ミカの戦争(8)
ちょっとだけ佳境かな?って感じです。
今回もよろしくお願いします。
俺の両眼が空を彷徨っているのは、ただただ探しているのだ。この状況を止める役割を担う誰かを。
一人の女と大振りのナイフを手にした男が本気で殺し合う?そんなのって、誰かが止めるのが世の常識ってものだろう。その誰かが誰かだけの問題だ。この状況は悪い冗談だと信じたい。
(誰が止める?)
その人物を探す目的で、俺の視線が室内を泳いでいる。
親父さんは、この状況を作った張本人だ。真っ先に候補から除外される。
ケンジにも無理だ。親父さんの言う事は絶対なのだから。
ケンジの脇に立つもう一人の黒服。彼にも期待できない。立場としてはケンジの後輩。年齢的にもそう考えるのが妥当だろう。
若い中国人女には多少望みがある。いまこの場にいる人間の中で、(そんな事は止めてくれ)と主張できる立場にある人物のはずだ。しかし、そんな割込みをする様子は欠片も見せない。一千百万の金を受け取った。それで今回のことは全てチャラ。あとは知った事じゃない。正にそんな顔をしている。
それはあまりにも酷いじゃないか。アンタのためにミカは、命を懸けて、ここに乗り込んできたようなものなのに。
俺の感情的には正にそうだが、この女も動きそうにない。ダメだ。期待できない。
ならば消去法で残るは一人。
その女の振舞いと佇まいを、どう表現すればいいのだろう。
体はそれほど大きくない。むしろ女性としても小柄の部類だ。ダークグレーのスーツを凛と着こなし、背筋を伸ばした姿勢もよい。切れ長な眼に宿された光には、この場においてもまるで委縮する様子が見受けられない。
(中立な立場の立会人)
たしか親父さんは、この女の存在をそう言い表した。親父さんをして信頼するに足る人物なのだろう。ならばこの女しかいない。それを見越して、親父さんはこの女をこの場に立ち会わせたはずなのだ。
何故この後に及んで、この女は今も沈黙しているのか。頭の悪い人間には見えない。自分の立ち位置はちゃんと理解できているはずだ。なのに何故に今も動こうとしない?
ナイフを握ったシュンスケの右手に、徐々に力が籠り始めている。その眼には狂気の色がある。
(一回だけのチャンス。それしかお前には選択肢がない)
そんな親父さんの言葉の意味する処を、この男なりに解釈した結果、ミカを刺すという腹を決めたのだろう。まさに狂気の沙汰だ。だから目に狂気が浮かんでいるのだ。
いまもスーツ姿の女は動く素振りを見せない。ならば、俺しかいない。
「こっ、こんなバカげた事、もう止めませんか?」
みっともないほどに裏返った自分の声が、自分の声に聞こえなかった。思えば、昨晩も今朝も、この部屋に入ってから俺は一言も発していなかった。
この部屋で発した俺の初めての肉声は、どこか異次元から聞こえてきた電子音であるかのような違和感があった。
「邪魔するなら私が殺す。そう言ったはずだよ。ジュンさん」
(殺す)
何かの比喩だと考えていたその言葉が、必ずしもそうではない。いまここに居る者達にとっては、(殺す)は丸ごとそのままの意味なのだ。それが今は俺にも分かる。
ミカの意識が、一瞬だけ俺の方を向いた瞬間だった。音も立てずシュンスケの巨体がミカに正面からぶつかっていた。
たぶん、たぶんだが、俺は悲鳴のような声を上げただろう。血液がシャリシャリと凍って流れを停めるような感覚。体の中心の温度が下がっていく。
ミカが刺された。真正面から。俺のせいだ。俺がミカに声を掛けた瞬間に生じた隙を、シュンスケが見逃さなかったのだ。
やるかやられるか。ミカとシュンスケが置かれていた状況は、二人にとってはそういうものだったのだ。一番状況を理解できていなかったのは俺。二人は戦争の最中だったのだ。
俺の認識の甘さが、取り返しのつかない惨劇を招いてしまった。
膝から床に崩れそうなった俺の体が持ち直したのは、まるで奇跡だった。いや、そうじゃない。俺よりも先に地に落ちたものがあった。それに驚いた事で、俺の体がどうにか機能を取り戻したのだ。
俺の膝より先に床に落ちた物。それはミカとシュンスケの二人分の体だった。ドンとぶつかり、そして止まり、次に下方向に重なって落ちた。ごろんと分厚い絨毯の上に転がったのは、シュンスケが握りしめていたはずのサバイバルナイフだった。
暫しの静止状態のあと、慌てる様子もなく、特に急ぎもせず、ミカがゆっくりと立ち上がる。立ち上がったのはミカだけだ。シュンスケの巨体は、全く動かず床に伏せたままだ。
その時になって俺は気付いた。ナイフを握っていたはずのシュンスケの右腕が、異様な角度で折れ曲がっていることを。通常肘の関節が曲がる方向とは真反対に曲がっている。
シュンスケが巨体をぶつけてきたあの一瞬の間に、ミカがシュンスケの腕を、反対側に折ってのけたということなのか。なら何故シュンスケは呻き声の一つも発していないのか。
その音は乾いたものと湿ったものがごちゃ混ぜになっていた。
例えば、カラカラに乾燥した太い木の枝が折れるような音。
例えば、蒸したてのジューシーな鶏の手羽を、人が力で引き千切るような音。
(バキン)とも聞こえたし、(グチャリ)とも聞こえた。
ミカの右脚のブーツの底が、シュンスケの背中に深くめり込んでいた。
やっとシュンスケが、耳を押さえたくなるような高い悲鳴を発した。
ミカが構わず、もう一度右脚を高く上げる。そしてシュンスケの背中に落とす。さっきと同じ個所だ。その行為には一切の遠慮がなかった。
一回目の音よりも、今度の音の方がより多くの湿り気を含んでいた。
皮と脂肪と筋肉越しに、シュンスケの背骨と肋骨が、湿った臓器に突き刺さる音なのかも知れない。
びくんと一回だけ大きく痙攣し、そしてシュンスケの体はぴくとも動かなくなった。
三度ミカが右脚をシュンスケの背の上で高く上げた時、ミカの正面に立つ影があった。スーツ姿の女。まるで足音も立てず、この女がミカの正面に立った。この瞬間、シュンスケの背に落とされるかと思ったミカの右脚が、スーツ女の腹部に向かった。速い。
このミカの蹴りを、スーツ女は躱さなかった。いや、躱したのだ。最小限に体を開いただけ。あまりにもその動きが小さかったので、躱す動きをしたとは認識できなかったのだ。
ミカの動きは止まらなかった。蹴りを出した右脚を踏み込み、前に加速した。そして左のパンチ。これも速い。テレビなんかで見るボクシングの動きと比較しても、まるで遜色がない。
このプロボクサーレベルのミカの速いパンチが宙で捕えられた。
(グルン)とミカが丸く空に舞った。頭から床に落ちるかと思えたミカの体が反転し、両足でしなやかに着地した。ネコ科の動物のような身軽さ。スーツの女が距離を取った。距離を取った女の鼻先を、ミカの右の蹴りが掠めた。
「おいおい、世界最強の呼び声高い芝山美波先生と柔心会の異端児シバヤマ・ミカとの戦いを、観客も何も無いこんな処で披露するつもりかい。俺なら金を取って、組の運用資金に充てるね」
とても愉しそうに親父さんが言った。二人の動きが止まっていた。




