その店のミカ(6)
朝夕は涼しくなりましたね。皆さまご自愛下さい。
「兄さんも物好きだね。とっとと消えちまう方が賢明ってもんでしょ」
ベッドに横たわっている俺の背中を指で圧迫しながら、ミカが言う。
たぶん堅気ではない危険で下品な大男に衣服を投げつけ、ケツを蹴るようにしてこれを追い出したのがおよそ30分前。それまでミカの客として来ていた中年男は、そそくさと服を着て店を出て行ってしまった。
(トラブルはご免だ)
まさにそんな心の内を貼り付けた顔をして、この男は出て行った。
「ごめんなさいね~お騒がせして。これに懲りずにまた来てね~~」
男の慌て度合とはあまりにも対照的なミカの緩んだ口元と目尻。明らかに堅気ではないと分かる男が、(このままで済むと思うな)という脅し文句を吐いて出て行った直後なのだ。慌てて出て行った客の行動の方が正常であって、このミカの方が相当にずれているのだ。
そう考えている俺も、実はまだこの店に居残っている。あの堅気でない男が、仲間を引き連れてまた現れるかも知れない。そうなった場合、男が一人いるといないでは、店の女達の安心度が違うだろうという、ちょっとしたヒーロー気取りが理由である。
そこまでの義理はこの店にはないし、仮に男が仲間の一人でも連れてきた日には、長いブランクのある俺の柔道ごときではどうなるものでもあるまい。メリットも勝算も薄く、リスクだけはやたらと高い。
ミカという女も相当な馬鹿女なのだろうが、どうやら俺も大して変わりゃしないようだ。
(兄さんも帰った方が身のためだよ)
そんな言葉をミカから掛けられたが、それでも俺は居残った。自分でもおバカな事だと自嘲する。
(じゃあ、折角だから私のマッサージでも受けていきなよ)
そんな脈略で、俺は今日の目的であったミカのマッサージをいま受けているのである。
ミカの指が俺の背中を圧迫するたび、じわりとした甘い痺れが背中を巡る。不快な痺れではない。痺れが小さな渦巻いた電流のように背に発生する。そして俺の体はほくほくと温まるのだ。この温もりは気持ちの悪いものではない。不思議なことに、体が温まっていく度に、逆に体感温度が下がっていくような涼しさを感じるのだ。指先まで血が送られていくのがよく分かる。温もりと涼しさが、矛盾することなく俺の体の中で心地よく調和している。
程よく冷房の効いた部屋で、軽い掛け布団を被って寝ている様な安心感。
不思議な心地よさの中に、いま俺は浸っている。
「確かマエジマ組とかって言ってたね。保険かけとくかな。ちょっと一本電話しとくね」
15分ほどミカのマッサージを受けた頃だろうか。淀みなかったミカのマッサージが止まった。ここ数分の記憶が曖昧だ。おれは浅い眠りに落ちていたのかも知れない。
ミカがスマホを取り出し、どこかに電話する様子を、俺は背中で感じていた。
(もしもし、あ~~私・・・ミカ。ちょっといま、店の方で、面倒が起きてね~~~)
俺が聞き取れたのはそこまでだった。ミカが部屋を出て行ったからだ。どこの誰と会話しているのか、俺に伺い知れることじゃない。
いまもとくとくと、血が脈を打っている。相当に血行が良くなっているようだ。
体がぽかぽかとして実に心地よい。なんだか今はあまり好きではないはずのビールをぐいと煽ってみたい気分だ。それもキンキンに冷えたやつがいい。
2分にも満たない時間で、ミカが帰ってきた。まるで何事もなかったような落ち着きようだ。
興味が尽きない。この女には。俺はその興味の一つについて、問うてみた。
「さっきの技の事なんだが・・・」
「ああ、何てことないよ。汚いけど肛門に指を突っ込んで、いわゆる前立腺を・・・」
「いや、それじゃなくって、男が膝から崩れたあの技だよ」
「ああ、勝手にこけちゃったね。かなり酒を飲んでたようだったから。バカだよね」
いや、そうじゃない。確かに男は酔っていた。呼気の匂いから察するに相当の量だったはずだ。それでも男の足取りが千鳥っているとかではなかった。しっかりしていた。
「俺も柔道の経験がある。あれば偶然じゃない。それくらいは判る。あれは技だ。それも柔道の技じゃない。アンタ、何者なんだ?」
ミカのマッサージが一瞬とまった。一瞬だ。呼吸半個分ほどの僅かな停止。しかしすぐにマッサージは再開された。
「女の過去についてあれこれ詮索するのは、あまり関心しないわね。少なくとも、私はあまり好きじゃない。そんな男」
乱暴に玄関のドアが開かれる音を聞き、複数の人間が店に入ってくる気配を感じたのは、まさにその時だった。