停滞3
今回もよろしくお願いします。
T社。電気設備とプロセスオートメーション事業を多角的に展開する大手総合電機メーカ。
年間売上高は5兆円をゆうに超える。単純に売上高で比較すると俺の勤める会社の約7倍。
まさに横綱と平幕以上の格の違いだ。
このT社が、まさかCRプロジェクトへの参入を画策しているなんて、想像もしていなかったし、したくもなかった。
吉川さんからT社の名を聞いた時には、内臓の温度が1,2度は下がった気がした。
「T社ほどの大企業がCRプロジェクトに今さら本気で参戦してくる理由が、僕にはよく分かりません」
俺のそんな意見は、心のどこかでT社という強敵の参入という我が社としての非常事態を否定して欲しい願いがあったのだろう。
「ビジネスの規模感ではその通りかも知れません。それでも企業イメージの向上という観点に立てば、あながち・・・」
吉川さんの言う通りなのである。俺にも分かっている。エネルギー多消費産業の代表である非鉄金属製造ライン、しかもその分野でのトップランナー企業のサステナブル社会実現に向けた革新的な製造ラインの改善。それの第一段。これに参画する事の社会的イメージは決して小さくない。
仮にT社ほどの大企業が、採算を度返しして安値攻勢を掛けてきたなら、俺たちの様な中規模企業は一たまりもない。資金力の桁が違い過ぎる。それでも・・・
「手前味噌な話になりますが、弊社は3年以上も基本設計に関わっています。いかにT社であっても、今からの参入で、それが追いつくとは思えません」
俺はT社参入という脅威を否定する材料を探している。所詮は俺の心が現実逃避しようとするが故の思考だ。自分でも分かっている。
「大友さんの仰る通りだと思います。一から設計をスタートするのであれば」
一からスタートすれば無理だ。それでは一からでないスタートとは一体なにを意味するのだ。
「ご存じの通り我々は5年近く、本件の基本設計を進めてきました。ほぼ機械的仕様は固まったと言っていい。もちろん大友さんを始め、御社の協力があっての成果です」
その通りだと俺も思う。ここは謙遜するところじゃない。当社の設計部門の人間には、相当の無理をお願いした経緯もある。ここまでの俺達の努力には自信を持っていいはずだ。
「憚りながら、極めてビジネスライクな話をすると、当社は御社に基本設計の協力費用を支払っている」
確かに数百万円の注文を貰っている。しかしそれは我々が設計協力に費やした費用のごく一部にすぎない。必要に応じて工場に融通よく出入りするための通行手形、そして機密事項の含まれる書面のやりとりを円滑にするための、云わば形式的な契約に過ぎなかったはずだ。
「本契約によって検討された内容の所有権は、すべて当社に帰属するものとする」
基本契約仕様書に明記されていた文面を、吉川さんが無機質に口にした時、一瞬にして俺の頭の中が真っ白になった。吉川さんが懸念しているいま現在の状況が、はっきりと俺の中で具現化したのだ。
「まさか御社の事業部長が、基本設計の内容をT社に提供している。吉川さんはそう仰っているのですか?そんな理不尽なやり方が許されるのでしょうか?」
まだたっぷりとビールが残っているジョッキが、俺の手の中で震えていた。いったん俺はそれをテーブルに置いた。
「許されないでしょうね。ビジネス倫理的には。だからこそ事業部長はこっそりとそれをやっているのではないか。それが私の推測です」
「そんな・・・」
もう俺には続く言葉がない。リスクマネジメントとは最悪のシナリオを想定して行うもの。
ビジネスの鉄則であるが、吉川さんの推測は、俺が想定していた最悪を、さらに通り越していた。
「本契約によって検討された内容の所有権は当社に帰属するものとする。基本契約にこれが記載されている以上、事業部長の行動はコンプライアンスに反するものではない。倫理的には受け入れ難いものがありますが。大友さんの立場なら、もっとそう感じるでしょう」
そんな慰めに似た吉川さんの言葉は、もう俺の心には届かなかった。
出社途中の電車の中、俺は悩んでいた。もちろん、昨日の吉川さんからのヒアリング内容を社内で報告するかどうかを悩んでいるのである。
いま現在、俺や吉川さんの懸念は推測の域を出ない。不確定な憶測で、社内を混乱させる事は今の段階では得策ではない。逆に悪い情報や状況こそ、早いうちに対処する事がビジネスの鉄則でもある。
しかし、その報告の仕方も難しい。その情報元が吉川さんであることが分かれば、彼の立場を危うくすることも十分に考えられる。それは避けねばならない。
そんな考え事をしながらの一時間近い乗車時間は、あっという間に過ぎた。
事務所のデスクに座る時には、多少俺は落ち着きを取り戻していた。
報告はすべきだ。情報元も吉川さんであることは、この案件の経緯を知るものなら察するだろう。
注意すべきは、貴重な情報を提供してくれた彼の立場が悪くなること。具体的には、慌てふためいて彼やその上司に対して接触すること。これは慎まねばいけない。その前提で、社内には情報を展開すべきだ。俺の腹は決まっていた。
朝会が終わるやすぐに課長の森に報告しようとしていた俺だったのだが、その報告はできなかった。森と俺が、営業第一部長から会議室に来るよう呼び出されたからである。




