停滞
新章です。それと作品名を変更しました。
今後ともよろしくお願い致します。
いま俺には気になっている事が二つある。
一つはあのマッサージ店のミカのことだ。
二人で極道の組長室に乗り込むという、いま思い返しても肝が震える経験をしたのは、もう一カ月も前となる。その後、二度ほど、俺は店に顔を出したが、ミカは出勤していなかった。
一千万の金を得た中国女も、もう店を辞めたらしい。あの時の言葉通り、彼女は故郷に帰ったのかも知れない。
ミカ個人の連絡先を知らない訳ではないし、連絡する口実はいくらでもある。ミカの手引きで、世界的プロゴルファーであるマリア・リーを、N社のゴルフコンペに参加させた。これはN社の内部でも大変な話題になった。この時の礼も、まだミカにはできていなかった。
それでも、やっぱりミカに連絡をすることを、俺は躊躇っている。
(ここに居る奴、全員死んでしまえ)
それが最後に聞いたミカの言葉なのだ。ここに居る奴全員の中に、たぶん俺も含まれている。あの時のミカの剣幕を思い出すと、どうにも俺は躊躇ってしまう。
ミカの過去について、少しばかり彼女の姉である芝山美波は語った。ほんの7,8分程度の会話の中でのことだ。
ミカと芝山美波は、柔気道開祖である芝山惣十郎の曽孫である事を知った。
二人は年にして3つ違いで、姉の美波は、高校卒業と同時に東京の大学に進学し、妹のミカはその半年後、たった一人で日本を飛び出したらしい。当時15才。所持金は30万円にも満たなかったという。その30万円に満たない金も、ミカ自身がアルバイトで得た資金だったようだ。そして20年。
「日本に帰ってきてたんですね、あの娘」
その芝山美波の一言が、この実の姉妹の20年間の疎遠さを端的に表していた。
10年ほど前に、たった一度だけ、ミカはこの姉妹の実家に葉書を送っている。
ネパールからの発送で写真入り。その背景には、蒼すぎるほどに碧い空と、白い氷に覆われたエベレストの頂上が写っていたらしい。
(I am living.)
添えられた文はそれだけ。日本語に訳せば(生きているよ)という生存報告のニュアンスになるだろうか。
英語は堪能。店では中国語も使いこなす。そんなミカの言語力は、こんな過去から身に付いた能力なのだろう。
15才のまだ少女と呼んでいい年齢の女が、一人海外に飛び出し、そして20年の間に何を経験し、どう生きたのか。ごく普通の家庭に生まれ、人並みに進学と就職をして、40半ばに至った俺なんかには、全く想像の及ばないミカの半生であるはずだ。
そして俺が、どうしてミカに惹かれ始めているのか、その理由の一端も分かったような気がするのである。
(ミカに会いたい)
ふと仕事の手を止めた時、そんな感情が俺の中で立ち上がってくるのは、紛れもない事実なのだ。そしてそれは一般的な恋愛感情とは、どこか違っていた。
そして、もう一つの悩み。いや、悩みと呼ぶべきか否か、なかなか判断が難しい。今の段階では漠然とした不安と表現するのが正しいだろう。
N社向CRプロジェクトの進捗が、何やら芳しくないのである。以前は、メールも含めれば毎日のように連絡のあった客先担当者からのアプローチが、ここ最近パタリと止んだのだ。
主だったフィージビリティスタディは終わっていて、あとは決定した機械的仕様を購入仕様書に落とし込んでいく段階である。相手は大企業だけに、多くの部門や人の目を介するだろうから、正式な購入仕様書として我々がこれを受け取るのには、少しばかり時間を要する。それはあり得る。仮にそうだとしても、その叩き台くらいは、設計協力を惜しまなかった当社には、さすがにもう提示があっても良さそうなタイミングなのである。
進捗の確認をすべくこちらから入れた電話でのやり取りも、何だか奥歯に物が挟まったような相手の態度が気にかかっていた。
設定されている完工期日から逆算すると、まだ十分にゆとりのある時期ではある。それでも、ここでプロジェクトの進捗を停滞させる理由も、逆に見当たらない。数千億円の設備投資案件で不確定要素も少なくない。金も時間も、歩留まりが有ればあるほどいいはずなのだ。
(たまたま近くに来ていたもので)
そんな口実を付けて、遂に俺は、先週末にノーアポイントで客先を訪問した。ビジネスマナーには反するが、こちらの本気度をアピールしてもいいタイミングだ。それが許されるだけの関係性は、俺なりに築いてきた自負もある。
突然に現れた俺の姿を見るや、吉川という名の担当者はあからさまに困惑した表情を見せた。この瞬間、俺の抱いていた不安が、ただの思い過ごしでないことを直感したのだ。
もう4年近い仕事での付き合いであるが、彼のそんな顔は一度として見たことが無かったのである。
(少し今バタバタしていて・・・)
(上司の承認が、未だ得られず・・・)
(若干の書類の不備と行き違いが・・・)
ありきたりの彼の言い訳の数々が、決してそれが本質ではないことを、俺は経験上見抜いていた。時折に彼の視線が辺りを気にするように泳ぐ。周りの目と耳を気にしている人間の所作だ。そんな人間観察の習慣と能力も、俺のような営業職には欠くことのできない資質の一つである。
(誰のネジを巻けばいいですか?)
普段ならそんな押し込みも辞さないのが俺の営業スタイルであるが、今回は一筋縄ではいかないようだ。おそらく今日この場では、これ以上の情報を聞き出そうとするのは百害あって一利なしだろう。別途作戦を考えた方が良さそうだ。
「本日は突然の訪問、申し訳ありませんでした。今後共よろしくご指導お願いします」
いつも以上に丁寧な挨拶をして、俺は客先の事務所を後にした。心は決して晴れてはいない。
業務用携帯が上着の胸ポケットで震えたのは、俺が客先の事務所のエントランスを、正に出たタイミングだった。計ったようなタイミングであったのは、きっと計ったからなのだろう。
予想通り、ついさっきまで顔を合わせていた吉川さんからの着信だった。




