私は貴方のようになりたい
ちょっと寄り道です。
「明日から・・・晴れてアタシは・・・プゥ~タロ~」
小さい独り言。はっきりとした覚悟。まずは一度、口にしてみた。
さっきからカタカタと強めの春風が小窓を叩いている。春風。英語ではメイストーム。
英語だけは得意だった。英語の授業だけは楽しかった。
道場生には外国の人も多かったから、彼らと練習してるうちに、いつの間にか日常会話くらいの英語は話せるようになっていた。
『To live long is what everyone want.』
『長生きは全ての人が望むもの』←この日本語を英訳せよ
2学期の期末試験に出た英語の一問。私の答えがそれ。採点は△。
“Everyone”は単人称なので、三人称単数の“s”が付いて“wants”が正解だとさ。
くだらないと思った。急に英語の授業が楽しくなくなった。
中学3年間の思い出って、何かあったっけって自問する。
授業はもちろん、休憩時間もお昼休みも、修学旅行も文化祭も、まるで楽しくなかった。
友達と呼べるような生徒はほとんどいなかった。
別に構わなかった。友達になりたいと思える人もいなかったから。
去年の夏休みに、お父さんと姉さんと私。3人でタイに行った。その時は楽しかった。
タイの食べ物も美味しかった。お父さんは辛すぎるってぼやいてたけど、姉さんも美味しいって言って、2人でたくさんタイ料理を食べた。
タイの人は、みんな英語が喋れるのでビックリした。姉さんの英語は滅茶苦茶だったけど。
それでも姉さんは、臆せず色んな人に話しかけていた。ちゃんと言いたい事は通じていたようだ。
学校で習った文法なんかを考えちゃった私は、あまり積極的に喋れなかった。
タイの道場の生徒の技は、ちょっとレベルが低かった。ちゃんと柔気道を教えられる人がいないのだろうと思った。みんな私が強いことに驚いていた。
子供達に技を教えて欲しいってお願いされた。人に技を教えるのは、師範代の姉さんの役目で、私の出番ではないと思った。でも教えて欲しいって言われた時は、ちょっと嬉しかった。
一人の男の子が、私と姉さんとではどっちが強いの?って質問をしてきた。姉さんと私、どっちが強いのかなんて考えたこともなかったので私は困った。
“I don‘t know.”って答えた。
(それじゃあ、いま戦ってみれば?)って英語で言われたようだった。
私は急に緊張してしまった。姉さんも少し顔が強張っていた。
結局、そのとき私と姉さんが戦う事はなかったのだけれど、もし戦っていたらどうなっていただろうって考えることもある。たぶん私が負けただろうけど、もしかしたらって気持ちは、いまも少しはある。
またカタカタ窓が震えた。
時計を見ると、もうお昼を過ぎていて、卒業式も終わっている時間だった。
最期に学校に行ったのはいつだろうって考えてみる。
今年に入ってからは一回も学校に行っていない。
私が学校で喧嘩したのは12月だった。
あんまりにもアヤのグループの虐めが目に余ったので、つい手を出してしまった。
虐められていた娘の名前を、私は知らなかった。
2人が入院する怪我をした。私が怪我させた。
停学期間は1週間だったけど、そのまま学校に行くのは止めた。それでも卒業はできるらしい。日本の義務教育って案外に甘いみたい。別に卒業できなくてもよかったけど。
柔気道の技を喧嘩に使ったことに、お母さんはものすごく怒った。使うべき処だと思ったから使った。私はそう思ったけど、お母さんには言わなかった。それ以来、私は一度も道場に行っていない。
『3年C組 芝山美香 進学・就職先:家事手伝い』
家に届けられてくる卒業者名簿には、たぶんそんな風に書かれるのだろうなって思う。
別にどうだっていい。
部屋の暖房を切っていたので、ちょっと部屋は寒かった。
「美香~お友達、きてるよ~~」
一階の方から姉さんの声がした。
私が学校に行かなくなってから、お父さんとお母さんの私に対する態度は変わった。
でも、この姉さんだけはまるで以前と態度を変えなかった。
私を訪ねてくる友達って、まるでピンとこなかった。
ベッドに寝転がっていた私は、起き上がって階段を下りる。いつも上から3段目の辺りで、この階段は“ギシッ”って音を立てる。
玄関までの廊下は長い。玄関の土間のところに立っていたのはクラス委員の日高さんだった。
「美香の友達?」
さっき姉さん、(友達きたよ~)って言ったじゃない。改めて友達かどうか聞くなんておかしい。でも日高さんを友達と呼んでいいかどうか、私には分からない。曖昧に“うん”と答えた。それが無難だと思ったから。
「あっ、芝山さん、卒業おめでとう。卒業証書持ってきた」
(ありがとう)
そう言って日高さんが差し出してくれた卒業証書を受け取ったものの、次の言葉が出てこなくって、何だか変な沈黙になった。
姉さんも笑顔のままで固まっている。
改めて考えて、やっぱり日高さんは友達じゃなかったって思った。
今日卒業証書を持って来てくれたのは、友達だからじゃなく、彼女がクラス委員だからだと分かった。
もう用は済んだのだから、日高さんも早く帰ればいいのに。なぜ彼女が何も言わず立っているままなのか、私には分からない。
「ちょっと外歩く?」
気まずい沈黙が嫌で、私からそう言った。そう言った時には、もう私は靴を履き始めていた。
姉さんに(友達じゃないんだ)と勘づかれるのも嫌だったから。
外の風は冷たくって、上着一枚着てから出てくればよかったと後悔した。
2人並んで河川敷を歩き始めてからも、日高さんは何も話さなかった。
あまり彼女とは会話したことがないけど、でも大人しい生徒だった印象がある。
すごく勉強ができた。いつもクラスで一番だった。私とは違う世界の人だと思っていた。
沈黙が長かった。別に彼女と話したい事はなかったけど、私の方が沈黙に耐えられなくなっただけだった。だから私から話し掛けた。
「高校はどこにいくの?」
「うん、K大学付属高校」
私でも知っている有名高校だ。別に羨ましくないけど。でも凄いなぁとは思う。
「ふ~~ん、凄いね」
改めて言う程の事でもない。日高さんが勉強できるってことは知っていたし。
「すごくない。私なんて・・・全然すごくない」
えっ、そこ、喰い付くところ?ただの社交辞令なのに。
「エリカがね、ありがとうって。芝山さんに伝えてって。あれからアヤ達に虐められることもなくなったって。芝山さんのお陰だって」
なによ、なによ。どうしてそんなに必死な顔で、そんなこと言うの?ほとんど泣いてるし。
「私は芝山さんみたいになりたい。貴方みたいになりたい。弱い人を助けてあげられる強い人になりたい。だから勉強して、いい大学に行って・・・」
涙声でそんなこと告白されても、私にどうしろって言うの。
「私は芝山さんとは違う方法で、世の中の弱者を助けてあげられる人間になりたい。私は貴方の様になりたい」
日高さんの言ってることがよく分からない。だから何も彼女に返す言葉がない。
「芝山さん、高校には行かないんでしょ」
そんな事、誰から聞いたのだろう。でも事実だ。高校は受験すらしていない。
「芝山さんはこれからどうするの?」
さぁ、私はこれからどうするんだろう。今はまるで考えていない。
他の卒業生と比較して、私が勝ってることなんて、あるのだろうか。
敢えて言うなら、柔気道の技と・・・英語くらいかな。
「あんまり考えてないけど、海外に行ってみたいなぁ~」
本気で言ったんじゃない。少しだけ英語ができるというだけの理由で、何となく勢いで言ってしまっただけだ。
「うん、やっぱり芝山さんは凄いって思う。もし海外に行っても、友達でいてくれる?」
いや、行ってみたいなぁって言っただけだし。それに今までも、友達って感じでもなかったし。
「私は貴方のようになりたい」
あまりにも日高さんの感情が高ぶっているので、つい勢いで(うん)って答えてしまった。
(貴方のようになりたい)
クラスで一番勉強ができて有名高校に進学する人に、そんな風に言われるなんて、私の中学生活も、何もなかった訳じゃない。そんな風に思えた。
“嘘から出た真実”って言うのかな。
いつか海外に行ってみたいとも思った。
スマホの震える音が、どこか別の世界から小さく聞こえている。
ちょっとずつ大きくなって、それが現実の音だと気付いたとき、私の眼が開いた。
あれ、自分の横で男が寝てる。彼もたった今、眼を覚ましたようだ。
えっと、彼は・・・そうだった。
「ジュンさん、おはよう」
遠い昔の頃の夢を、私は見ていたらしい。




