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夜間掃除人ちよこ ~告げ口は業務よ~

作者: 藤沢みや

 ◇


 和田和美は、暗くなった周囲を見て溜息を零す。

 和美には社内恋愛中の彼氏がいる。同じフロアで隣の部署の、大竹真弓だ。

 彼は、理不尽な残業をさせられる彼女……私を見捨てて、同僚たちと飲み会をしている。

 唇を噛み締める。

 ――― 泣いちゃダメだ。

 私は要領が悪くて、人の仕事を引き受けては残業になっている。暗いオフィスで一人キーボードを叩いていると虚しくて……

 就職して五年。

 仕事に慣れてきて、ようやく新しい業務にステップアップとなった時に配属された一人の可愛らしい女性社員。

 その彼女は、部署の雰囲気を一瞬で変えた。

 今までは、多少素っ気ない雰囲気はあったけれど、仕事は滞りなくできていた。

 それなのに、彼女が来てから仕事を押しつけられて、可愛くないと罵倒されて……

「ちょっと、アナタ、どうしたの?」

 元気な声に顔を上げる。

 清掃業者の作業着とマスクを身につけた年配の女性が声を掛けてくる。

「え……」

「泣いているの? これをお使いなさい」

 差し出されたのはビニールパックのティッシュ。

 お言葉に甘えて、切れ目を裂いてティッシュを取り出す。

「……す、すみま、せん」

「会社の備品だから、気にしなくていいわよ」

 清掃業者の女性はそう言うと、近くの椅子を動かして人一人分離れたくらいの位置に座る。

 チュイーーン と、椅子の高さを一番下にする音が響いた。

「こんなに高くして、作業がしにくい……くっ、脚の長さか……」

 その言葉に涙が止まり、苦笑が零れる。

「……あ、あの、お仕事をお邪魔してしまって」

「それはいいのよ、ところでアナタ、一人で残業?」

「はい、明日の朝までに同僚が消してしまったデータを作り直さないといけなくて……」

「なぜ?」

「……なぜ?」

 お互いに首を傾げる。

「……どうして、データを消した同僚が残らずにアナタが残っているの?」

 心底不思議そうに問われて、私も気が付く。

「……どうして、私が、残っているのでしょうね?」

「ね? おばちゃん、こういうことに強いのよ。とりあえず、データを消したのはいつ?」

「今日の三時くらいです」

「わかった!」

 清掃業者の女性は明るくそう言うと、携帯電話を取り出してどこかへ掛け出した。

「もしもし、涼ちゃん? ちよこです。今ってサーバーにアクセスできる? データを間違って削除しちゃったから、バックアップデータが欲しいの。消したのは今日の三時って話だから、大丈夫よね? 場所? じゃあ、本人に変わるわ」

 ちよこさんは、携帯電話の通話口をティッシュで拭いてから私に差し出してきた。

「データの正確な場所と、データ名を電話中の人に教えてあげて」

 はい、と差し出された携帯を受け取り、「もしもし、お電話代わりました、人事課 和田です」

『お疲れ様です。情シスの坂本です。データ復旧ですよね。確認するのでフルパスで教えてください』

「フルパス?」

 名乗られた名前が飛んでいく。フルパスとは?

『円マークが付いているでしょう?その最初から……ああ、僕の言うとおりにマウス動かして』

 ちよこさんは私と涼ちゃんさんが通話している間にフロアの遠くから掃除機を掛けていた。

 ガーガーという音に、なんだか安堵する。

『あ、ありますね。今日の十二時のバックアップ分が……さっきのフォルダにBUって付けてフォルダごと保存します』

「あ、出てきました」

『くす。じゃあ、中味、確認してもらえますか?』

 やさしい声音に安堵してフォルダの中のプレゼンデータを開く。

 今日の午前中に完成したことを確認したデータを、無事に開くことができた。

「はい、大丈夫です。欲しかったデータです」

『今度からデータ消しちゃったって思ったら、気軽に情シスに問い合わせてくださいね。内線だと527です。じゃあ、ちよこさんに代わってもらってもいいですか?』

「はい、本当にありがとうございます」

『いえいえ~。仕事ですからお気遣いなく~』

「はい、でも、ありがとうございます。ちよこさん、お電話代わってくださいとのことです」

 ちよこさんは、机上を拭いていた。

「はいはい、ちょっと待ってね~」

 ととと、と歩いて来て携帯を受け取る。

「もしもし、涼ちゃん、ありがとうね~」

 通話を切って、ちよこさんが微笑む。

「無駄な残業しちゃダメよ?」

 なんだか圧のある笑顔にこくこくと頷く。

「バッドニュースファーストって知ってる? 困ったな、拙いなって思ったら、すぐに相談ね」

「……はい」

「とはいっても、事情も知らないのにそんなこと言われても困るわよね?」

 頷くことしかできない。

「まず、アナタだけがこの広いオフィスで残業をする、するとどうなる?」

 質問に首を傾げる。

「戸締まりができないわ」

「……確かに」

 このオフィスビルは、自分が所属している会社だけでなく、いくつかの会社が入居している雑居ビルだ。

 誰でもこのフロアに入ることができる。

「若い女性一人。頻繁に残業している。悪いことをしたい人からしたらビッグチャンスね」

 目を見開く。

「このフロアは、経理と総務も同じフロアよ。本来なら役職者と、業務的にどうしても残業が多くなる数人の社員だけが鍵を掛けるフローになっている。だけど、今はアナタ一人。アナタは施錠方法を知っているの?」

「……はい」

 課長が「和田さんが一番遅いことが多いんだから、覚えればいいよ~」と押しつけていったのだ。そのため、部署では日頃から帰宅が一番最後になっていた。

「どうして?」

 圧が強過ぎるので、仕方がなく……施錠を押しつけられた事情を説明する。

 でも、こんなに事情に明るくて、情シスの人を愛称で呼ぶような人が、ただの清掃業者とは思えない。

 話しても情報漏洩には……ならないよね?

「ちよこさんは……うちの会社の、方ですか?」

 恐る恐る尋ねれば、マスクを取った綺麗な笑顔が目の前にあった。

「和田さん」

 名前を呼ばれて瞬く。

 自分はこの人に名乗っていない。

「告げ口は、業務よ」

 その言葉に目を大きく見開く。

「私が我慢すれば、これくらいなら耐えられる……そういうの、上司からしたら、本当に迷惑」

 バッサリと言われて、唇を噛む。

「ちょっとご相談があるのですが、ご存知かもしれませんが、を枕詞にチクるのよ。大概の上司なんて部下の不満になんて気が付かないんだから。チクるのは仕事」

「……はい」

「やれているんだから不満はないんだろう。文句を言わないのだから気にしていないんだろう、そう判断されても仕方がないのよ。『告げ口』も『文句』も『報連相』よ。弊社、人事課・新卒採用係の和田和美さん」

 フルネームで呼ばれて、ああ、この人は……と見上げる。

「……副社長?」

「ご名答」

 マスクをして、化粧もなし。髪も整えられずに帽子を被っていれば、彼女が副社長とはわからないだろう。今はマスクを外してくれたから、社内報で見た顔と照らし合わせて記憶を探ることができた。

「掃除は趣味でね、ついでに社内調査もしているの」

「……そうなんですね」

 彼女は掃除道具の入ったワゴンからジュースのパックを取り出した。

「コーヒーとアップルとオレンジがあるけど、どれがいい?」

「……コーヒーで」

「綺麗な鞄に入れていたから、汚くないわよ」

 ふふっと笑われる。

 椅子に腰掛け、パックのジュースを飲む。

「はい、じゃあ、報連相ターイム」

 元気な声掛けに、和美はつらつらと現状を話し出す。



 配属された可愛い女性社員。

 男性たちに甘えてのらりくらりと仕事をしない彼女。

 増えた飲み会。

 押しつけられた仕事。

 残業をして仕事をこなすしかない日々。


 ああ、改めて話してみるとこんなにも酷かったのだ……



「まあ、酷いわね」

 ちよこさんは目をぱちくりとさせて、左頬に手を当てる。

「我慢させる人ってね、最初に相手がちょっと我慢してくれると、調子に乗って際限なく我慢させるのよ」

 泣きながらこくりと頷く。

「自分の心の換気扇は、自分でしか掃除できないわ……泣けるってことはまだましな状態だと思えるけど……よく我慢したわね。でも、我慢していても解決はしなかった。酷いようだけど、それだけは覚えていて」

 やさしい声に和美はさらに声を上げて泣いた。

「今日は……水曜日ね。じゃあ、アナタは木金と在宅勤務という名のお休みね。ゆっくりしてちょうだい。あと、ちゃんと産業医さんにも診てもらいましょうね」

「へ?」

「出社したら、解決してるから! 楽しみにしてて!!」

 ふふっと微笑まれて、和美は……小さく笑って「はい」と答えた。





 ◇


 月曜日にドキドキしながら出社すると、人事課・新卒採用係は和美以外のすべての人が異動していた。

「いじめをしていた人が別室移動になるのが、当たり前だもの」

 隣の席に座ったちよこさんが不器用にウィンクをする。

「ウィンクって難しいわね、両目を瞑っちゃうわ」

「ちよこさん、インターンシップ開催の学校資料をまとめました」

「ちよこさん、今日の訪問先学校の情報です」

 ちよこ以外にも五人働いているが、すべて課長以上である。居た堪れない。

 これから三ヶ月くらいは他の部署からもローテーションで役職者が来て、手伝ってくれるらしい。その間に異動者を選定して、教育をするのだという。

 総務部長に「和田さん、この資料はこんな感じかな?」とお伺いをされるのはとても緊張する。

「和田さん、いっそのこと人事課長になる?」

 データを復旧してくれた情シスの涼ちゃんさん(お名前を知らないので仕方がない)が笑ってくれた。

 それに周囲がうんうん頷いている。

「ムリムリムリムリ!!」

 ただ唯々諾々と我慢をしてしまう自分が上司になるなんて無理過ぎる。

 ただ、自分がもしも上司になるなら……部下になった人には、これだけは最初に伝えようと思う。



「告げ口は業務よ」と。







 ◇


「和美!」

 庶務に移動となった大竹が出入り口で私の名前を呼ぶ。これから大学訪問するため出掛けるのに、迷惑な話だ。

 彼のことを迷惑だとしか思えない時点で、しっかり吹っ切れているとわかって安堵する。

 彼には大泣きをした日の夜に、お別れのメッセージを送った。彼からは高圧的な了承メッセージが届いたので、もう彼氏彼女の関係ではない。

 綺麗さっぱりだ。

「まあ、知り合いの女性を下の名前で呼び捨てるなんて、下品ね」

 隣のちよこさんが目を丸める。

「……副社長」

「大竹さん、庶務のお仕事はどう? シュレッダーが溜まっていたから、助かるわ~」

 背が高くて仕事もできて、話し上手で格好いいと思っていた彼も、ちよこさんや他の役職者たちに慣れた状態だと見劣りしてしまう。

 役職者なのに、人事課・新卒採用係に手伝いに来てくださった方たちは自分で自席を掃除するし、コピーも自分でし、お茶も自分で煎れ、シュレッダーも自分で掛ける。

 慣れない手つきでパソコンを使っているけれど、自分の後任のことを考えて資料を作り、マニュアルも残していく。

 癖の強い人が多いけど、仕事は着実に進む。

 素敵。

 高飛車に働かせるようなことはしない。

 さりげなく、やる気を上げてくれるのだ。

 些細なことにも「ありがとう」と告げてくれ、資料が完成した際にはきちんと「和田さんが作ってくれたんだよ」と添えてくれる。

 他部署へ業務を引き継ぐ時も必要な情報入力までしてくれる。学校から送られてきた重要書類を他部署に勝手に渡したりしない。

 普通に、一般的に、通常通りに、当たり前の仕事をしてくれる。

「オレ、いえ、私は庶務への異動は納得しておりません」

「そうなの? じゃあ、上司に相談して。あと、和田さんになにか言っても、彼女には人事権はないわよ?」

「……わかっております」

「接見禁止まで会社で命じることはできないけど……和田さん、まだこの人に未練ある?」

 尋ねられて「ありませんね!」と即答してしまう。

 私のその答えを聞いて、大竹は顔を引き攣らせていた。なんでだ。

「じゃあ、話す必要ないわね。悪いけど仕事で出掛けるの。どいてくれる?」

「学校訪問なら私が!」

 今まで大竹が学校訪問をしていたのだ。

「あ、もういいわ。弊社のことしっかり理解しないで、理想ばかり語られても迷惑なのよ。学生さんにとって就活は人生の一大行事なのよ。デメリットを説明しない会社なんて、信用できないもの」

「……あ」

 ちよこさんはバッサリと彼の働きも切り捨てる。

「庶務というのはアナタにとっては屈辱的な異動と思うかもしれない。でもね、下支えがなければ仕事は回らないのよ。アナタに一番足らないスキルを身につけるために、庶務で頑張りなさい」

「足りない、スキル?」

「他人への『感謝の心』よ。じゃあ、行きましょう、和田さん」

「はい!!」


 その後、大竹、課長は違う階の庶務課でこき使われ、可愛い子はこれまた違う階の情シスで日々パソコンのセットアップやメンテなどの無機物相手の雑務、他の同僚はそれぞれ日の当たらない部署へ異動になったという。辞令交付はされていたから、確認はできたけれど、私は怖くて見ていなかった。

 車を運転しながら、ちよこさんがさらりと教えてくれた。

「日本の会社は、こういう時に退職させ辛いのが問題なのよね……」

 と溜息を吐いていた。

 その言葉を聞いて、身を引き締める。

 弊社は、人事異動に関して就業規則に「業務の都合により配置転換や転勤を命じることがある」などの規定があるため、基本的には断ることはできない。

 自分も、どの部署に突然行くことになるかはわからないのだ。

「真面目に働いていれば、事前に相談するから安心して」

 やさしく笑ってくれるけれど、私は曖昧にしか笑えなかった。





 ◇


 その後、他部署からの方や派遣さん、転職者などいろいろな方が集まって、新生人事課・新卒採用係として稼働することになった。

 噂では、ちよこさんはまた掃除人をしているらしい。

 彼女と会うことはあまりないけれど、メールは時折やり取りをしている。

 だからといって、甘えてはいない。チクリという業務をすることはあるけれど。

 だって、彼女の社内権力に甘えるのは大竹以上にみっともないと思うから。

 情シスの坂本さん(涼ちゃんさんのこと。社内スケジュールでお名前を知った)とは、その後多少のやり取りはある。

 可愛い子のことで気になってメールをしてみたのだ。坂本さんは美的感覚が独特らしく、可愛い子を見ても「目鼻の配置が整っているね」と変な感想を教えてくれた。無機物相手だから、媚びを売っても答えてくれないのと、情シスメンバーが独特過ぎるためか、最近はコツコツと業務を自分でしているらしい。

「僕はあんまり関わりがないけど、情シスの課長が面倒見るって張り切っていたから、こき使われるんじゃない」

「はは」

「和田さんのところでサボった分、働けばいいんだよ」

 やさしい声で辛辣だ。

「僕、ちゃんと働く人にはやさしいから、安心して」

 笑顔に、引き攣った笑顔しか返せなかった。







 ◇


 久々の残業。とはいってもちよこさんと会った時のような深夜残業ではない。

 近所のコンビニでコーヒーを買って戻ってきたところでちよこさんと擦れ違う。

「お疲れ様です」

「お疲れ様です」

 何事もなかったように擦れ違って、そして後ろ髪を引かれて振り向く。

「ちよこさん、ありがとうございます!」

 私の声にちよこさんはゆっくりと振り向く。

「和田さん……告げ口は?」

 にまっと彼女が笑う。

「業務です!」

 私は笑顔で返す。




 席に戻ると、総務のフロアに一人女性が残っていた。

 小さく啜り泣く声が聞こえてきた。

 引き出しから常備している小分けのチョコレートとティッシュを取り出す。

 そして、総務のフロアに向かう。




 きっと、夜間掃除人ちよこさんが解決済だろうけど、ちょっとは……慰めてあげられるかもしれない。

 そう思って、声を掛ける。



「ちょっと、あなた、どうしたの?」




おしまい


新社会人の方に捧げます(笑)

告げ口は報連相のひとつであり、業務ですよ~。

あと、データを消したらまずは専門家に頼りましょう!

保存大事。お願いです。保存してください。

上司は察しないと思って、お仕事してくださいね~。

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