その店のミカ(3)
今回もよろしくお願いします。
「あのあと痛快だったんですよ。横川さんがねぇ・・・」
定時30分前に出社して席でパソコンのキーを叩いていた俺に、興奮気味に声を掛けてきたのが河田だった。
先週金曜日の夜、ああいう退席の仕方をした俺は、月曜日の今日の出社は多少憂鬱だった。
これまでも課長の森と、飲みの席でまるで悶着がなかった訳ではない。そんな場合も翌日会社で顔を合わせると、何事もなかったかのように森は接してくる。酒の席での事と割り切れる性格なのか、それとも本当に覚えてないのか。後者だとするなら得な性分だ。でっ、何か痛快だったって?
「横川さんですよ。横川さんがね、課長に向かって、(アンタが担当だった頃の業績も大したことなかったじゃないか。アンタがいま課長に収まってんのは、単純に部長に気に入られただけだろう)って・・・あの青ざめた課長の顔、大友さんにも見せたかったなぁ~」
俺に対する同情が、そう振舞わせるのだろう。必要以上に河田は嬉しそうに、大袈裟な身振りを交えて俺に報告する。どうだっていいさ。給料をもらっている以上は俺もプロだ。そんな飲み会での悶着で、仕事の取り組み姿勢がどうこうなるほど子供じゃいられない。まして課長の重責を背負う森なら、なおさらだろう。
「まっ、下期はみんなで頑張って、あの課長を見返してやりましょう」
ああ、そのつもりだよ。いや、そんな一時の感情の起伏じゃない。淡々とプロの仕事をするまでだ。俺の顧客は、今年度末に大きな設備投資を計画している。こつこつと積上げれば、自ずと結果は付いてくるさ。
そう自分に言い聞かせ、俺はパソコンの液晶に視線を戻した。
21時を少し前にして、今日こなす予定だった業務の大方が片付いた。いまも森は席にいる。
他のライン課長クラスで、いまも残業している者はいない。ほぼ毎日、最後まで会社にいる幹部社員が森なのだ。遅くまで仕事をしている奴や、休日出勤してくる者は、大体が同じ顔触れだ。仕事の負荷云々というより、これはもう性格なのだろう。
いまも森がいるからという訳でもないだろうが、20代から30代前半の若手社員がパソコンの画面を見つめている。それほど忙しなく手を動かしている様子じゃない。そう、これがいけないのだ。直属の上司が、いつまでも会社に残ってちゃあ、若い社員が退社しにくい。
とっとと上司には帰ってもらって、残った若い社員が、その上司の悪口をネタに盛り上がる。時には一緒に飲みに出ていく。
そんなのが社内のコミュニケーションであり、仲間意識を育む土壌になるのだ。
もう俺は若手とは言えないが、ここは率先して行動すべきだろう。パソコンをシャットダウンする。
「お先に失礼します」
「お疲れ」
視線はこちらに向けなかったが、森がぼそりとそう言った。
場所は覚えている。金曜日の夜は、それほど酒が入っていた訳じゃない。
時刻は22時になろうとしている。もし1時間もマッサージを受ければ、自宅に戻る頃には日付が変わっているだろう。今日はまだ月曜日。週の初めから睡眠不足ってのはいかがかと思うが、それでも興味が上回った。あの“ミカ”という女に対する興味である。
すぐにあの紫帯びた看板を、俺は発見した。ドアを開く際、ほんの一瞬だけ手が止まったが、それでも俺はそれを開いた。
「イラッシャイマセ」
またも片言の日本語を最初に聞いた。3日前にも俺を出迎えた小太りの中国人だ。今日も赤いチャイナドレス姿だ。
「オキャクサマ、ハジメテデスカ?」
3日前の事をもう忘れていやがる。営業職の俺からすれば、この時点で接客としてすでにアウトだが、一体1日に何人の客がこの店を訪れるのか、俺は知らない。目くじらを立てるのも大人げない。
「ミカさんを指名できるかい?」
女の質問の答えになっていないが、それでも通常の頭脳の持ち主なら、もう分かるだろう。一石二鳥ってやつだ。
「ミカサン、ホカノオキャクサン」
ザワっと神経が波立つ。一体なんのざわつきなのか、自分でも不思議だ。あのミカが、他の客の体をマッサージしている。その事にいい気がしない。おかしな感覚だ。あのミカと言葉を交わしたのは、ほんの数分。しかも彼女の仕事はマッサージ師なのだ。客にマッサージを施して当たり前。どうも今の俺は、どうかしているらしい。
「どれくらい時間がかかる?」
「40フン・・・」
40分。微妙な時間だ。俺は迷う。1時間と言われていれば、今日は諦めただろう。30分なら迷わず待つだろう。40分とは、すなわちそんな時間だ。
この時点で、俺にはいくつかの選択肢があった。
今日は諦めて大人しく帰宅するか、11時くらいから30分マッサージを受けて、日付をまたいで自宅に戻るか。後者の場合、ここでしばらく待つか、軽く一杯近くでひっかけて、頃よい時間に戻ってくるか。考えながら、まずは入口付近に3つ置かれていた小さな木製の椅子に腰を下ろした。
何か重たい物が倒れるけたたましい音が、入口から一番近い部屋の中から聞こえたのは、まさにその時だった。




