好きな作品を語る② 小林秀雄 「ランボーⅠ」
「ランボーⅠ」は私の思い出の作品だ。
私は長い間、小林秀雄がわからなかった。それがある時からわかるようになった。正確には、相変わらず、わからなかったが、(ああ、確かに凄い)と感じた。そう思わせてくれたのが「ランボーⅠ」だ。
それでは「ランボーⅠ」という評論はどのような評論なのか。その為にはアルチュール・ランボーという詩人について説明しなければならないが、『好きな作品を語る』というこの文章は、完全な趣味としてやりたいので面倒な説明を省かせてもらう。
まあ、夭折の天才詩人という事だけわかってもらえればいい。それと、ランボーは象徴派の詩人で、彼の自己意識にあらゆる言葉が寄せ集まって、詩的空間が作られた。リアリスティックに、己の心を歌ったり、世界の風景を歌ったりするのとは違う。世界を、もう一段階、屈折した見方で見る。だから象徴派という事になっている。…このあたりで十分だろう。
さて、それでは「ランボーⅠ」とはどのような評論なのだろう。小林秀雄にはアンチが多い。というのは、小林を理解できない人が多いという事だ。小林を理解しきった上で、小林を完全に否定した人というのを私は見た事がない。
「宿命というものは、石ころのように往来にころがっているものではない。人間がそれに対して挑戦するものでもなければ、それが人間に対して支配権をもつものでもない。吾々の灰白色の脳細胞が壊滅し再生すると共に吾々の脳髄中に壊滅し再生するあるもののようである。」
のっけからこんな文章が出てくる。おそらく意味のわからない人が多いだろう。
これは、人間の宿命というものが、近代に至って、自意識に移ったという事を意味している。ランボーは自意識を中心とする詩人だった。小林秀雄もまた自意識を問題とした批評家だった。
宿命というものは、人間が挑戦するものでもないし、人間を支配するものではない。短い言葉で済ましているが、おそらく、ギリシャ悲劇あたりのイメージをしているのだろう。古代のように、宿命は神の託宣のような形で外在化しているものではない。そうではなく、宿命は近代において、人間そのものの自意識に宿った。というより、自意識そのものが近代人の宿命である。それが小林の言いたい事だ。
「創造というものが、常に批評の尖頂に据っているという理由から、芸術家は、最初に虚無を所有する必要がある。そこで、あらゆる天才は恐ろしい柔軟性をもって、世のあらゆる範型の理智を、情熱を、その生命の理論の中に叩き込む。」
これも難しく感じる部分だろう。「創造というものが常に批評の尖頂に据っている」というのも、近代の芸術の特質を言っている。最初の象徴派詩人ボードレールは、批評家でもあった。近代とは、批評的精神を持たずには決して芸術家たる事はできない、そういう時代だった。それは自意識というものが宿命になったという言葉と対応している。
創造は何故、批評の尖頂に据るのだろうか。それは創造というものが、世界のあらゆる事物を、芸術家の自意識によって包括的に捉えるものだからだ。芸術家は自意識から全てを始める。自らの頭脳によって世界を捉えようとする。その時、世界の膝下に頭脳があるのではない。頭脳の下に世界がある。その孤立と、絶対者の自覚の中に近代の芸術家の場所があった。
「ところが、彼は、自身の坩堝から取り出した黄金に、何物か未知の陰影を読む。この陰影こそ彼の宿命の表象なのだ。この時、彼の眼は、痴呆の如く、夢遊病者の如く見開かれていなければならない。(中略)何故なら、自分の宿命の顔を確認しようとする時、彼の美神は逃走してしまうから。」
このあたりから本格的に難しくなる。ここでは、近代の芸術家は、徹底的に自意識的であらねばならないという指摘をしつつも、その先に、しかしそれでも芸術は必ず無意識的なものを含んでいなければならない、という事が言われている。
ここで彼は近代一般の芸術から離れて、アルチュール・ランボーという詩人の特質に触れようとしている。
「彼の眼は、痴呆の如く、夢遊病者の如く見開かれていなければならない」。何故だろうか。芸術家は自らの自意識を尖頂として、芸術作品を作る。だが、自意識そのもの対しては彼は、眼を瞑っていなければならない。そうでないと、作品にならないからだ。
自意識が全てのものを自らの中に収めて、それを配列して作品を作ろうとする時、その芸術創造の意志、自意識そのものが持っている無意識性には眼を閉じなければならない。そこに眼を向けると、作品を作るという事そのものが無意味に思われ、創作が不可能となる。
自意識とはそもそも全てを分解してしまう強力な力である。だから、自意識がある作品を作ろうと芸術的衝動を抱いた時、その衝動そのものに対しては自意識を向けてはならない。そんな事をすれば、芸術創作そのものがバラバラになり、彼は決して作品を作れない。
先回りして言うと、この崩壊そのものをランボーは徹底的に遂行した。だからこそ「彼の精神は実行家の精神であった」のだ。ランボーは、自らの芸術衝動そのものに自意識を向けて、それはそのまま爆発を起こした。
「彼は、逃走する美神を、自意識の背後から傍観したのではない。彼は美神を捕えて刺し違えたのである。恐らくここに極点の文学がある。」
美神は、作品を作り出す神だ。インスピレーションというものが我々に呼び起こす「無意識性」を考えてみよう。インスピレーションは、頭脳的なものではなく、天啓であり、無意識的なものだろう。だが、野人ランボーにとって、インスピレーションの如きは問題ではない。
彼はインスピレーションに飛びかかり、内部にあるものを引き裂き、崩壊させてしまう。彼はその蛮行を詩という形にさせた。凡庸な詩人が(うまい詩を作ろう)とするのとは反対の方向へ彼は歩いた。彼は、詩を破壊しようとして詩を書いた。その代償として、彼は彼の天啓を失った。彼はもう詩人ではなくなっていた。彼はただの野人になり、アフリカの野に旅立った。「極点の文学」とはそういうものだった。
※
小林は、名作「酔いどれ船」を引いてくる。そこに、後年の破壊精神を見る。
「犬儒主義とは彼にとって概念家の青ざめた一機能に過ぎなかった。理由は簡単だ。ランボオの斫断とは彼の発情そのものであったからだ。」
犬儒主義とは、冷笑的に世界を見る事だ。ランボーにとって、犬儒主義が縁遠かったのは、彼が世界を切り刻む様が、彼の情熱そのものだったからだ。要するに、ランボーという天才において、詩作という理知的行為と、彼の魂という情熱的形式が完全に融合していた。
現代の理知と情熱が分離した人々を見れば、ランボーがいかに彼らと遠い存在がわかる。「本音」としての情熱と、「建前」としての理知。情熱は欲望の域を出ず、理知は、知識レベルに留まり、彼の魂に侵入する事は決してない。凡人においては情熱と理知が融合する事は決してない。天才だけがそれを可能とする。
「もはや、彼の詩絃が外象に触れて鳴るのではない。彼は、神速純粋な精神の置換を行うのである。自転車の鋼鉄は、ペダルから彼の血管に流入して、彼の身体は鋼鉄となって疾走するのだ。」
ランボーの自意識は詩作の過程において、世界に向かう。自意識が世界を取り込む時、もはや外と内の境界を持たない。自意識そのものが世界であり、世界そのものが自意識でもある。ここに「金属の酒宴」が開かれる。だが、このような極限的な状況に詩人は耐えられるだろうか?
「彼は陶酔の間に、自らの肉を削ぐ如く、刻々にその魂を費消していた。」
世界と一体となり、神速に回る精神機械は、やがて自らに疲労を感じるようになる。世界が己となり、己が世界となってしまえば、もはや抵抗物はどこにもない。そこで、ランボーは疲れる。
「時よ、来い、
ああ、陶酔の時よ、来い」
(ランボー『地獄の季節』)
この物悲しいリフレインは、決して眠る事のできない男の心からの叫びである。獣は眠っている。愚者も眠っている。詩人だけが眠れない。彼は覚醒を義務付けられている。不眠症の詩人は、自らの眼光に疲労してくる。
「全生命を賭して築いた輪かんたる伽藍を、全生命を賭して破砕しなければならない。恐るべき愚行であるか。しかしそれは、彼の生命の理論だった。」
疲労は自壊へと至る。不眠症患者が自殺を試みるように。ランボーは詩というものを破壊しようとしていた。美神を捕らえて、刺し違えようとした。刺し違える様それ自体が、最後の「詩」となった。
「マストの尖頂から海中に転落する水夫は、過去全生涯の夢が、恐ろしい神速をもって、彼の眼前を通過するのを見るという。」
水夫とはランボーの事だ。彼は芸術家としては投身した。そこで、彼は『彼自身』を見たのだ。
「詩弦の駒はくだけて散った。ランボオはアフリカの砂漠に消えた。吾々は、砂漠の如く退屈な、砂漠の如く無味な、しかし砂漠の如く純粋な、彼の書簡集のみしか読む事が出来ない。」
詩人ランボーは死んだ。全ては終わった。だが、終わる所にまた始まりはある。例えば、小林秀雄とかいう東洋の貧乏人がある日、アルチュール・ランボーという詩人と出会うという事など。
「ある天才の魂は、傍流たらざるを得ない秘密を持っている。後世如何に好奇に満ちた批評家が彼の芸術を詮表しようと、その声は救世軍の太鼓のように消えて行くだろう。人々はランボオ集を読む。そして飽満した腹を抱えて永遠に繰り返すであろう。「しかし大詩人」ではないと。」
小林はここで、ある人間の魂ー宿命は、そうならざるを得ないという必然に触れようとしている。それは、比較対照して評価できるようなものではない。一人の人間の魂は、量ではなく、質であり、それは「大詩人ではない」というような比較によっては決して語れない。
「ランボオⅠ」はここで終わる。小林秀雄はランボーという一人の詩人の魂に触れた。そしてそれに触れる事、触れざるを得ないという事が小林の宿命だ。だから、今を生きる我々は小林秀雄の魂に触れずに小林を否定し、排除しようとする人々に対して、小林的な立場から次のように言う事ができるだろう。
「人々は飽満した腹を抱えて永遠に繰り返すであろう。「小林秀雄は大思想家ではなかった」と。」
小林秀雄は一人の宿命であり、魂だった。魂に触れる為には、自らもまた一つの魂とならなければならない。そしてそれは、空間的に外在化できるものでは決してなく、己の中にある灯火と静かに向かい合った人間でなければ不可能な邂逅なのだ。