Ⅳ.風雲、急を告げる
橋を超えた先は野放図だった雑木林がなくなって、樹海は続いているが、人工的な繁茂は明らかに人の手が加えられていた。
胸元のブローチ――懐中時計が微かに疼いた気がした。謳われていた商品説明に則れば、本来は3つの針が逆回りになって巻き戻したい時間までタイムスリップできるはずなのだ。なのに未だに分針も時針もまったく動かないインチキなタイムターナー。くそめ。
しかしどうしたことか。歩くたび、僅かに針が振動する。まるで方位磁石の如く秒針が反応しているのだ。
吸い寄せられるままに歩を進め、敷地のぐるりを廻っていく。
ココア色の屋根と白の煉瓦造りが見え、ティラミスを彷彿する洋館が現れた。
【洋菓亭】――青い表札が門扉に嵌まっている。
胸元の時計の針に身を任せ、館の裏側に廻ってみると、壁をくり貫いた穴にショートパスタ・ロティーニを思わせる細い螺旋階段が奥まで練り込まれている。真下に降りられるようになっているらしい。
階段脇に置かれている青いランタンを手に、階梯を下っていく。
やはり現れたのは鍾乳洞だ。さしずめ『青の洞窟』ね。青くないけど。
何かに蹴っ躓き、ハッと息を呑む。
髑髏だ。1、2、3、死屍累々……合計7体の人骨が土の中に眠っていた。
地下室が納骨堂になっているとは、さすが古代ローマから続くイタリーアな洋館ですのね。知らんけど。
性別や世代も解らない、そうとう古くに亡くなった人たちだと思われるが、一体だけ比較的真新しい骸骨があった。溶けかけているが洋服の切れ端が辛うじて残っており、髪の毛も……。きっと、7人の中で一番最後に亡くなったのだろう。
屍のそばにハート型――パルミエにも見える――のアルミニウムが落ちている。空気亜鉛電池か? 小さな隕石が埋め込まれ、ルーン文字が彫られているが、何と描いてあるかは解らない。
パリンッ
刹那、元素が弾けるような音が響いて、洞窟に震動が走り、骸骨が青白く光った。
「ひっ⁉」
拾い上げたハート型のボタン電池擬きは、指先から滑り落ちる。
此方は後退りすると、ロティーニ状の階段を韋駄天走りで駆け上がった。
地上に出ると先程まで晴れていた空間は、たちまち雨雲が覆い尽くし、どじゃぶりの夕立に見舞われてゆく。名実ともに青天の霹靂だ。
傘は持っていない。洞窟に戻るわけにはいかず、必然、洋瓦の下で雨宿りする羽目になった。
そも、此方は急な雨に備えて傘を持ち歩くことはしない。途中までは晴れていたのに、後から降ってきた雨に対して傘を差すのが癪に障るからだ。最初に外界を歩きだしたのは此方であり、此方は先輩なのだ。後からしゃしゃり出てきた新参者に何故従わなきゃいけない? 人生は早い者勝ちだろう。物わかりの良い人々が多いせいで雨が付け上がるのだ! 空のご機嫌に合わせていては天気の思う壺である。こうして雨宿りしている時点で負けた気がするが。ちっ。
雷鳴が轟く。ティラミスを模したゴシック様式な建造物は、成すがまま青い雨を受けている。ペトリコールなのか、強いシナモンの香りが嗅覚を刺激する。
胸元のブローチ型時計が頻りに蠢いているが、秒針が方位磁石の如く振動するだけで、何に反応しているのか解らない。この時、此方はまだ気づいていなかった。時針がゆっくりと逆廻りをはじめていたことに。