突然の来訪
「先生。死にたいんですけど、怖いんです」
放課後の国語準備室。
西日に照らされた埃がスノードームみたいに舞っている。
目の前に座る女子生徒、佐倉はまるで明日の小テストの範囲を聞くような軽やかさで言った。
「だから、先生が殺してくれませんか?」
俺は手に持っていた赤ペンを机の上に転がした。
まだ大学を卒業して数年。
夏目漱石の『こころ』をどう解説するかで頭を悩ませていた俺にはあまりに重すぎる、あるいは軽すぎる問いだった。
「……佐倉、それは現代文の読解問題か何かだろうか?」
「いいえ。人生という名の、極めて難解な記述問題の答えです」
彼女は真面目な顔をして、俺を見つめる。
佐倉は成績優秀で目立たない、いわゆる典型的な『優等生』だ。
そんな彼女がなぜ国語教師の俺を殺人者に選んだのか。
そもそもなぜ死にたいのだろうか。
「なんで俺なんだ。他にも、もっと適任がいるだろう。ほら、体育教師の熱血漢とか」
「だって先生、言葉を扱うお仕事でしょう?」
佐倉が身を乗り出す。
かすかに制服から、石鹸の匂いがした。
「殺すっていうのは単に肉体を壊すことじゃないと思うんです。その人の物語を一番美しいところで終わらせてあげることでしょう。先生なら綺麗に句点を打ってくれそうだから」
俺は窓の外を見た。
校庭では野球部が声を上げている。
生を謳歌する声がこの閉ざされた準備室まで届いてくる。
「残念ながら俺の専門は続く物語を教えることだ。途中で筆を折らせる方法なんて、教職課程にはなかった」
「じゃあ、これから一緒に研究しませんか。人の、いえ、私の終わらせ方について」
彼女の瞳は冗談を言っているようには見えなかった。
絶望しているようにも、狂っているようにも見えない。
ただ、ひどく退屈そうに物語の結末を急いでいる。
「……とりあえず、その。殺す練習の前に、茶でも飲むか。国語教師らしく、苦い茶でも」
俺は垂れてくる汗を無視して電気ポットのスイッチを入れた。
カチッ、という小さな音がこれからの俺たちの奇妙な関係の始まりを告げる合図に聞こえた。
「……なあ、佐倉。流石に冗談だよな?」
俺は電気ポットがシュンシュンと音を立てる中、精一杯の苦笑いを浮かべて言った。
教師人生数年。それなりに生徒の『構ってほしい』というサインには慣れてきたつもりだ。
思春期の突飛な発言。
非日常への憧れ。
これもその類だろうと、自分に言い聞かせる。
「そんな物騒な冗談、職員室で言ったらクビだぞ?俺も、あるいは君も」
茶碗に安物のティーバッグを放り込む。
熱い湯を注ぐと、安っぽい茶の香りが狭い準備室に広がった。
だが、佐倉は笑わなかった。
机に置いた俺の赤ペンを細いしなやかな指先で静かに転がしている。
「冗談だったのなら、どんなに楽だったでしょうね。先生」
彼女の声は凪いだ海のように静かだった。
感情の起伏がない。
それが逆に彼女の言葉に鋭い実体を与えていた。
「私、毎日計算しているんです。自分が生きていくために必要なコストと、それによって得られるリターンを」
佐倉は俺の顔を真っ直ぐに見据えた。
その瞳の奥には、どす黒い虚無が居座っている。
「朝起きて、顔を洗って、学校に来て期待される『佐倉さん』を演じて。家に帰ればまた明日のための準備をする。仕事に就いたとしても……これ、あと何十年続けるつもりなんですか? 意味、あります?」
「……それは、みんな多かれ少なかれ抱えている悩みだ。大人になれば、もっと……」
「『もっと楽しくなる』って言いたいんですか? それとも『もっと諦めがつく』って?」
言葉を遮られた。
俺は湯飲みの熱さに指を震わせた。
彼女の絶望は、突発的な衝動じゃない。
長い時間をかけて丁寧に、論理的に積み上げられた『結論』なのだと悟る。
彼女にとっての十数年は常人にとっての何十年に等しいのだ。
「私にとって生きることは義務なんです。でも、自分で自分の物語の幕を引く勇気はない。怖いんですよ、痛いのも、暗いのも」
彼女は少しだけ声を震わせた。
それは少女が持つ唯一の、そして最大の生への執着に見えた。
「だから、先生に殺してほしい。誰よりも言葉を大切にして一文字の重さを知っている先生に。私の人生という支離滅裂な文章を完璧に校閲して、最後に美しい『。』を打ってほしいんです」
俺は用意した茶を自分の口に運ぶことができなかった。
目の前にいるのは救いを求めている迷い子ではない。
自分という作品を完成させるための『筆』を求めている、一人の狂った芸術家だった。
「……本気、なんだな」
「はい。先生が殺してくれないなら、私はいつかもっと汚いやり方で終わるしかない。それだけは嫌なんです」
外では下校を告げるチャイムが鳴り響いた。
その能天気なメロディが、今の俺たちには酷く不釣り合いに聞こえた。
────
「ただいま」
玄関の鍵を開けると、使い古したサンダルの隣に見慣れた靴たちが並んでいた。
高校生の頃から隣にいる、彼女――。
名前を呼ぶまでもなく、キッチンからトースターの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
「おかえり、あなた。今日、遅かったね」
エプロン姿の彼女がひょいと顔を出した。
数年後には当たり前のように苗字を共にしているだろうという予感。
そんな穏やかで予定調和な未来がこの家には満ちている。
「ああ、ちょっと生徒の進路相談に乗っててさ」
俺はネクタイを緩め、ソファに深く腰を下ろした。
嘘ではない。
人生という名のあまりに極端な進路相談だ。
「熱心だね。新米先生は大変だ」
彼女は笑いながら麦茶の入ったグラスをテーブルに置いた。
その屈託のない笑顔を見ていると、数時間前に準備室で聞いた佐倉の言葉がひどく現実味を欠いたフィクションのように思えてくる。
「……なあ。もし、自分の物語を完璧に終わらせたいって言われたら、どう思う?」
「え、なにそれ。また国語の教材の話?」
彼女は首を傾げ、俺の隣に座った。
その肩の温もりが俺を現世に繋ぎ止めてくれる。
「まあ、そんな感じだ。結末を他人に委ねたいっていう、ちょっと変わった主人公がいてさ」
「うーん。私ならその物語の続きを一緒に書こうよって言っちゃうかな」
彼女は俺の肩に頭を乗せてのんびりと言った。
「だって、結末なんていつか勝手に来るじゃない? 慌てて筆を置かなくても、面白いエピソードがまだあるかもしれないし。……あ、今日の夕飯は奮発してハンバーグだよ」
「美味しそうだ……そうだな。続き、か」
俺は彼女の髪に触れた。
この温かな日常は佐倉がコストと呼んで切り捨てようとしているものだ。
俺はこの幸福を彼女に教えるべきなのか。
それとも彼女が望む「美しい終止符」を探してやるべきなのか。
窓の外では夜の帳が完全に下りていた。
どこかで佐倉が一人でコストとやらを計算している姿が脳裏をよぎる。
「先生さん、お腹空いたでしょ。早く食べよ!」
彼女に促され、俺は食卓に向かった。
ソースの匂いが鼻をくすぐる。
けれど俺の指先にはまだあの準備室の埃っぽい空気と、佐倉が転がした赤ペンの感触がこびりついて離れなかった。




