その店のミカ1
新作です。よろしくお願いします。
西日本最大の中華街の喧騒も、ここまでは届かない。たった二筋違えるだけで、華やかさとはまるで無縁の灰色の通りに変わった。
酒の量は知れている。ビールをグラスで2杯と少し。この程度の酒なら、普段の部屋飲みの晩酌と変わらない。
酔っているのではない。気分が荒れているのだ。10月の残暑と湿気も気に喰わない。気が立っている時ってのは、まあこんなものだろう。
今日は上半期のお疲れ会という名目で、会社の同僚達で一席設けた。海外出張に出ている2名の営業マンを除いて、俺の所属する営業1部2課の課員全員が参加した。
そして会が始まってから1時間も待たず、俺は席を立つことになったのだ。俺の直属の上席にあたる森の酒乱が原因だ。この森の酒癖の難儀さを知っている課員は、うまく森との距離を取った。あいにく俺にはそんな器用さはなかった。この不器用さでずいぶん損をしてきたもんだと、自分でも思う。
「会社の業績に貢献できない部下なんざぁ、俺の課には要らないんだよ」
他の課員は、(また始まった)ってな心境だったのだろう。上半期に限れば、課の業績の足を引っ張ったのは俺。それは間違いない。営業職とは、残酷なまでに個々の成績が数字として示される。しかし、その数字は、担当している業種や顧客に因って、激しく上下する。それは、この世界では常識である。付け加えれば、去年の業績で言えば、俺の営業成績が他を圧倒していたのだ。まあ仮に、俺の今期の成績が人並みであったとしても、酒の席で隣に座ったが最後、何かしらの因縁を、この課長は吹っかけてきただろう。森とはそういう男なのである。
年間売上高およそ7千億円の準大手総合電機メーカ。その中間管理職。この森もある意味可哀そうな立場なのだろう。上からの圧は尋常ではないだろうから、下からも突き上げられちゃあ、たまったものじゃない。そんな自己防衛の手段としてのマウント行為なのだろう。
その森の立場も理解してやろうと、しばらくは俺も我慢していた。俺の一杯目グラスが空になったとき、ビール瓶を片手に寄ってきたのが、確か入社3年目、若手社員の河田である。
「まあまあ、大友さんは前期、大いに会社に貢献した人ですし、今夜は嫌なことは忘れて飲みましょう」
この河田という男、こう言うところに抜け目がない。この難儀な森とも、比較的うまく付き合っている数少ない若手社員の一人なのだ。じつに手慣れた所作で、俺のグラスにビールを注いだ。その分量、泡との比率。申し分ない。俺はこのグラスを大きく煽り、喉にビールを流し込む。一度は森の絡みは収まった。
「仕事をしなかった奴に喰わせる飯はねぇよ」
ふたたび俺が森に絡まれ始めたのが、唯一の女性課員である木戸が、コース料理の三品目、黒豚の角煮を俺の席に廻してくれたタイミングだった。あからさまに木戸は森の言葉に対する嫌悪を示したが、森は止まらなかった。
「お前は帰れ。働かなかった奴に慰労もクソもあるか。帰れ」
その森の声量の大きさに、一気に場が白けた。他の先輩社員に酒を注いで廻っていた河田が、俺達の位置から離れていたのも不幸だった。いや、不幸ではなかったかも知れない。逆に俺にとっては幸いだったとも思える。
「その“帰れ”は課長の業務命令でしょうか?」
吐いた言葉の固さに、自分でも少々驚いた。一瞬、その場にいた全員の動きが止まったようにも思えた。
(やめておけ)
俺の真向かいに座っていた比嘉が、眼で俺にそう言った。だが止まらなかった。止らなかったのは森の方である。
「おうよ。業務命令。課長命令。お前は帰れ!」
その森の言葉を聞く前に、もう俺は立ち上がっていた。
目的がある訳じゃない。一人で一杯やり直そうと思う程、酒が好きな訳でない。それでも、このまま自宅に帰る気分でもない。
(酒も飲めない奴に営業職が務まるか)
20年以上前、入社して早々に当時の上司から聞いた言葉。今の時代を鑑みると、この上司の言葉は嘘だったことになる。大した成果を上げるでもなく、さりとて大きな失敗をした訳でもない。そんな23年は、やはり短い時間ではなかったのだろう。
店を出てすぐに携帯が胸ポケットで震えた。俺は取らない。間を置かずまた震える。もちろん取らない。発信してきたのは河田か、あるいは森自身か。まあ誰からの着信かの答え合わせは、家に帰ってからのお楽しみとしよう。
その怪しいネオンは、この灰色の通りに妙に似つかわしかった。煌々としている訳でもなければ、まるで一目を引かないほど大人しくもない。紫帯びた灯は、まあそんな具合だった。
(中国・台湾マッサージ 追加料金なし)
こんな怪しい看板と謳い文句は、この界隈ではほぼ間違いなく“風俗もどき”の店と考えていい。
(3000円ポッキリ)
こんなのを信用しちゃあ、大抵は痛い目にあう。足を止めてみたが、店を出るときにはさらにささくれ立った気分で出てくる羽目になる。そんな事も知らないほど、俺は子供じゃない。
30分はたっぷり歩いた。そろそろ駅へ向かおうと考えた時、絶妙のタイミングでまた携帯が震えた。
それが何かの合図になったように、俺はその怪しい気なネオンの灯る店の扉に手を掛けたのだ。