プロローグ.神の御使いと教皇
セレスティア皇国神聖教会本部内、聖騎士団棟の最上階。
聖騎士長の為に整えられたそのフロアには待合室、応接室、執務室の他に私室として休憩室と寝室が備えられている。
「聖騎士長様。どうか、お目覚めくださいませ」
「教皇シャンダ様がお待ちです。応接室にお通ししております」
「朝食をお出ししましたので、聖騎士長様も御仕度の合間にお召し上がりください」
部屋係の呼び声に聖騎士長と呼ばれたその人はのそりと体を起こす。
柔らかな布団が敷かれた寝台の上に座り、伸びた前髪をかきあげる。
寝台いっぱいに広がる煌めく金糸の髪を部屋係が腕に抱えるようにしてまとめていく。
「お清めの準備は出来ております。それとも湯浴みになさいますか」
「シャンダを待たせているのだろう。清めを」
魔術により浄化された湯に浸した櫛とタオルで髪を整え、体を拭かれる。
団服に着替えると、朝食の間に髪を編み込んでもらう。複雑に編み込まなければ毛先が床についてしまう髪の支度には複数の部屋係が同時に手を動かさなければならないので時間がかかる。
モーニングティーを飲み干すと同時に部屋係は「整いました」と髪から手を離して一歩離れた。
「待たせたな、シャンダ。朝から何用だ?」
扉で繋がる部屋を移動して応接室に入ると、待ち人は広げていた新聞から顔を上げずに「まぁ座れ」と言う。
テーブルの上に置かれた食器はすべて空になっていた。
朝食の時間をゆったり過ごしていた彼に、聖騎士長は気遣いをする気も起きず、新聞の一面に目を向ける。
「リビアニール陥落、か……」
「あぁ。西方の連中は砦となっていた国の崩壊に慌てふためていているそうだ。宰相閣下は内々に皇国に下ることを望む国を迎えるべく動いているそうだ」
「教会支部を整える手が足りていないんじゃないのか?」
セレスティア皇国は元々の領土に加えて複数の国を配下に置いている。
直轄とはしないものの、それらの属領国において独自の宗教を封じ、首都に属領の象徴として神聖教会支部を設けさせている。つまり、皇国に下る国が増えるということは、神聖教会も他人事ではない。
建設費用は属領国持ちで属領国からの信徒が新しく入ってくるとは言え、管理を担える人材は不足傾向にある。
「それとこれとは話が別ということだろう。人類がお前と言う切り札で防衛力を高める中、魔族も世界侵略の攻勢を強めている。よもや、神聖教会を受け入れず、加護を得られぬ国は滅ぶ未来しかないのだ」
「……それで?支部に回す小隊編成を計画しておけという話か?」
聖騎士長の役目は神聖教会が有する聖騎士団の統括と侵攻してくる魔族や魔物の討伐指揮。
教皇として教会本部を運営するシャンダから持ち込まれる話は、近年では各地に派遣する人員に関することが大半だった。
新聞を畳んでテーブルに置いたシャンダは部屋係を手招いてブレンドティーのおかわりを所望した。
「……今度の花祭り、成人を迎える私の孫娘と一曲どうだろうか」
帰れと一蹴して、お代わりを用意しようとしていた部屋係にテーブルの上を片付けるように命じた。
シャンダが居座ると駄々をこねること数分。
テーブルの上にはお代わりのブレンドティーが用意された。
「ほれ、娘の成人の時には広場の中央で踊ってくれただろう?その話を聞いて、孫も聖騎士長様と踊りたいと言ってきかなくてな」
「私が行くと騒ぎになって祭りどころではなくなると言ったのは誰だったか」
何のことやらと笑い飛ばして、聖騎士長の側付きに花祭りの日の予定を尋ねるシャンダ。
側付きは聖騎士長の様子を窺いながらも、緊急の討伐要請がなければ参加可能と答えた。
「アレス。お前が民衆の前に最後に姿を見せたのはいつだと思う」
アレス。それは、シャンダが名付けた聖騎士長の名だった。
出会った当初から一貫して自分の名を語らない聖騎士長に、呼びたい名を勝手に付けろと言われたシャンダが勝手に付けて以来、知る人ぞ知る聖騎士長の名となった名前。
その名を呼ばれると聖騎士長の役目ではなく、私生活を気遣われているのだと理解出来て、聖騎士長は言葉を詰まらせる。
「リビアニールの件もそうだが、近年はやや情勢が緊迫傾向にある。皇国に神の遣いありと安心してもらうためにもどうか。というのを建前に、偶には息抜きに民と戯れるのもいいだろう」
「神聖教会の者たちは私を神の遣いと崇めるが、民衆も同じとは限らない」
聖騎士長がこの世界に降り立ってから今日まで約50年。
その歳月の中で、聖騎士長は一切老いることなく、神々しいまでの美しい容貌を保ち続けていた。20代前半程度にしか見えないその姿のうち、唯一変化するのは髪の長さだけ。
変わらない姿は神の遣い故に不老なのだと神聖教会の人間はすぐに理解するが、不老を知った民には幾度も魔族の仲間では無いのかと疑いを向けられた。
そしていつからか、任務で戦場へと駆けつける時には民衆の目に留まらないように上空を飛行し、普段は聖騎士団棟で過ごすばかりとなった。
民衆の記憶からその姿は薄れ、麗しいと噂の聖騎士長の姿を知るのは、神聖教会に所属する者の他には聖騎士団と合同任務の機会がある皇国の騎士団など一部に限られている。
「誰が何と言おうと、私は神の遣いたるお前の友であることを誇りとしている。だから、孫に自慢させてくれ」
「……考えておく」
芳しくない返答にシャンダは苦笑してティーカップを手に取った。
「お前に私以上の友人がいるのか?この老体はいつまで持つかわからない。そろそろ新たな繋がりを考えなければ、老いぬその身で孤独に落ちかねんぞ」
「私は友を求めてここに留まっている訳じゃない。聖騎士団の目的こそ、私の役目に近いから共闘しているだけだ」
「強がるな」
出会った時には尊敬の眼差しを向けていたシャンダは、いつからか聖騎士長を子のように温かく見守るようになった。
不老の孤独を察した者の眼差しに聖騎士長の気はわずかに緩む。
不意に聖騎士長の耳に下がった通信魔石のピアスが光を帯びた。
―― 聖騎士長。通信局のルビリアです。ウェスタン地方エルダー支部より魔物の討伐要請が入りました。本日2000に街を一斉封鎖するとのことです。繰り返します。
通信魔石から聞こえてくる声に聖騎士長は立ち上がった。
「ルビリア、要請について承知した。聖騎士長よりゼクター隊長、ウェスタン地方エルダー支部から魔物の討伐要請が入った。第3部隊に出兵用意を命じる。1200を目標に準備が出来次第、エルダーに向け出立せよ」
部下に指示を飛ばす聖騎士長を横目にシャンダも体を伸ばしながら立ち上がる。
「さて、そろそろ朝議の用意でもするか。アレス、花祭りの日を楽しみにしているぞ」
忙しくなるだろうこの部屋に留まり続けてはならないと早々に応接室を出て自身の執務室へと向かう。
石造りの廊下を歩きながら、シャンダはとうの昔に引退した聖騎士団の武運を祈る。
「教皇様に礼っ!」
不意の声に振り返ると出兵準備中と思われる若い兵が敬礼の姿勢を取っていた。
当初は教会に似つかわしくないと言われていた作法も沁みついてしまえば違和感などない。
「生きて帰っておいで。君たちには聖騎士長様の加護があるとはいえ、彼も万能ではない」
「はっ!」
聖騎士長の訓練の賜物か、真っ直ぐな瞳に迷いはない。
自分が彼らくらいの時には出兵の度に怯えていたのになと当時を思い返す。
この世界では100年ほど前から、魔物から進化したと思しき魔族に人類が脅かされるようになっていた。
世界中に点在する魔物を討伐することで荒稼ぎしていた冒険者たちは、知性と狡猾さを持った魔族を前に次々と命を落とし、各国に危機意識が芽生える頃には魔族による支配領域が形成されていた。
各国は国軍を増強して砦や防壁といった守りを固めたが、防衛だけでも苦戦を強いられるばかりで、領地奪還にまで踏み込む余力はない。
そんな中、聖属性の魔術の教典を持つセレスティア皇国神聖教会の神官が、魔術で魔族の力により腐敗した地を浄化したと話題になった。
聖属性の魔術により浄化された武器を用いれば、魔族や魔物により大きく深い傷を負わせることが出来るとわかると、神聖教会は聖騎士団の結成を決意した。
神聖教会を母体に建国されたセレスティア皇国において、皇室の権威が年々強くなっていることに反発していた教会上層部が権力欲しさに下したその決定は、国民には讃えられたが、戦闘訓練を受けていない神官たちに衝撃を与えた。
当然の如く、聖騎士団に任命された神官は次々と神の御許へと導かれた。
浄化された武器をただ騎士団に卸せばよかったものを、と当時を語る者は亡き者たちに思いを寄せてよく口にする。
だが、その当時権力欲にまみれた上層部と魔物の恐怖に怯えて教会に救いを求める民衆の双方を見ていた神官たちは、誰も上申することが出来なかった。
「なんで、こんなことにっ……」
涙をこらえながら震える仲間にシャンダは大きく何度も頷いた。
教典の広域浄化魔術を使うべく高位の神官たちが準備をする時間を稼げ。
それが、シャンダが所属する部隊に命じられた任務。しかし、それ以上の指示はない。そもそも戦場指揮の知識が上官にないのだからまともな戦略が立てられるわけがない。
「ま、魔物が来たぞっ!」
「行くしか、ないのか……」
「主よ、どうか我らに救いをお与えくださいませ……」
持ち慣れない武器を手に、思うように動かない身体を叱責して前へと出る。
しかし、目の前には理性をなくした獣の群れ。すぐに怯んで動けなくなる。
「たたた、助けてくださいっ!神様ぁっ!」
迫りくる魔物に恐怖のまま主に縋る声を上げる。
しかし、すぐに腕を引っかかれたり、体に噛みつかれて絶望に悲鳴を上げることとなった。
シャンダも片足を食われて痛みに喘ぎながら、逃げ道を探す。
「死にたくない、死にたくない、死にたくないっ」
血塗れで地面を這う仲間の嘆きの声に、死の恐怖は高まるばかり。
そんな時、戦場に赤黒い魔物の血飛沫が広がった。
魔物の咆哮に耳を塞ぎたくなりながら、聖騎士団の神官たちは目の前の光景に開いた口がふさがらなくなった。
黒いローブを纏った人が魔物を相手に剣を振るっていた。ローブの下から覗く顔は、上半分が仮面で覆われていて素顔が分からない。
人と思えぬ身体能力で魔物から攻撃を受けることもなく、切り払っていく姿に痛みを忘れて見惚れていると、魔物を一掃し終えたローブの人は傍らに降り立った。
「お前たち、まだ死んでいないな?」
剣を片手に魔物の血に濡れた姿は、まるで死神にも見えた。
だが、その人は手を翳すと、体の一部を欠損した重傷者を含めて全員を完全に治癒させた。
「すぐに終わらせる。死なないようにだけ気を付けていろ」
淡々とした冷たい声。
だが、突然の救いの手に神官たちは両手を胸に当てて感謝の祈りを贈った。
「主よ、脆弱な我らに救いの手を差し伸べてくださり、感謝致します」
辺り一帯の魔物の討伐を終えたと言って戻ってきた人と共に聖騎士団の本隊へと引き返すと、本隊も魔物の襲撃を受けた後だった。
迎撃に必死で広域浄化魔術を行える状態ではなかったと語る部隊長は片腕を大きく抉られて焼いた傷口を氷で覆っていた。
「氷を溶かすぞ」
「え?」
後ろについてきていたローブの人は前に出ると手早く氷を溶かして部隊長の体を癒した。
何が起こったのか困惑する部隊長を置いて、次々に負傷者のもとに向かっては完全回復させていく。
「お、おい、なんだあの怪しい奴は」
「神の使徒ですっ!魔物を前に壊滅しかけた我らは主に救いを求めました。その祈りに応じるように目の前に降臨したあの方は、神の使徒としか言いようがありません!」
声高に語られた言葉に、癒しを受けた者たちが「神の使徒……」と繰り返してその姿を目で追う。
「おぉ……神は我々人類を見捨ててはいなかった」
「神の癒しに感謝を」
祈る声に耳を傾ける様子もなく、生きている者たちを癒し終えると、死者たちの側に膝をつく。
「どうか、次なる旅路は心穏やかに過ごせますように」
祈る言葉に神官たちは反射的に祈る姿勢を取って続く。
凄惨な戦場だというのに、とても神聖な場所にいるような不思議な気分になっていた。
「お前たちは浄化魔術を行う余裕はないんだったな?」
「ぇ、あぁ、はいっ!我らの神聖力は魔物を退けることに費やしてしまいました……」
「そう」
短い返事ひとつで納得すると、地面に手を翳してどこの言葉ともわからない呪文が唱えられた。
一瞬にして周囲が戦場から清々しい空気に満ちた草原と森に変貌した。
「前線に出るなら、もう少し鍛錬を積んだ方がいいよ。それじゃあ」
驚きに言葉をなくす神官たちに告げて立ち去ろうとするその人の腕を咄嗟に掴んだのはシャンダだった。
「わ、私たちは神聖教会の神官。神の遣いである貴方様に感謝の祈りを捧げたい」
「……神官?」
怪訝そうな声音で足を止めると、ぐるりと聖騎士団を見渡す。
誰もが鍛えておらず、合わない鎧を纏っている。その姿を確認して、頭を抑えた。
「……私に祈りは不要だ。何故神官であるお前たちが戦場にいるのか。話を聞かせてもらえるか?」
世界の状況を何も知らない様子だったが、神の遣いと理解した神官たちは不審には思うこともなく野営の場所を整えて説明の席を設けた。
「愚かな……私は創世神の娘神リーベラディに世界の救済を命じられてここにきた。聖騎士団が戦場に耐えうる力を身に着けるまで私が前線を引き受けよう」
紛れもなく神の遣い。
聖騎士団はその人を神聖教会本部へと招き、聖騎士長の座を捧げた。
最初は信じなかった上層部も、ローブと仮面の下の神々しいまでの美貌と見たことのない魔術の数々に平伏すまで時間はかからなかった。
その年の花祭りでは神聖教会が用意した聖服を纏い、背中に神の遣いであると示すように純白の翼を広げて民衆に大規模な癒しを贈ったことで、神聖教会に神の遣いあり、皇国の未来は安泰であると民を安心させた。
さらに言えば、聖騎士長を利用しようとした者は軒並み返り討ちに遭い、教会から姿を消すか聖騎士長に従順となった。魔物だけでなく教会の腐敗まで浄化してくれたことを機に聖騎士長を崇めるようになった神官は決して少なくない。
思い返せば長くも濃い50年だったとシャンダはふっと笑った。
既に当時の仲間たちは神の御許へと導かれた。
近年まで生き延びていた者たちの最期の心残りは全て聖騎士長の孤独にあった。
神聖教会では聖騎士長を神の遣いと崇拝する傾向が年々強まり、今から友人として側に立てる者はほとんどいない。
(世界に尽くす彼が、役目を終えるその時まで孤独に嘆くことがありませんように……)
シャンダは朝議の前に礼拝堂の神の像に祈った。
命が尽きるその日まで祈り続ければ、あの日彼を遣わせてくれた神はきっと聞き入れてくれると信じて。
聖騎士長サイドのプロローグ。