停滞(7)
今回もよろしくお願いします。
(一本だけビールを頼もうか?)
2時間以上も居座った居酒屋であれほど酒を喰らった後なのに、そんな森の一言がきっかけで、俺たちは瓶ビールを一本注文することになった。こうなった場合、大抵は一本では済まなくなるのだが。すぐに運ばれてきた小さめのグラスは4つ。つまり人数分。
「あっ、私はお酒飲まないんでいいや」
「それじゃあウーロンか何か頼みますか?」
初対面で年上の森に対してミカはため口。森の方はと言うと、これが気遣いの感じられる敬語でミカに話しかけている。何だか妙な感じだ。案外と人見知りで、女には優しいのかも知れない。この森という男。
こうして森と金本、そして俺の3人はビール。ミカは大きめのグラスに入ったウーロン茶を飲み始めた。
ラーメンがテーブルに運ばれてくるまでの短い時間に、森はグラス2杯のビールを胃に流し込んでいた。その飲み方が乱暴だ。荒れている。
「ったく、やってられんよな」
俺が麺をすでに食べ終えて、丼には汁が僅かに残っている程度となった頃、ついに森がそうぼそりと零した。それまでは腹に不満を抱え込みながら、ある程度は部外者のミカに遠慮していたのだろう。案の定すでに二瓶目のビールが空になっている。
(そうですね)
そんな相槌を返すところなのだろうが、それすらかったるく思えた俺は、顎を小さく引く挙動のみで森に返答した。
「な~んだか3人とも暗いなぁ。ラーメンって物は、一人静かに麺とスープのハーモニーを楽しむか、明るく楽しく皆で食べるか。そういう食べ物なんだよ」
変わらずため口のミカ。ミカに今の俺達の心情なんざぁ分かりっこない。文句を垂れるつもりなんて毛頭ないが、それでも愚痴らずにはいられない。
「サラリーマンってのも大変なのさ」
「大変なのはサラリーマンに限った話じゃない。人が生きていくってのはそんなもんだ」
そう、ミカの言う通りだ。中学卒業後、若干15才で日本を飛び出し、家族に頼らず生きてきたはずのミカのこれまでの苦労が、俺のように親の金で大学まで進み、人並みなサラリーマンとして経験した苦労以下とは考えられない。
「でっ、色男3人を悩ませるサラリーマンの苦労って何だ?このミカちゃんが皆の悩みを聴いてやろうじゃないか」
薄めの胸を張りながら、そんな言葉を口にするミカに、俺は苦笑せざるを得ない。俺の様な平凡極まりない人間には想像もできないような苦労を、この女は経験していることだろう。例えそうであっても、ミカのアドバイスが俺たちのいま置かれている状況を好転させるきっかけとなり得る可能性はない。俗な言い方をすると住んでいる世界が違うのだ。
「大企業とそうでない俺達の会社との差だよ。俺たちを愚痴らせるのは」
言ったのは森であるが、(おいおい)と突っ込みたくなる。俺たちの悩みをミカに打ち明けたところで何も始まらないじゃないか。まあ酒の入った森とはこんなものだ。仕方がない。いいだろう。このまま会話の流れに任せるしかない。酔っ払ったサラリーマンの愚痴が答えに辿り着くことは無い。
森の言葉にミカが首を捻る。分からないだろう。分かるはずがない。
「大企業様がグーを出すから、お前たち小者はチョキを出せって言われてるのさ」
なんとも下手くそな森の補足だ。それじゃあまるで意味が伝わらないばかりか、余計に話がこんがらがる。金本ですら理解できるかどうか。金本は今日あの会議室にはいなかったのだから。
ミカが何やら思案している様子。アンタには何も期待していない。考えるだけ無駄だ。首を傾げて視線を斜め上に向けたミカの表情は色っぽく魅力的ではあるが。
「相手がグーを出すのが分かってるんなら、裏切ってパーを出せばいいじゃない」
まあ、その程度の思考だろう。仕方がない。
「そのパーの代償がデカすぎるのさ。会社としてね。奴らはグーを出す。俺たちはチョキを出す。決まりさ。他に選択の余地なし。それが組織であり社会だ」
言った森が苦々しく煽るようにビールを喉に流し込む。なぜ森がミカにそんな話をしているのかは分からないが、森が悔しがっていることはよく分かる。いや、森以上に俺も悔しいと思っている。
「じゃ、誰か他の人にパーを出して貰えば?」
もうそろそろ止めにしないか、この不毛な会話。森だってミカだって、もうとっくにラーメンを食い終えてるじゃないか。金本も相当に困っている様子だ。今日は体というより心が疲れた。早く家に帰ってもう休もうじゃないか。
「いま、何て言った?」
グラスを宙に止めたまま、森が意外に真剣な顔でそう口にした。何かミカの言葉や態度が森の癇に障ったか。彼女に俺達の仕事なんざぁ分かる訳はないし、それに止めておいた方がいい。ミカは強いよ。俺たち大の男3人で飛び掛かっても到底敵わないくらいに。
「いま、何て言った?」
森が繰り返す。この時、なぜか森の視線は俺やミカの方には向いていなかった。その問いは自分自身に向けての問いのようだった。




