、これは」


 「もういい。……もう、何も言わないで」


 リビングには飲みかけの冷めた紅茶と、佐倉が残していった悪意の残骸だけが残された。


 俺は自分が守ろうとしていたものの正体がとうの昔に腐り落ちていたことに、ようやく気づかされた。


 リビングはまるで真空地帯のようだった。


 あらゆる音がこの世の終わりを告げる断頭台の刃のように響き、後に残されたのは死を待つような沈黙だけだ。


 彼女は泣き止んでいた。


 いや、涙が枯れたわけではない。


 感情という蛇口を自らの手で固く、冷たく締め切ったのだ。


 彼女は床に座り込んだまま俺を見上げることもなく、ただ一点を見つめていた。


 「……ねえ。もう一度、最初から話して」


 その声には抑揚が全くなかった。


 怒りも悲しみも、絶望さえも削ぎ落とされた無機質な氷の(つぶて)


 「先生とあの子。……いつから、そういう関係だったの?」


 「関係なんてない。俺はただ、佐倉に脅されて……」


 「だから?脅されたら、あんなに幸せそうに笑うの?」


 彼女がゆっくりと顔を上げた。


 その瞳はまるで底の見えない深い井戸のように暗く、冷たい。


 けれどその奥底で何かが微かに、必死に震えているのが分かった。


 それは裏切られた現実を認めつつも、それでもまだ俺に「自分を救うための嘘」を求めている歪な愛の残骸だった。


 「仕事の相談だって嘘をついて。……私との生活を断って。……あの日遊園地で彼女の手を握っていたとき、私の顔は一瞬でも浮かんだ?」


 「……浮かんでいた。ずっと、申し訳ないと思って……」


 「嘘。……申し訳ないなんて思ってる人は、首にあんなに生々しい跡をつけさせたりしない」


 彼女は幽霊のような足取りで立ち上がり、俺の目の前まで歩み寄った。


 そして震える指先で俺の襟元に触れる。


 その手つきはかつての愛おしさを確かめるものではなく、自分の持ち物が他人に汚されたことを確認する検死官のような冷徹さがあった。


 「あの子に触れられているとき……気持ちよかった?」


 「……っ、そんなわけないだろ」


 「どうして? ……あんなに必死に愛を乞われて、自分の価値を確認できたんでしょ? ……教師として、男として誰かに狂おしく求められる快感に酔いしれていたんでしょ?」


 彼女の問いは俺の精神の最も柔らかい部分を正確に切り刻んでいく。


 冷たい言葉の裏側に、彼女の悲鳴が聞こえる。


『私を愛していると言って。今すぐ、あの女なんてどうでもいいほど、私だけを必要だと言って』


 そんな渇望が沈黙の隙間から溢れ出していた。


 「……私を、愛してる?」


 彼女が俺のシャツの胸ぐらを掴んだ。


 力は弱い。


 けれどそこには逃げ場を許さない執念が籠もっていた。


 「愛してるなら、今ここで証明して。……あの子がつけたこの跡を、私の爪で全部掻き消させて。……あの子の記憶が一滴も残らないくらい……私で埋め尽くさせて」


 彼女の瞳から一筋の涙が頬を伝った。


 冷たい声とは裏腹に、その身体は凍えるように震えている。


 それは裏切りという毒を飲み干してでも、俺という存在を繋ぎ止めておきたいという呪いにも似た愛の形だった。


 俺は彼女の冷え切った身体を抱きしめることができなかった。


 今俺が彼女に触れることは、彼女をさらに深く暗い泥濘へと引きずり込むことだと分かっていたからだ。


 彼女の指先が俺のシャツのボタンを一つ、また一つと弾いていく。


 その手つきは驚くほど迷いがなく、暴力的なまでに事務的だった。


 そのまま俺はソファへと押し倒され、彼女の重みを全身に感じることになる。


 「……ねえ。あの子もこうやってあなたの服を脱がせたの?」


 彼女の声はやはり抑揚を欠いたまま鼓膜を冷たく撫でる。


 俺の背中がソファに沈み込む感触。


 それはあの夜、旅館の畳の上で味わった感覚と恐ろしいほど似通っていた。


 「……やめろ。こんなこと、君がする必要はない」


 「どうして? ……あなたはこういうのが好きなんでしょ? ……強引にどうしようもない場所に連れて行かれるのが」


 彼女の顔が至近距離まで降りてくる。


 瞳の奥にあるはずの光は消え失せ、代わりに昏い情念が澱のように溜まっている。


 彼女は俺の首筋、綾目先生がつけたあの跡を自分の指でなぞった。


 「ここ、あの子が噛んだの? ……それとも、吸い付いた? ……ねえ。どんな声を出してあなたを求めたの?」


 「……答えたくない。君に、そんな汚い話を聞かせたくないんだ」


 「汚い? ……ふふ、おかしいね。あの日あなたはそれを『幸せ』だと思って受け入れたんじゃないの? ……仕事の相談なんて嘘をついてまで、守りたかった時間なんでしょ?」


 彼女の爪が跡の上をわざとなぞるように立てられる。


 微かな痛みが走り、俺は思わず顔を顰めた。


 その反応を見た彼女は、口角だけを不気味に釣り上げた。


 「……あの子のやり方を、私が上書きしてあげる。……あの子がしたこと、全部私に教えて。……何回愛してるって言わせた? ……どこをどんなふうに弄られたらあなたは私を忘れたの?」


 「……頼む。もう、やめてくれ」


 「やめない。……絶対にやめない。……あの子の名前を思い出せなくなるまで。……この部屋の空気が全部私との記憶で埋め尽くされるまで……私はあの子になってあげる」


 彼女は俺の耳元に顔を寄せ、熱のない凍りついた吐息を吹きかけた。


 「……先生。好きだよ。……死ぬほど、好き。……ほら、あの子もこう言ったんでしょ? ……これで満足?」


 その言葉は愛の告白というにはあまりに鋭く、俺の心臓を貫くための凶器そのものだった。


 俺は目の前の彼女の中に、確かに綾目先生の影を見た。


 復讐のために愛を演じ、愛のために復讐を遂げようとする壊れた女の影を。


 彼女の指先が俺の肌をなぞるたび、そこに彼女自身の意志は介在していないように感じられた。


 それはあの日旅館で綾目先生が見せた動きの残酷なまでのデッドコピー。


 執拗に同じ場所を撫で、同じ角度で俺を見下ろす。


 その瞳に宿っているのは情熱ではなく、標本を観察するような冷徹な狂気だった。


 テーブルの上でスマホが死に体の虫のようにのたうち回る。


 暗い部屋の中で液晶の光がチカチカと不吉に明滅していた。


 「……ねえ、あなた。あの子、すごく必死だよ」


 彼女は俺の上に跨ったまま手を伸ばしてスマホを拾い上げた。


 画面には「綾目(12件の着信)」という無機質な文字が俺たちを嘲笑うように並んでいる。


 彼女は画面を俺の目の前に突きつけ、親指を緑色の通話アイコンの上に置いた。


 「出ないの? せっかく先生に会いたくてこんなに電話してきてるのに」


 「よせ……。今、彼女と話しても何も解決しない」


 「解決なんて、最初から求めてないでしょ。……あの子も、あなたも、私も」


 彼女は俺の頬をゆっくりと自分の爪で引っ掻いた。


 痛みが走る。


 けれど彼女はそれを愛おしそうに見つめながら、スマホのスピーカーモードをオンにしようとする。


 「ねえ、先生。あの子にも見せてあげようか。今、私たちが何をしてるか。……あの子がつけた跡の上に、私が今何を書き込んでいるか。……音だけでも聞かせてあげたらあの子、どんな声を出すかな?」


 「やめてくれ……! そんなことをして、何になるんだ!」


 「何にもならないよ!……ただ、あの子が先生に味わせた絶望を、今度は私があの子に味わせるだけ。……あの子が壊した私の日常を、あの子の耳元で粉々に砕いてあげるだけ」


 彼女の指が通話ボタンのすぐ上で止まる。


 俺の心臓はスマホのバイブレーションよりも激しく脈打っていた。


 もしここで通話が繋がれば、この部屋の歪な空気は電話回線を通じて綾目先生の元へと流れ込む。


 そして三人の関係はもはや修復不可能な真っ黒な汚泥へと完全に沈んでいく。


 「……あなた、選んで。……私にあの子のフリを続けさせて、このまま抱くか。……それともあの子をこの場に招き入れて、三人で……地獄に堕ちるか」


 彼女の問いかけは究極の毒だった。


 彼女は俺を愛しているのではない。


 俺を辱め、綾目先生を呪い、自分自身を壊していくその過程に唯一の救いを見出そうとしていた。


 俺の耳元で彼女が小さく、綾目先生と全く同じトーンで囁いた。


 「……先生。好きですよ」


 その声が俺の理性の最後の一線を音を立てて断ち切った。


 静寂を切り裂くように、スピーカーからノイズ混じりの声が溢れ出していた。


 それはかつての冷静な同僚の面影など微塵もない、綾目先生の泥を啜るような悲鳴だった。


 「先生……先生、お願い……助けて……っ。私、もう、どうしたら……」


 過呼吸気味の震える吐息。


 彼女は今暗い学校のどこかで、あるいは一人きりの部屋で自らが掘った穴に飲み込まれようとしている。


 だが俺の上に跨る彼女はその悲痛な叫びをまるで心地よいBGMでも聴くかのように聞き流していた。


 彼女は俺のスマホを耳元ではなく、わざと俺たちの唇が重なる、その至近距離に置いた。


 「……っ」


 俺が何かを叫ぼうとした瞬間、彼女の唇が強引にそれを塞いだ。


 拒絶しようにも彼女の細い指が俺の髪を掴み、逃げ場を奪う。


 熱い舌が入り込み、混じり合う。


 その生々しい音がマイクを通じて、電話の向こうの綾目先生に筒抜けになっている。


 「あ……っ、ふ……っ」


 彼女は俺の唇を離すと、わざとらしく甘く濡れた声を漏らした。


 それは旅館で綾目先生が漏らしていたものと気味が悪いほど酷似した「演技」だった。


 『……え? 先生? ……だれ……そこに、誰がいるの……?』


 スピーカー越しの綾目先生の声が急激に冷え込んでいく。


 困惑が一瞬で最悪の予感へと変わり、絶望へと変質していくのが伝わってきた。


 「ねえ。もっと……強くして……」


 彼女は俺の耳元で囁き、そしてスマホに向かって言い放つ。


 その瞳は暗闇の中で狂気的な快悦に燃えていた。


 「聴こえてる? 綾目先生。……あなたの先生、今、私のものだよ。あなたがつけたその跡を、私が今全部汚してあげてるの」


 『……やめて……っ、やめてください! 先生、嘘だって言って! お願い!』


 綾目先生の絶叫がスピーカーを割らんばかりに響く。


 だが彼女は止まらない。


 俺の首筋に顔を埋め、綾目先生の跡を自らの歯で上書きするように深く噛み締めた。


 「あ……がっ……!」


 俺の漏らした苦悶のうめき声が電話の向こうに届く。


 それが綾目先生にとっての致命傷になることを彼女は確信して笑っていた。


 「聴こえた? 今のがあなたの愛した先生の声だよ。……あなたが壊したはずの私たちの『日常』の音だよ」


 『あああああああ!!』


 受話器の向こうで何かが激しく叩きつけられる音がした。


 そしてプツリ、という無機質な切断音。


 通話は途切れた。


 残されたのは荒い息をつく彼女と、もはや自分の意思がどこにあるのかも分からない抜け殻のような俺だけだった。


 「……ねえ。これであの子も……死ぬまで私たちを忘れられないね」


 彼女は満足げに俺の胸に顔を埋めた。


 その頬には冷たい涙が伝っていた。


 通話が切れた後のリビングは死んだように静まり返っていた。


 スマホの画面は真っ暗になり、そこには絶望の淵にいた綾目先生の声も俺たちの醜い愛撫の音ももう残っていない。


 けれど彼女は俺の上に跨ったまま、まるでもう一度あの悲鳴を反芻するかのように恍惚とした、それでいて極寒の冷たさを湛えた瞳で俺を見つめていた。


 彼女は俺の首元に新しく刻んだ自らの歯型を愛おしそうに撫で、ポツリ、ポツリと言葉を零し始める。


 「……ねえ、聴いた? あの人の声」


 その声には先ほどまでの激しい狂気はなく、どこか澄み切った理性的ですらある響きが混じっていた。


 彼女は俺のシャツの襟を整えながら、独り言のように続ける。


 「綾目先生……どうしてあんなに被害者みたいな感じでいられるのかな。……不思議だよね。あなたに縋り付いて無理やり既成事実を作って私たちの居場所を壊したのは……間違いなくあの人なのに」


 彼女の手が俺の頬をゆっくりと滑る。


 その指先は驚くほど冷たい。


 「不貞を犯したのはあの人。……汚したのもあの人。……なのに、どうしてあんなに可哀想な女の子のフリをして、あなたに『助けて』なんて言えるんだろう。……厚顔無恥っていうのは、ああいう人のことを言うのかな」


 「……もういいだろ。彼女はもう十分に壊れたはずだ」


 俺の掠れた声に彼女は短く、乾いた笑いを漏らした。


 その笑みはどんな罵倒よりも俺の心を切り裂いた。


 「壊れた? ……ふふ、違うよ。あの人はただ『自分の思い通りにいかなかった』ことに絶望してるだけ。……自分が奪ったはずの先生がまだ私の腕の中にいるのが許せないだけだよ。……被害者面して、あなたの罪悪感を煽って死ぬまで縛り付けようとしてるの。……狡猾だよね、本当に」


 彼女は俺の胸にそっと耳を当てた。


 俺の心臓の不規則で重苦しい鼓動を確認するように。


 「……可哀想に。あんな女に捕まって、あんな安っぽい愛の言葉で汚されて。……でも、大丈夫だよ。あの人に私たちの『音』を聴かせてあげたでしょ? ……あれであの人の持っていた幻想は全部、ただの汚物に変わったはずだから」


 彼女は俺を見上げ聖母のような、あるいは死神のような穏やかな微笑を浮かべた。


 「あの人は加害者なの。……私たちはただ自分たちの家を守ろうとしただけ。……そうでしょ? ……私たちは、何も間違ってないよね?」


 その問いかけに俺は答えることができなかった。


 間違っている。


 ここにいる全員が、もう修復不可能なほどに間違っている。


 けれど彼女の腕の中でその「正論」を口にする勇気は、今の俺には欠片も残っていなかった。

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