ミカの戦争(7)
今回もよろしくお願いします。
「ケンジ、こいつでシュンスケを弾け。暗くなってから山に捨てるなり、海に沈めるなり処分しろ。遺体が出ちまったら、お前が出頭しろ。ただの筋者同士の内輪もめ。理由はそれでいい」
「オス」
ケンジの返事には一切の迷いがなかった。人を殺めろという非常識極まりない命令に対しても、それが“親父さん”の言葉であるなら、この男は何の躊躇もなく行動を起こすのだろう。
起こっている全ての事象が、俺の常識を圧倒的に超えている。シュンスケの目が怯えで濡れて、震えていた。そのシュンスケの見せた本気の怯えは、“親父さん”の言ったことが、決して口先だけの脅しではないことを雄弁に語っていた。
「誰もそんな事を望んじゃいない」
暖房で温まっていた空気を冷たく切り裂くようなミカの高い声。
「うん、今のは選択肢の一つだ。まあ、最後まで聴け」
昨晩と同じく、悠然とした“親父さん”と張りつめたミカとの対比が著しい。“親父さん“の顔には艶やかな張りがある。たったの一晩で、今回の事件の加害者であるシュンスケを探し出し、立会人として声を掛けたという女性を同席させた。ゆっくり休む暇などなかったはずなのに、”親父さん”から疲労の色が滲むことはない。
対してミカは、昨日に施したであろうメークのほとんどが剥がれ落ち、顔色もよくない。
いや、メーク云々よりも、本人も言ったように、相当に参っているのだろう。
「他の選択肢は?」
変わらずミカの声は固く尖っている。そのミカに向けて髪の長い女が、悲しそうで、それでもどこか温かい視線を送っている。言葉は全くない。
「これだよ」
“親父さん”の短い言葉に、俺の視線が戻される。さっき拳銃が出てきた引出とは別のところから“親父さん”が取り出したのは分厚い札束だった。2回に分けて、これが机の上に重ねられた。拳銃とはまた別の意味での重み。二束合わせて、その厚さは10センチ程あるだろうか。
仕事では何千万円、時には億超えの商売を日常的に経験している俺であるが、現金にしてこの額の金を見ることはない。この札束がいくらなのか、俺には見当が付かない。
「ちょうど一千万ある。今うちの出せる最大限の金だ。この金で後腐れなく手打ち。これが選択肢の二つ目」
「女の尊厳を金に換算するな!」
鋭く喰い付いたのは、やはりミカだった。ミカの体内の圧力がさらに強まったようだった。
「それはお前の意見だろう。問題は、そちらのお嬢さんがどう考えるかだ」
(そちらのお嬢さん)のところで、小さくあごの先だけを、今も怯えた表情で立っている中国人女の方に、“親父さん“は向けた。これにはミカも、口を閉ざさざるを得ない。”親父さん“の言う事の方に理がある。今回の被害者は、間違いなく、この若い中国人女なのだ。
ほんの僅かな間があったが、女の答えにはまるで迷いがなかった。生じた僅かな間は、自分の心を不慣れな日本語に変換するためだけに要した時間だったのだろう。
「ワタシ、ソノオカネ、モライマス。ソレデイイデス」
中国女の拙い日本語を聞いたミカが、不動で立っている。無言で中国女の顔を見ている。
何か言おうとした物が言葉にはならず、口元で途切れる。口は軽く開かれたままで行き場を失ったようだ。
「そう言うことなら、これで手打ちだ。ミカ、そう言うことだ」
“親父さん“が事も無げに言う。そう決着することが予め判っていたかのようだ。
「それで、いいの?」
ミカが中国女に掛けた言葉が震えている。
次の中国女の日本語は、一瞬の間もなく繋げられた。
「コノオカネガアレバ、ワタシ、チュウゴクカエレマス。カゾクミナ、シアワセナリマス」
(すぅ)とミカの内部に張りつめていた物が、急速に圧力を無くし、溶けてどこかへ消えていく。立っている事をいつ辞めてもおかしくない程、ミカから生気が抜けていった。
「なんだか納得いかんって顔だな、ミカ」
大きくもなく小さくもない声を、“親父さん”がミカに投げる。それでもやっぱり声は太い。そしてどこか声色が優しい。
「納得いかんなら俺が教えてやる。ほとんど誰も口にしない真実だ。俺がこれから言う事はね」
“親父さん”の声が低く響く中、黒服の二人が札束を小さな黒いバッグに詰め始めた。この一千万円という金を持って、昨晩に起こったトラブルは手打ちという事になりそうだ。
呼吸三つ分ほどの沈黙の後、口を開いたのはやはり“親父さん”だった。
「即ち、一千万って金はそんな金ってことだ。命は金に代えられない?そんな綺麗事は、平和な日本しか知らない奴らの戯言だ。数万円、いや数千円のために人を殺すような連中が、世の中にはわんさかいるんだ。逆に数万円の金で、救える命も同じだけある」
ミカが怖い顔で”親父さん“を睨みつけている。言葉は返さない。あるいは返せないのか。
「一人で海外に飛び出し、世を知り、世界を見て、自分一人で生きてきた・・・なんて考えてるのか?だったら、それはとんでもない思い上がりだよ。戦争の記憶も無くした平和な日本、それもジュウシンカイ芝山宗家の家柄に生まれたお前に、本当の貧困者の気持ちなんざぁ分かるはずがないのさ。つまり、早い話がお前は世間知らず。それだけのことだ」
“親父さん”が追い打つ。ミカの今にも泣き出しそうな表情にはまるで頓着していない。
んっ?(ジュウシンカイ)?どこかで聞いたような気もするが。
「戦争だ?お前は自分の体を掠める銃弾に立ち向かったことがあるか?俺や、お前んとこの爺さん、正家さんは、そんな経験をしている。ママゴトだよ。俺たちに言わせりゃ、お前のいう戦争なんて。小娘のママゴトに付き合ってやる義理は、俺たちにはない」
その“親父さん“の言葉を最後まで聴くことなく、ミカが背を向けた。
「馬鹿野郎」
小さく呟いたミカの声を、俺の耳が辛うじて拾った。出口方向にミカが歩を進めんとしたその時だった。
「こんな結末でいいのかい?お前の戦争とやらは、これで終わりかい?」
“親父さん”が、最前よりは少し語気を強めて、ミカに声掛けた。ミカの足が止まる。
「どういう意味?」
足だけを止めて、振り返りもせず乾いた声でミカが問う。
「お前とうちとの戦争は、これで手仕舞いだ。だが、お前の戦争とやらの本当の相手が、この部屋にいるじゃないか」
“親父さん”が小さく眼の向きだけ、腫れあがった顔のシュンスケの方に向けた。ミカは黙って立っている。”親父さん“の発言の意図を探りかねているのだろう。もちろん、俺にも分からない。
「本当は手足の一本でもぶった切って、ここから放り出したい気分だよ。うちの紋章に泥を塗りやがった。この馬鹿は」
シュンスケが視線を下げた。まるで紙のような白い顔色をしている。
「今となっちゃ、この馬鹿野郎の腕をぶった切っても、うちとして何のメリットもない。どこで野垂れ死のうが、それにも興味がない。でっ、そこで俺は考えた」
「なにを?」
ミカの声は固く冷たいが、気のせいか少しずつ生気が戻りつつあるように感じた。
「シバヤマ・ミカとしちゃあ、振り上げた拳の落しどころが欲しいだろ。シュンスケの馬鹿にも一回だけチャンスをやりたい。一度はうちの盃を受けた人間なんでね。おい、ケンジ」
(オス)と小さく返信したケンジが、シュンスケの後ろに回る。そしてシュンスケの両手を縛っていた縄を解いた。シュンスケの両手が自由となる。
「得物も返してやれ」
言われたケンジは自分の上着のポケットから大振りの刃物を取り出した。刃渡りは15センチ以上。おそらくはサバイバルナイフ。ギラリと光った銀色の刃は、簡単に人の皮膚を滑り、内臓にまで一瞬で届きそうだ。
「ジュウシンカイのシバヤマ・ミカが相手なんだ。それくらいの武装は、まあ礼儀ってところだろう」
“ジュウシンカイ”?まただ。“シバヤマ・ミカ”はもちろん分かるが、親父さんのいう『ジュウシンカイのシバヤマ・ミカ』とは一体なにを意味するのだろう。俺には分からない。
「お前の腕をぶった切って、ここから叩き出す。それでもいいんだが、一回だけチャンスをやろう。この女をぶちのめせ。何なら刺し殺したって構わない。しばらくムショに入って、そして今後二度と俺の視界に入るな。お前が自分の足でこの部屋を出ていく方法は、それ以外にない」
まるで感情の起伏を見せず、真面目な顔で、“親父さん”がシュンスケに言った。
”親父さん“が準備したケジメとは、背中の産毛が逆立つほどの恐ろしい提案だった。




