Ⅰ.どうやらタイムスリップしたようです
【1977年6月10日】――
【洋菓亭】を脱出した此方は、住人に見つからないよう、ふたたび洋館裏の屋根下に舞い戻った。
胸元のブローチを、逆転時計を確かめる。針は動いていない。
次に移民バックから取りだした携帯電話の画面を確認する。【2010年6月10日】日時の表示は現在のままだが……?
そうだ、直美ちゃん。彼女に電話をかけてみるが電波が届かない。使用圏外らしい。当然ネットワークに接続もできない。
現在の時刻を刻むデジタル表示は、あくまでも時空移動や電波の影響を受けない、オフライン機能である。
掃除と換気の行き届いた室内、埃の被っていない書物。昨日今日のことではない、明らかに人が住んでいる形跡。温かかったサモワール。先刻まで誰かが使用していたのだ。
にも関わらず、カレンダーの表示は【1977年6月】――
「あっ、もしかして」
不意に声が飛んできて、竹藪の中から青年が走りよってきた。
「キミが梅白生彩さん?」
「いや。此方は首死原愛時だが」
色の白い長身の青年に見下ろされ、無防備に名乗ってしまう。初対面の男にカニンガムの法則に乗せられるとは、我ながら迂闊な。
「洋菓亭のパティシェ募集に応募して、オーディションを受けに来た人じゃないのかな」
青年は片手に潰れた山形食パンみたいなコック帽を持ち、コックコートに水色レースのエプロンを着衣している。首を傾げると、柔らかな質感の髪がさらりと揺れた。
【洋菓亭】のオーディション?
此方の返答を待たずして、
「ほら、やっぱりそうだ」
青年は此方の手にあるマーメイド紙を指差した。メタルフレームのメガネの奥で仔犬のような瞳を向けてきて、可愛い。
ではなくて、今はそれどころじゃないのだ。
「その前に教えてほしいのだが。卒爾ながら現在は1977年の6月10日なのか」
「え? 何を言っているの。2010年だと思うよ」
やはり、そうだよな……
「挑戦者が一人足りないって皆騒いでる。早く行こう」
此方の混乱など意に返さず、青年は踵を返した。固まったままの此方の手を強引に取って、泥濘を避けながら庭園の外へ走りだす。
「ちょっ……待て」
脳みそが着いていけない。
どうやらタイムスリップしたらしいことは、この青年も気づいていない。時空が33年前に巻き戻った原因は、先ほどの雷雨と此方の逆転時計が関係しているのか。
此方が持っているマーメイド紙は、パティシェ試験の指示書らしいが、梅白生彩とは?
それにオーディションとやらが開催されるのは、あくまでも『2010年現在』のはずだ。時間が巻き戻っていたら、予定通り開催されるわけは――
いや、この界隈にいるのが此方と青年、他にも参加しているらしいパティシェ志望者たちだけだとしたら。33年前の時代に移動していても、問題なく審査は行われるということに? 持ち込まれた記憶は当然『現在』のまま。1977年――この時代の人物と鉢合わせない限り、文字通り時代錯誤することなく……?
脳内はキャパシティを超えすぎた。青年に手を引っ張られながら、幻の解決策を捻りだす努力はするが……。
ほどなくして、青い尖り屋根とオレンジの煉瓦造りが見えてきた。
「そういえばまだ名前を名乗っていなかったね」
ふいに立ち止まった青年が、
「僕は結城崇雄。洋菓亭パティシェ候補者の一人で、君のライバルでもある」
コック帽子をかぶり直し、掴みどころのない笑顔で片手を差しだしてくる。
あれ……❔ 何か、懐かしい気持ちにさせてくれる青年だ。此方は、結城と名乗る男の子をずっと前から知っているような……
すっかり雨はあがって、ふたたび日差しが洋館を照らしていた。
今度はジェオスミンのせいか。スパイシーなシナモンより、ミルクっぽい甘い匂いが近づいてくる。プルースト現象が高まって、此方は弟の命をゆっくり思い出していた。