その店のミカ(2)
今回もよろしくお願いします。
「お試しコース30分でいい」
小太り紅いチャイナ服の中年女が差し出したメニューの一番上の行に書かれた文字を指差し、俺は言った。
「30フン、スグ終わる。60フン、オイルコース、気持チイイヨ」
聞き取れなくはないが、とても拙い日本語だ。でも俺が日本人だからそう思うのであって、例えば海外出張中に俺が使う英語なんかは、現地の者からすれば、もっとレベルが低いのだろう。
「お試しコースでいい」
女の日本語を遮り、もう一度、俺は言った。
「ワカッタネ」
意外にあっさりと女は引き下がったものの、その声に含まれていた不満は、まるで隠されていなかった。
「パンツイチマイ・・・」
汗で背中に張り付いたタンクトップ形状のインナーを脱ぐのに少し手間取って、俺は言われた通りパンツ一枚になった。部屋が生暖かい。額や背中から汗がどんどんと湧き出す。
「ウツブセ」
女に言われる前から、俺はベッドにうつ伏せに転がっている。
バスタオルのような布を、背中にかけられる感覚がした。しっかりと乾燥されているようだ。
ベッドも嫌な匂いがしたりはしなかった。
女が俺の背中を、両手を使って圧迫し始めた。
雑なマッサージだ。首筋から腰までを、女の指が2往復もした頃には、俺はこの女のマッサージの技術の低さを見抜いていた。所詮30分1500円のマッサージだ。多くを期待する方がナンセンスというものだろう。と、その時、女の動きが止まった。
「オイルマッサージ、気持イイネ」
女の猫撫で声をうつ伏せ状態で聞いた時、もう俺はベッドから体を起こそうとしていた。神経が逆立っていた。
「もういい、帰る」
俺は今しがた自分で脱いだワイシャツを手に取りながら言った。本当は金を返せと言いたいところだったが、そこまでは言わなかった。それでも俺の不機嫌さは、十分に伝わったようだった。
「オキャクサン、チョット、マッテテ・・・」
どちらかと言えばふてぶてしい態度だった小太り女が、少々慌てた様子で部屋を出て行った。その間にも俺は次々と衣類を身に付けていく。シャツを着てズボンを履く。ネクタイだけは、乱暴にカバンに押し込んだ。それでも営業職で、毎日ネクタイは替える。
いよいよカバンを持ち上げようとした時、カーテンが外側から持ち上がった。
碧いチャイナドレスの女が、そこに立っていた。体の線が細く、姿勢がいい。そして女としてはかなり背が高い。173センチの俺とさほど変わらない。年齢は20代後半か、30代だとしても前半。
「うちの娘に、なんか失礼があった?」
場違いなほどにおっとりとした口調。失礼があったかどうかはよく分からない。気分を害したのは事実だ。高額なコースを押し付けようとする態度。マッサージの技術の低さ。いや、そもそも入店する前から、俺は不機嫌なのだ。こんな俺の心境を告白したって何も始まらない。自分が惨めになるだけだ。
「いや、あまりマッサージが上手くなさそうだから、店を替えようと思っただけだよ。失礼があったとか、そんなんじゃない」
失礼と言えば、初対面で、しかも客であるはずの俺に対して、この女も敬語すら使わない。それでも小太り女に俺が抱いたような不快感はまるで起こらない。この女の声の質や容姿が理由なのだろうか。それだけじゃない気がする。
「向こうの娘はけっこうお客さん怒らせるのよね。もっと高いコースに変更しろなんて言って」
図星だ。俺を苛立させた一番の理由がそれだ。大きな仕事を任せてもらおうと思ったら、その前の小さな仕事に全力で対応しなければならない。サービスとは、プロの仕事とはそういうものだ。どうもいかんな。俺も日本のサラリーマン体質に染まりつつあるようだ。
「あの娘達も必死なのよ。異国の地で稼がなくちゃいけないんだから。故郷に帰れば家は裕福・・・なんて娘は一人もいない。国民性の違いもある。まあ、許してあげて。悪気はないから」
言いながら女が俺の背中側に回る。
「ちょっとだけ背中貸してもらえるかしら?」
女が俺の後ろに立ち、すでにワイシャツを着けている俺の背中に指を当てた。肩甲骨のやや下辺り。“クッ”と小さく圧が加わると、強烈な痺れが両手の指先にまで達した。(うわっ)と、俺は小さな声を上げた。たぶん女の親指だろう。その場で小さく円を描く。一定の周期で肩から両手の指先に向かって痺れが伝達していく。その間、俺は(ぐぅ~)と呻きをかみ殺している。
女の指が背中から離れた時には、少し体が安心した。
「それじゃ、今度は両手を首の後ろに組んでくれるかしら」
今度はどんな痺れがくるのだろうと、少し体に力が入る。
それに女は頓着せず、俺の背中にピタリと体を密着させた。女の乳房が、俺の背中に当たる感覚がする。大きくはないようだ。
俺の肘を抱えた女が後方に体を反らすや、伸びた俺の背骨が(バキッ、バキ)と驚くほど大きな音を発した。この動作が2回。1回目よりも2回目の音の方がでかかった。
女が俺の腕を開放する。俺の両腕がだらりと下に垂れる。
「お兄さん、ちょっと姿勢が悪いよ。背中を丸めていて良い事なんて、何一つないから」
(お兄さんなんて呼ばれる年齢じゃないよ)
そう口にしようとして振り返った俺は、背中の辺りがやけに軽いことに驚いた。
改めて女の顔を見ると、化粧は厚いが、切れ長の目尻をした相当の美人であることが分かった。
まるで躊躇することなく部屋を出ていこうとする後ろ姿に、俺は思わず声を掛けた。
「名前をまだ聞いてない」
女が立ち止まる。少し間を置いて女が言った。振り返ることなく。
「ミカ。シバヤマ・ミカ。お兄さん、今日は真っすぐ帰りなよ。今日はお兄さんにとって、そういう日なんだよ」
言い残し、あっさりと女は部屋を出て行った。何だか不思議な興味が、このシバヤマ・ミカとやらに湧いていた。