ミカの戦争(2)
何だか嫌~~な話になってしまいました。気分を悪くされてらごめんなさい。
ミカの怒号と呼べる鋭い声が室内に張り上がり、四方の壁で反射する。たぶん中国語だろう。俺には分からない。
(何があったか!)
その第一声だけが日本語だった。以降の怒気を孕んだ言葉は、全て中国語だった。
露わになっている小さく白い肩を震わせて、女は今も泣いている。
(何があったのか)
それを答えることが、どれだけ若い女にとって残酷なことか、俺にはもう想像できている。
ミカだって、それが想像できないほど、無神経で馬鹿な女じゃない。しかしその想像力を遥かに上回る怒りが、今のミカの感情を支配しているのだ。
人間が、これほどまでに怒りを露わにすることが生涯で何回あるか。ミカの剣幕と表情は、それほどのものだ。
埒があかないとでも言うように、座り込んだ二人の女を残し、ミカが店の中に入る。
ドカドカという足音が聞こえるようだ。実際はコンクリート製の床に、薄い絨毯が敷かれているだけなので、そんな音はしない。
受付のテーブルに置かれていたノートパソコンをミカが開き、これを立ち上げる。
液晶画面の発する青白い光が、暗い室内で(ぼぅ)と浮き上がる。
そんなミカに、これまで地に伏していた若い女がしがみ付く。慟哭するような中国語。(見ないでくれ)とでも訴えているのだろうか。ミカが荒々しく、片手でこの女を跳ねのける。跳ね飛ばされた女が、また床に落ち、そして首を折って嗚咽を漏らす。
そんな女の様子に構わず、ミカが画面を凝視している。右手がマウスを操作している。
画面に何が映し出されているのか、この位置からは分からない。しかし、立ち位置を変え、それを覗き込むことが、俺にはできない。ミカがいま纏っている人を叩き切る様な殺気が、決して俺を近づけないのだ。
画像は見えないが、音は微かに聞こえた。パソコンの小さなスピーカから洩れてくる女の悲鳴。これに男の下品な声が混じる。女の悲鳴が二人分のものに変わる。人が倒れる音。布が破ける音。肉が肉を打つ音。二人分の女の悲鳴。
俺の想像が確信に変わる。ただの想像であって欲しかった確信。
ミカが見ているのは、店内に設置されている防犯カメラの映像なのだ。
そして、そこで行われている犯罪行為。映し出されているのは、見るに堪えない惨劇なのだろう。
3分、そして5分。スピーカから漏れ聞こえていた女の発する音が消えた。理不尽で残酷な静寂。男が力ずくで、女の尊厳を奪い取った行為が、終わったのだ。
ミカは一度も画面から目を離さなかった。俺の想像通りの映像が映されていたのなら、果たして俺は、これを最後まで直視することができただろうか。
パタンと、ミカが静かにパソコンを閉じた。ゆっくりと立ち上がる。
いまのミカの佇まいをどう言い表せばいいのか。
空間をぐにゃりと変形させてしまうような磁気。全身の毛という毛を逆立たせる殺気。
とてつもなく冷たく、空気をちりちりと焼くほどに熱い。
「この男、前にも来た男だな」
聞き取れるかどうかの小さなミカの声。若い女に向けての言葉のようだ。こくりと小さく、うなだれた女が頷く。
この女の露わになっている方の肩に、優しくミカが掌を乗せた。そして自分が着ていたベージュ色のコートを脱ぎ、これを女に上から被せる。先の剣幕の強さから一変して、それは母性に溢れた仕草だった。その行為が優し過ぎるが故に、あまりにもやるせない。
いかなる言葉も行動も、もはやその若い女の傷を癒すことは不可能なのだ。まして俺なんかがしてやれる事、掛けてやれる言葉は、あろうはずもない。
この世のあらゆる理不尽と不条理が、この狭い部屋に満ちているようだった。
時が凝固したように、俺を含んだ4人の行動も思考も止まっているかと思っていたが、そうではなかった。
ミカだけが、実は小さく動いていたのである。それは指先の動き。スマホを操作していたのだ。静寂が深すぎて、スマホの発するコール音がはっきりと聞き取れる。
スマホの向こう側の相手は、コールに応えたようだ。
「親父さん、アタシ、ミカ」
呼吸一つ二つばかりの間。(久し振り)だとか(今日も寒いな)だとか、そんなありきたりな言葉が、ミカの耳に届いているのかも知れない。しかしその声は、単に空気の振動としてミカの鼓膜に届いているだけであって、今のミカにはどれ程の意味もない只の雑音なのだろう。
「親父さん、よく聞いて。親父さんに恨みはないけど、いまからマエジマ組をぶっ潰しに行くから」
またも短い間が発生する。(何があった)だとか、(意味が分からない)だとか、そんな内容の言葉が、ミカの耳に届いているのだろう。
「戦争だ」
ぽつりと零れた短い言葉に凝縮されているミカの怒り。怒りという概念が強い力で圧縮され、小さく固体化して、ミカの腹の中にころんと石ころのように転がっているかのようだ。
「シバヤマ・ミカはマエジマ組に戦争を仕掛ける。たった今からだ」
とてつもなく固く冷たい覚悟を、ミカは小さく口にした。




