呆気ない終幕
リビングの空気は窒息しそうなほどに重く、淀んでいた。
彼女が淹れた紅茶の香りが場違いなほど優雅に漂っている。
俺、彼女、綾目先生、そして佐倉。
四人が一つのテーブルを囲むという、悪夢のような構図が完成してしまった。
綾目先生は借りてきた猫のように肩をすぼめ、ティーカップを両手で握りしめている。
その指先はカチカチと磁器の音を立てるほどに震えていた。
対照的に佐倉はクッキーを一口齧り、自分の家であるかのように寛いでいる。
「……それで、綾目先生。先生とは学校でどんなお話をされてるんですか?」
彼女が努めて明るい声で尋ねる。
だがその瞳には先ほど玄関で見つけた首元の跡への疑惑が澱のように溜まっていた。
「あ、それなら私、知ってますよ」
佐倉が待っていましたと言わんばかりに身を乗り出した。
彼女の唇が三日月のように吊り上がる。
「そういえば先生たち、この前の遊園地はどうでした? 楽しかったですよね。……二人きりで」
「……っ」
俺の喉の奥から乾いた音が漏れた。
彼女の動きがぴたりと止まる。
「遊園地……? 仕事の相談があるからって言って、出かけた日だよね」
彼女の視線がゆっくりと俺に向けられる。
その瞳に宿る色が信頼から底知れない恐怖と絶望へと変質していくのが分かった。
「はい。とっても仲睦まじく、アトラクションに乗ってましたよ。私この前言った通り、偶然見かけちゃったんです」
佐倉は追い打ちをかけるように、スマホを取り出した。
あの日、観覧車を外から捉えた写真。
そして旅館の門をくぐる二人の背中。
彼女はそれをまるで放課後の他愛ない思い出話でもするようにテーブルの上に滑らせた。
「お土産のお菓子、美味しかったですよね。……あ、でも。あの旅館で出されたお茶の方がもっと美味しかったのかな?」
沈黙がリビングを支配した。
雨音さえ聞こえない耳鳴りがするほどの静寂。
綾目先生がガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。
彼女の顔は死人のように白く、けれどその瞳には追い詰められた獣のような歪んだ光が宿っている。
「……先生、私。もう、嘘はつけません」
綾目先生は俺ではなく、俺の彼女を真っ直ぐに見据えた。
首元の跡を隠そうともせず、隠している襟を自ら引き下ろす。
そして彼女の手を取り、自らの首に引き寄せた。
「この跡、先生につけてもらったんです。……雨の夜、誰にも邪魔されない場所で。……私、先生を壊したんです。あなたから、奪い取ったんです」
「やめて、ください……」
彼女が耳を塞ぐようにして俯いた。
その目から大粒の涙がテーブルの上にこぼれ落ちる。
佐倉はその光景を特等席で眺めながら、満足げに紅茶を啜った。
「抱くか、殺すか」
佐倉が俺に与えた二択の答えは今、最悪の形で彼女へと届けられた。
俺は崩れ落ちる彼女の肩を抱くことも、狂気に走る綾目先生を止めることもできない。
ただすべてをぶち壊した佐倉の、美しく残酷な微笑みを見つめることしかできなかった。
彼女の絞り出すような声が冷え切ったリビングに響いた。
それは怒声よりも深く、鋭く、俺の胸を抉った。
「もういい……、お願い。みんな……出て行って」
彼女は顔を覆い、テーブルに突っ伏した。
溢れ出た涙が佐倉が広げた地獄の証拠写真を濡らし、歪ませていく。
俺が守りたかったはずの温かな日常の亡骸。
それが今目の前で音もなく崩れ去っていた。
綾目先生は自分の犯した罪の重さに耐えかねたのか、あるいは「奪った」という宣言で燃え尽きたのか、幽霊のような足取りで玄関へと向かった。
扉の閉まる重い音が彼女が去ったことを告げる。
リビングに残されたのは泣き崩れる彼女と、俺。そしてこの惨劇の演出家である佐倉だけだった。
「さて」
佐倉はゆっくりと立ち上がり、スカートの皺を払った。
彼女は俺に近づき、屈み込んで動けずにいる俺の顔を覗き込む。
その瞳には一滴の慈悲も、後悔もなかった。
「先生。……最後のお片付け、手伝ってあげてくださいね」
佐倉は俺の耳元で氷のように冷たい声で囁いた。
そして彼女は自分のカバンから、一通の封筒を取り出した。
それは、俺が以前佐倉に書かされた紙だった。
「これを奥さんに渡してください。……それで、全部終わります。先生が彼女に引導を渡すんです。自分の手で」
それはあらかじめ用意されていた別れの言葉。
俺の筆跡で取り返しのつかない拒絶の意志。
佐倉はそれを俺の手に握らせると、満足げに微笑んだ。
「抱く。殺す。……そして最後は捨てる。……先生?完璧な三段落ちですね」




