ミカの戦争(9)
本章終了です。次章もよろしくお願いします。
赤い車の助手席に乗っている。時刻はいつの間にか午前8時を20分も過ぎていた。出勤途中のサラリーマンの姿が目立つ。
ちらちらと運転席に座る女に、俺の視線は時折に向く。
この女がいま世界最強と呼ばれている芝山美波なる人物であることは、親父さんと彼女のやり取りから、すでに俺は知っている。
ミカとこの芝山美波とのたった数秒の攻防は、柔道の有段者である俺から見ても、異次元のレベルだった。仮に俺が二人の間に割って入っていたなら、たちまちに打ちのめされるか、投げ捨てられるかだったろう。それはもう疑う余地のない確信のレベルだ。
「馬鹿野郎、バカ野郎。ここに居る奴、全員死んでしまえ」
そんな捨て台詞を叫んで、ミカは一人で部屋を出て行った。その後に続いた沈黙は10秒だったかも知れないし30秒程度に及んだかも知れなかった。
「さあ、お開きだ。ここはいつまでも堅気の人間が居る場所じゃない。とっとと帰った帰った」
二度ほど柏手を打った親父さんの顔は、どこか楽しそうだった。それは俺の思い過ごしかも知れない。
ミカが去った後、次に部屋を出たのは黒服二人。二人で完全に気絶しているシュンスケを担ぎ上げて出て行った。担ぎ上げられたシュンスケの口から、(つぅ~)と黒く太い液体が床に垂れた。この後シュンスケがどうなるのか、俺には想像が及ばない。
続いて一千万円の金を受け取った中国女が、こそこそと何かから隠れるように扉の向こうに消えた。金の入った黒いバッグを、しっかりと両腕で抱えて出て行った。
部屋に残されたのは親父さんと芝山美波なる人物と、そして俺の三人。またも沈黙が発生する。やはり親父さんがその沈黙を破った。
「どっちが先だったんだい?」
語尾の抑揚から、それが何かを問うた言葉であることは理解できたが、誰に対して何を問うたのか、俺にはさっぱり分からない。親父さん以外に、俺と芝山美波しかいない。少なくとも俺に対する問いではない。それが俺の分かる事の全てである。
「どっちが先とは?」
俺よりはたぶん若く、そして小柄なこの女の口調は、臆するところがまるでなさそうだ。相当に肝の据わった人物なのだろう。若しくは親父さんと親しい間柄か。それでも反社の側に身を置く人物には到底思えない。
「だからミカがシュンスケの腕をぶち折ったのと、顔面に肘をぶち込んだのと、どっちが先だったかって質問だよ」
俺には見えなかった何かが、親父さんにはちゃんと見えていたようだ。これは視力どうこうの問題ではなく、完全にテンパっていた俺と、そうではなかった親父さんの差というところなのだろう。
「腕を抱え込んだと同時に、エンピを打ち込んだ。次に肘を極めて折りながら下に崩し、地に伏せた。順序としてはそういう事になります」
どうやら二人の会話は、ミカとシュンスケの体がぶつかってから崩れるまでの、あの瞬間の話をしているらしい。おそらくは一秒にも満たない時間の攻防だった。エンピという言葉の意味が、俺には分からない。
「相変わらずえげつないねぇ、柔気道の技は。でっ、どっちが勝っていた?」
またも親父さんの問いだ。わずかに首を傾げて、その質問の意味を、芝山美波が確認しようとしたようだ。誰がどう見てもミカの勝ちじゃないか。訊くまでもないことだろう。
「あのまま続けていたら、ミカかお前のどっちが勝っていたかって事だよ」
「分かりません」
ごく僅かの間迷ってから、芝山美波がシンプルに答えた。
「へぇ、世界最強の芝山美波をして分からない・・・か。あながち謙遜だけでもなさそうだ」
「では、私達もこれで失礼します」
私達と言うのは、芝山美波本人と俺ということになるのだろう。慇懃に頭を下げた彼女の仕草には敬意こそ感じられたものの、心を許すような素振りは全くなかった。飽くまで中立。親父さんの言葉そのままなのだろう。
いずれにせよ、俺は芝山美波に続く形で、ようやくこの部屋を出ることができたのである。
「妹がご迷惑をお掛けしたようで・・・」
前嶌組の門を出て、すぐに芝山美波は俺に頭を下げた。先般親父さんに下げた時と同じくらいの頭の低さだった。
(いえ)と返答を返しつつ、この芝山美波はミカの姉なのかと得心した。この時には俺も思い出していた。以前にインターネットか何かの情報で、この芝山美波なる人物の写真を見たことがあるのだ。小さな液晶画面で見た笑顔は爽やかで、そして美しかった。その爽やかさが今日の彼女には存在しなかったため、俺は同一人物とはすぐには気付けなかったのだ。
「最寄りの駅までお送りします」
そんな芝山美波の好意に甘える格好になって、俺は芝山美波の運転する車の助手席に座っている。
正直なところ、いま俺のいる場所がどこなのか、その見当が付いていない。昨日ミカの運転する車に乗っていた時間は10分程度。ミカの勤めるマッサージ店からは、その位の距離の場所であるはずだ。しかし公共交通機関が近くにあるのかないのか、その事すらも分からない。俺は車に乗り込むしかなかった。
「失礼ですが、妹とはどのような関係なのでしょうか?」
車が走り出して数分が経過したとき、芝山美波に問われた。それまで俺達二人は全くの無言だった。
(ただのマッサージ店の客です)
そうとしか俺には答えようがなかった。何度か一緒に食事をした事があるとは言え、ただの一顧客を超えるものではないという俺の認識は、たぶん間違っていない。
(そうですか)
芝山美波がそう相槌を打ってから、またも沈黙の時間が発生した。お互いの言葉と言葉に挟まる間が、相当に気まずい。でも、それは仕方がない。たった今まで、俺達はミカの言葉を借りれば、戦争の真っただ中だったのだ。取り留めない世間話なんかをする方が、むしろ不自然なのだ。それでも・・・
「二人の攻防、凄かったです」
素直な感嘆の気持ちが言葉になっただけだ。この芝山美波とは何者なのか、そしてミカは。深く詮索するつもりなど毛頭に無かったが、それでも出てしまった俺の言葉がそれだった。
芝山美波からの反応はない。またも静寂。語りたくないならそれでもいい。ただの俺の素直な感想なのだから。
「今さらですが、なんとお呼びすればいいでしょうか?お名前をまだお聞きしていません」
そういう事か。彼女が寡黙であるという事だけではなく、俺を何と呼べばいいのか考えていたらしい。
「申し遅れました。大友と申します」
ごく小さく俺は頭を下げて名乗った。同時に芝山美波もステアリングを握りながら、少しだけ首を動かし、会釈を返した。驚くほどに顔が小さい。スーツに包まれた肩幅も狭そうだ。先般、神業の様な投げを間近で見たばかりだと言うのに、こんな小柄な女性が、いま世界最強と呼ばれているという事実が、まるでピンとこない。
「大友さんは柔気道という言葉をご存じですか」
柔気道。もちろん耳にしたことはある。柔道や空手ほどメジャーではないが武道の一ジャンルのはずだ。
「合気道の流派の一つ。そんな風に今まで思っていましたが・・・」
特に知ったかぶることもせず、遠慮するでもなく、俺は自分の認識をそのまま口にした。
「厳密に言えば、私達のやっている柔気道は、合気道の一流派ではありません。合気道も柔気道も、元は大東流合気柔術から分かれた、云わば兄弟のような関係です。大東流の徒手体術と柳生心眼流の剣術、それに精神哲学を紐づけて道としたのが合気道。大東流の徒手体術を母体に、琉球唐手の組み打ち術を融合させたのが柔気道。そう考えて頂いて、ほぼ間違いではありません。付け加えるなら、柔気道では経絡、分かりやすく言うと人体にある無数のツボの研究と活用にも重きを置いています。つまり・・・」
急に芝山美波が多弁になった。そのことに俺が戸惑ったことを感じ取ったようだ。
「すいません。大友さんには興味のないお話でしたね。失礼しました」
芝山美波が小さく肩をすぼめた仕草には、ミカにはない奇妙な愛嬌があった。