201x年の秋
新章です。今回もよろしくお願いします。
11月上旬。今下期の滑り出しは上々だった。
(下期に入って保守予算が下りたら、すぐに発注するよ)
俺にとっての太い客筋の数社が、そんな口約束を守ってくれた恰好での注文だった。
有難い事ではあるが、その分、俺個人としては多忙な日々となった。
この2週間で3度ほど終電を逃し、カプセルホテルを宿にする羽目になった。体は相当に疲れているのだろうが、日々感じる充実が、それを十分に補っている。
(40代、50代になったら、左団扇で窓際の席に座っているだけってのがいいなぁ。それが大きな企業に勤めている人間の特権だよ)
若い頃は、飲みの席でそんな発言もしたものだが、この年になって、それが必ずしも幸福とは限らないという事実に気付いた。多少の困難や障害や、そしてライバル企業や、そんなのを打ち負かして結果を掴み取る。労せずして得た成果や評価に、どれほどの充実が存在するというのか。
自分が変なことを考えているとは思わない。仕事と考えるから多少ややこしいのであって、遊びやゲームなら100%勝てると分かっている勝負なんて、面白くも何ともないじゃないか。
大企業に勤める者の特権。その考え方は分からなくもない。学生時代、多少人よりは勉強したという自負もある。今の自分を取り巻く環境が、その過去の努力の見返りと考えれば、その特権を受け入れても、決してバチは当たらないだろう。
そのことに安住している社員も、まるでいない訳じゃない。そんな奴らの眼は、総じて淀んでいる。加えて、奴らは何かにつけてエリート風を装う。これが俺には鼻持ちならない。
俺はそうなりたいと思わないし、そうでないと思っている。それでいい。それがいい。
22時を少し回った。どうやら今日は自宅に戻れそうだ。ふと作業の手を止めた時、俺が考えたのは、あのミカのことだ。
3人のヤクザ男たちを追い払ったあと、腹が減ったというミカと、外に出てラーメンを喰った。博多ラーメンだ。濃い脂の匂いが染みついた古びた店内の煌々とした灯りの下で、初めてミカの顔を間近で見た。店に置いてあった髪留めのゴムで、肩にかかっている黒髪を纏め上げたミカの横顔は、カミソリのような鋭い美しさがあった。チャイナドレスから着替えたラフなシャツとパンツ姿も、妙にこの女に似合っていた。
多くの言葉を交わした訳でない。ミカは替え玉も含めてラーメン二玉を、ほとんど無言で食べた。俺としても聞きたいことはいくつもあった。大男を転がした技のことや、おそらくはヤクザの幹部と思われる電話の相手。しかし、その問いを投げかけることはしなかった。所詮は俺の興味の域を出ないのだ。
(女の過去を詮索するような男は好きじゃない)
そんなミカのセリフを思い出す。詮索するつもりは毛頭ないが、それでも興味が尽きないのである。どうにも気になるのである。
「この調子で頼むよ」
課長の森が俺の肩を軽く叩いて退社してから30分と経ず、今日予定していた仕事の全てを俺は終えた。椅子に座ったまま、大きく背をのけ反らす。ボキッと一回だけ、背骨が鳴った。ふと思い立って、業務時間中は電源を切っている個人スマホを、俺はカバンから取り出した。電源を入れる。
こんな時代だ。あのミカがSNSの類を利用していても不思議ではない。少し、自分でも女々しいことだと自嘲する。
(しばやま・みか)
そう検索しようとして(しばやまみ・・・)と入力した段階で、予想候補が列挙された。そのほとんどが(芝山美波)なる人物についてだった。
“芝山美波最強”、“芝山美波柔心会”、”芝山美波美人“、“芝山美波、ルナ・ワイズマン”等々。
芝山美波・・・知らない名前だ。候補の中から、この“芝山美波”なる人物の写真が写されているアイコンをセレクトする。すぐにその写真がスマホの液晶いっぱい表れた。
なるほど、人が美人と称するのも納得できる。特にその笑った表情には、夏のひまわりのような輝きが感じられた。
ミカも美しい顔をしている。しかし、その美しさは、この“芝山美波”なる人物が醸す美しさとは、やや趣を異にしている。判り易く評すると太陽と月、そして光と影。
もちろんミカの方が月であり影である。
(いったい何やってんだ、俺は・・・)
ふと我に返り、俺はスマホをカバンに仕舞いこんだ。明日も忙しい一日となる。
俺はパソコンをシャットダウンした。