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酔狐奇譚

作者: 塩治房智
掲載日:2026/01/24

 代官町(だいかんちょう)の寂れた立ち飲み屋「ふーじん」で先輩と世論を切りながら管を巻いていた折、忘れられぬものを見た。

 

 狐である。なにぶん出雲市内には出雲大社(いずもたいしゃ)があり、狐は神様の扱いとして有名な毛皮生物である。そもそも日本人にとってのコモンセンスなのは、ご承知の通りであろう。しかし、その者は、少し毛色が違った。比喩ではない。本当に毛の色が違ったのだ。夜に溶けるように黒く、街灯を反射するほど艶かしかった。先輩の持論など、頭の隅からも押し出してしまうほど、アガペーを感じた。写真を撮ろうとポケットに手を伸ばす。私は、思い出を大事にする男なのである。


 途端、視界がぼやけた。

「貴様ー!聞いておるか!」

 焼酎でじわじわと育て上げた先輩のご機嫌は、ついに空になったお猪口にあったはずの出雲富士で最高潮になり、そして私の眼鏡はハイボールのマドラーに、転職していた。

 この先輩は私と同じく市役所の一員であり、普段は地図を開き、まちづくりをしているわけだが、今晩は政治を斬り、己なりの国家論を組み立てているのであるが、それの精度が低いのが始末に追えない。私が施主であるならば、彼の作った国には住みたくないのは自明の理であった。

 不意に万華鏡のように光が揺れ、私の体内から、アルコールという名の()()()()()が、卓上にぶちまけられた。

 大将からお叱りを受け、罰金という人間史上最も許し難いものを支払い、その場はお開きとなった。

 いささかの気持ち悪さと、秋の夜の風の気持ちよさは、前者に軍配が上がった。余談ではあるが、出雲には築地松(ついじまつ)という風除けがある。日本海から吹く風を凌ぐための先人たちのありがたいお知恵であり、目下私の気持ちよさを削ぐ大変素敵な林であった。

 素敵というのはもちろんのこと、皮肉である。


 出雲大社の前を不規則な足取りで踊るように進む。酔った風体(ふうてい)の親父が、右手にワンカップを持ち、壁にもたれかかっている。さぞ、日ごろの鬱憤(うっぷん)が溜まっているのであろう。企業戦士に私は心の中で敬礼をした。

 「おい、こんなとこにお稲荷さんはあったっけな」と先輩が立ち止まった。

 記憶にはない。というより、そんなものはなかったはずである。一体の稲荷像が、西を向いていた。なにか、違和感があった。


 「うーん。発見記念だなー」と土産袋から稲荷寿司を一つ取り出し、備えた。蕎麦ではない。

 何を隠そう、私の粗相の代償に、先ほどの店で買わされた土産であった。私の財布から出たはずのものを、さも己の手柄のように神前に備える。なんという先輩の浅ましさであろうか。もし寿司がご息女のみっちゃんの腹に入らねば、私の腑は煮え繰り返るであろう。心の中で、財布の小銭を数えた。


 それから少し歩いたところで、私は携帯情報用端末を落としていることに気づいた。先輩にそれを伝えたが、「頑張れよー」と一言言うだけで、あとは稲荷寿司を一切れ私に渡すと、千鳥足で帰って行った。なにが市役所の仲間であるか。田舎の人間の心の温かさは少子化の煽りを喰らい、冷え切っているのではなかろうか。およそ人の親とは思えなかった。

 

 来た道を戻ると、先ほどのお稲荷様の前に、私のものと思われるそれが、立てかけてあった。親切な人もいたものである。先ほど備えた稲荷寿司をチラリと見ると、なくなっていた。一本の黒い毛だけを残して。親切な人かと思ったが、駄賃はもらっていったようだ。私の感じた温もりの返却を求めた。それならば私は、毛はもらっていく。黒い狐のことが頭から離れなかったからである。断じてわらしべ長者が頭によぎったのではない。

 

 それではあまりにお稲荷様が不憫なので、先ほど先輩から渡された寿司をまた備える。これで、腹は空かせまい。いや、歩いたら腹が減った。やはり食って帰ろうか。そう思い、供物に手を伸ばす。風が不意に止む。ほのかな獣臭がする。石の狐と目があった気がして、思わず両手を合わせた。

 酔いも覚めて、その場を離れた。怒られる気がしたのだ。体の中のアイロニーも、おとなしかった。酒は当分不要である。私は幾百回目の禁酒に成功した。

 稲荷像は、東を向いていた。それに違和感はなかった。

 

 翌日、写真の整理をしようと、端末を開いた。一つだけ撮った覚えの無いものがある。

 日付は昨晩。もしや、拾ってくれた誰かが写っているかもしれんと思い、急いでそれを開く。

 画面に広がるのは、くたびれたワイシャツを着た、頬を少し赤らめた禿頭の初老だった。手には、ワンカップを持っている。

「――寿司泥棒め」

 稲荷寿司は、酔いどれのつまみになったようだ。

 私は、黒い毛――もとい親父の髪の毛をゴミ箱に投げ入れた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

この短編とは毛色の違う長編ファンタジー

『いつか、呼べる名』を連載中です。

もし文章そのものを気に入っていただけたなら、そちらも覗いてもらえたら嬉しいです。

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