DQN、修学旅行中 海に落ちてあぼーん 何故かエビス様に祀りあげられそうになるクライシスの件
修学旅行の帰り道、フェリーの上でのこと。
12月半ばの寒い時期。九州名所めぐりを終え、帰りは船で一泊の予定だった。大阪港まではひと晩かかるのだ。
2年B組の向坂 剛が夕飯を食べてひと息ついたころ、デッキに出て、ある人を待っていた。
じきにレストランからクラスメイトがやってきた。
それが璃子だった。
来年の3学年にあがれば、離れ離れになってしまうかもしれない。これまで仲良くしてくれたことに感謝するとともに、彼女への本当の気持ちを告るつもりでいた。
引っ込み思案の剛にとっては――名は体を表すとはいかなかった――、ありったけの勇気を総動員させなければならなかった。
案の定、せっかく璃子と向き合ったのに、言葉に窮した。
月明かりのもと、璃子はあまりにも可愛すぎた。
白い息を洩らしながら剛を見つめる顔こそあどけないのに、身体のラインはすっかり大人っぽい色気を同居させていた。
好きだと言わずにはいられない。
一気に気持ちを吐き出すと、嬉しい声が返ってきた。
「ウチも向坂君のこと、特別な存在や思うとった。上の学年になったら、また一緒になれたらええなあ」
天にも舞いあがる思いだった。2人は約束を交わした。
ところがそこへ、横槍を入れる人物が現れた。
デッキの陰に隠れて煙草を吸っていた射場 丈だった。一部始終を盗み見ていたらしい。
剛と璃子は身を硬くした。
丈は同じクラスで、鼻つまみ者の不良少年。
厄介な相手に絡まれたと思った。
丈は剛を嘲り、璃子にちょっかいを出そうとする。
「モヤシっ子には釣り合わねえさ。おれとよろしくやろうや、璃子」
丈は璃子を無理やり連れて行こうとする。
剛は、生まれて初めてケンカを挑んだ。
あえなく吹っ飛ばされた。
璃子が割って入る。剛に加勢する。
逆上した丈。
璃子に手をあげようとした、そのときだった。
それを阻止するべく、剛は相手の腰にタックルした。
2人ははずみで、鉄柵を乗り越え、夜の海へ真っ逆さまに転落した。
璃子はすぐに先生やフェリーのスタッフを呼んだ。
幸い、剛は浮き輪で救助されたものの、丈の姿を見失った。
投光器を灯し海を捜した。見つからず、すぐに海上保安庁へ救助を要請。
ヘリコプターが現場上空に到着したものの、しだいに波が高くなり捜索は難航した。
ニュースでも報道された。
1週間を費やし、周辺の海を隈なく捜したのに、杳として行方はわからなかった。
月日だけが空しくすぎていった。
◆◆◆◆◆
――おれはここにいるってのに! なんで、誰も見つけてくれないんだよ、クソが!
――あんまりだろ! まだ18になったばっかだぜ? ろくに女とやれなかった! 母親には迷惑かけっぱなしだったし……。
――なんで海の底に、いつまでも沈んでなきゃなんねえんだ。とっととダイバーを潜らせろ!
――おっ? やっと浮きはじめたぞ……。こうなったら、おれの方から近づくしかない!
2週間後、海底に沈んでいた丈の身体に、劇的な変化が生じていた。生前のスリムな体型はどこへやら、胃腸や肺でガスが充満し、でき損ないの風船のように膨張したのだ。
おかげで、潜水艦がバラストタンクを排水したかのごとく浮上しはじめた。
水面を割った瞬間、見えた空のなんと青いことよ。
12月下旬の寒空とはいえ、清々しさに、丈は嬉しい悲鳴をあげそうになった。じっさいに肉体は、うんともすんとも言えないのだが。
眩いばかりの海上を、舟板のように漂っていた。
――それにしても、剛の奴! ひょっとして、あいつだけ助かったんじゃなかろうな? なんであのボンボンだけが、リア充満喫すんだよ!
――誰だっていい。せめて、おれの死体だけでも掬いあげてくれ! いつまでも、こんなとこに浮かんでるだなんて嫌だ!
――海底じゃ、タコやら甲殻類に身体を毟り取られた。やっと水面に浮かんだ今だって、背中の肉を小魚どもが、削り取ってやがるってのに!
――死んじまったことは、今さらどうにもならねえ。けど、これ以上、身体がボロボロにされるのだけは御免だ!
丈は、そのまま波間を揺れていた。左手に四国本土が見えていた。
その日は冬の日差しを浴びて、ぷかぷか漂うだけだったが、やがて黒潮に乗り、離岸流のせいで沖へと運ばれた。
事故から半月以上が経った今でも、周辺海域で捜索隊が丈を捜していたが、まったく手がかりをつかめずにいた。
実は船から転落したとき、低体温症になる以前に、潮の流れに引き寄せられ、船の側壁に頭を打ち付け失神し、そのまま溺死したのだった。
直後、いきなり海面に姿を現したマンボウが、なんの気まぐれか、丈を背に乗せたまま泳いでいったのだ。思いのほか落下地点から遠ざかってしまったので、見つけられずにいたのである。
◆◆◆◆◆
さらに5日経った、ある正午前のこと。
ベタ凪の海である。1隻の漁船が走っていた。シイラ専門の巻網船だった。2人の漁師が乗っている。
防水エプロン姿の中年男が船首に立ち、風を受けていた。
操舵ハンドルを握るのは高齢の老人だった。険しい眼で魚群探知機を睨んでいる。中年男をそのまま老けさせたような顔つきから、親子だとわかる。
息子が岩月 洋、親父は肇だった。
やがて漁場が見えてきた。
竹を束ね、黄色い旗を立てた『漬け木』を浮かせているから、遠目にもわかる。
シイラは物陰に集まる習性があった。そこから誘い出すように網を投じるわけである。
例年に比べ魚が少なすぎた。肇は悲愴感に満ちた表情で、息子に合図する。
洋は餌を放ったあと、網を流した。
船は大きく旋回する。手ごたえは乏しい。
しばらくしてから、揚網機で網を絞っていった。
あとは祈る気持ちで見守るしかない。
今日はこれで8投目だった。シイラはわずか3本しか獲れていない。
網を揚げてみたが、またしても坊主……。探知機にいくつもの光点があったのに、まんまと逃げられたにちがいない。
「やれやれ、昔はどの漁場もシイラで湧いたもんやけんど、今年はめっきりだ」
操舵室で肇が天井を見あげた。
「店じまいじゃな、親父」と、息子は操舵室の窓に寄りかかって言った。「重油代がかさんで、やってられん。この稼業は博打や」
「けんど、時々当たりもある。そうやき、おれは辞めんで来たんじゃ」
「再来年は摩季を大学にやらんといけん。幹も高校にあがる。どこぞの私立へ行きたいんじゃと。やっぱり考えたんやけんど――物流会社の専務、やっちゅう同級生がおる。長距離トラックの運転手を募集しちゅうらしい。そこそこの給料を払うてくれる。親父さえよかったら、そっちに転職しようか思うがよ」
「安定的なゼニのためにか」肇はヤッケのポケットから煙草を出して咥えた。火をつける。「洋、せっかく30年近う、一緒にやってきたじゃねえか。われはおれから、いろんな技術身につけた。今さらフイにするがは惜しい」
「こうも魚獲れなきゃ、採算に合わん」
「東んところの倅は、ひと回り若い。漁師ひと筋で食いゆうってのに」
「あっちは真鯛の養殖や。猿じゃあるまいし、マネなんかできっか」
不貞腐れたように洋が言うと、肇は血相を変えて、
「そいつは忌み言葉だ。海の上で言っちゃならん!」
「また、そがな迷信を」と、洋は鼻白んで操舵室の壁から離れた。「猿は人が去る――つまり、死ぬから縁起が悪いってか。親父は古いぜよ」
「最近の若い衆は、沖言葉を気にせんなった。おれの上の世代はうるさかった。四つ足の獣、長い胴体の爬虫類の名を言おうものなら、こっぴどう叱られたもんじゃ。漁場へ向かっちゅう最中でも、途中で引き返したほどやった」
「それはそれは」
漁船は、さらに沖合の漁場に向けて進んだ。この際、禁忌はやりすごした。
次がだめなら、本日の漁は終了と決めていた。
今年はさんざんの成果だった。親子は貯えを切り崩していた。
「豊漁に恵まれたらええのに」洋はエンジン音に負けじと言った。「宝田んとこのブリ狙いの船なんか、毎回、大漁旗あげて帰ってきやがる。他の船がさっぱりでも、あいつだけ。まじないでも、してんやないか?」
「まじないか。かもしれん」
肇は前を見据えていた。
ひとしきり船は太平洋を南に進む。
そのとき――。
視力のいい肇が、はるか前方の漁場で目ざとく見つけた。
漬け木以外のモノが浮いているのだ。
「まんざらツキに見放されたわけでもねえ。あれこそエビスだ」
「エビス?」
じきに漁船は、海上に漂っている物体のそばに着いた。左舷側に横付けする。
洋は思わず呻いた。
「嘘だろ……。死体じゃねえか。見ろよ、ありゃ学生服!」と、口もとを押さえて言った。「もしかして、例の行方不明の高校生じゃ」
「らしいな」肇はエンジンを切ると、船端に出た。「おれの言うとおりにやれ。うまくいけば、われは転職せずにすむかもしれん」
「警察に届けるべきやろ!」
「いいや、こいつは例の学生じゃねえ。おれたちにとっちゃエビス様や。これより、大漁祈願の契約を結ぶ」と、肇は操舵室にあったコップ酒を傾け、遺体に振りかけた。「海で死んだ人間ってなあ、たらふく海水を飲んだせいもあって、なかなか成仏できんそうや。陸へあげちゃると喜ぶという。そんとき、こげな流れ仏に願掛けする」
「噂に聞いてた流れ仏の儀礼か。効果あんの?」
仰向けになって浮かぶその溺死体は強烈だった。
出目金みたいに眼球が突出し、左右の焦点はあべこべの方向を向いていた。かつらを脱いだみたいに、ごっそり髪が脱落しているせいで、外見は男女の区別もつかない。学生服が裂けるほど腹部がパンパンに膨れあがり、そのくせ死後硬直は緩み、手足が海藻のように揺れ動いていた。
洋は良心の呵責を憶えながらも、生活のために背に腹は代えられないと思った。
肇に従うことにした。
「どうぜよ、豊漁にしてくれるか? してくれると約束するなら引き揚げちゃる。ちゃんと埋葬しちゃるぞ」
肇は手を合わせ、死体に向かって言った。
かたわらに並び、これも背筋を正した洋が、
「させる、させる。約束する」
と、答えた。
洋は死体の代弁者を演じたつもりだろう。すべての手順は肇から教わったものだった。
◆◆◆◆◆
――なに言ってるんだ、こいつら? せっかく見つけてくれたのに、警察届けるってのが筋だろ!
――さっさと引き揚げてくれ! なんでおれにお願いしようってんの! 意味、わかんねえ!
――こいつら、自分らの利益のため、死体をダシに使おうってか?
――なら、化けて出てやるからな!
◆◆◆◆◆
親子は、網を入れて遺体を回収した。
肇は道具入れから菰を取り出し、それで遺体を覆ってやった。
漁はやめ、港に帰ることにした。
膨らんだ覆いがピクリと動いたことに、2人は気づいたかどうか。
洋の脳裏に、長女の顔がよぎった。
この男子生徒は、住む場所、通う高校はちがえど、摩季と同い年。心を無にして、大漁祈願のための自前の神として祀りあげるなんて、おいそれとできるものではない。
グズグズしていると、親父の声で我に返った。
「陸が見えてきた。着いたら、エビスをこっそり車に運ぶ。ええか、誰にも見られちゃならん。エビス――流れ仏のことは、墓場まで持っていくと誓え」
「もしバレたらコトやぞ」と、洋は我が身を抱いたまま言った。そしてハタと思いついた。「もしかして、宝田の奴……。やけに豊漁続きのあの船も、流れ仏にあやかってるんじゃ」
そのときだった。
菰がずり落ち、遺体が露わになった。
遺体が突如、上半身を折って、むくりと起きあがったのだ。
腹部にたまったガスが押し出される形で、なんと口からゲップを洩らした。
これらは腐乱死体に稀にある、急激なガスの膨張と温度差による生理現象かもしれない。
しかし次の瞬間、思いもよらぬ言葉までがまろび出た。
「……お、おれは……誰かの、神になんかに……な、なるなんて、まっぴら御免だ……」
おぞましい声でそう言ったとたん、臨月を迎えたような腹部が、ボン!と音を立ててはじけた。
それこそクレイモア地雷のように、汚らしい体液を扇状に海に向かってまき散らしたのだ。
幸い、親子はしぶきを浴びずにすんだ。仰天して、身体が凍り付いた。
色とりどりの肉片や粘液が、帯を引いて後方へ流れていく。
肇はふり返り、片方の眦をあげた。
「見ろ、洋。あれがエビス様のご利益かもしれん」
洋は船尾に眼をやった。
海面が烈しく湧いている。数えきれない銀色の魚影が群れをなし、暴れに暴れていた。
死体のエキスが、撒き餌となったにちがいない。
恐るべき数のシイラが船のあとを追ってきた。
洋は、そっと網に手をかけた。
了
※参考文献
『海に生きる人びと』宮本 常一 河出文庫
『海の文化誌』田村 勇 雄山閣
『ケガレの構造』波平 恵美子 青土社 ★第三章の論文『水死体をエビスとして祀る信仰――その意味と解釈』は必読。
2010年に嫁のお義父さんが亡くなった。生前、元気なころは熊野灘でサンマ漁に従事していた。75歳まで現役を貫いた不屈の人だった。熊野は300年以上の歴史を持つサンマ漁発祥の地として知られている。
その義父が元気なときだ。僕が嫁と知り合う以前、まだ嫁が高校生のころ――。
地元にある岬状に張り出した海岸景勝地で、磯釣りをする人が誤って足をすべらせ、海に落ちて死亡する事故がたびたびあった。今でこそ対策が敷かれたおかげで少なくなったとはいえ、当時は年に何人も犠牲になったそうだ。
そんなときは決まって溺死体は潮流に乗り、すぐそばの七里御浜北端の入り江に漂着した。
地元の町にそんな報せが届くと、決まって漁師たちは現場へ走り、遺体を見にいったという。
むろん中には、善意のつもりで警察関係者たちに協力する人もいただろう。
ところがほとんどの漁師は、遠巻きに遺体を見るだけだった。
高校生だった嫁は、そんな死亡事故があるたび、「私も連れてって」と、父にお願いしたらしい。
ところがいつも断られた。グロがだめな人には考えられない度胸である。現在ではバイオハザードシリーズを嬉々としてプレイし、ことごとく最高難度でクリアするハードゲーマーだ。
なんでも義父いわく、「溺死体は時間が経つと、皮膚は豆腐みたいに生っ白くふやけ、身体が膨れあがって、服まで脱げて素っ裸だ。両方の眼球はなくなり、空洞になっている。髪の毛もごっそり脱落して、とても見られたもんじゃない。そんなの見た日には、お嫁に行けなくなっちまうぞ」と脅し、いつも一人で見にいった。
……この話を嫁に聞かされて、僕は単なる男たちの悪趣味な好奇心にすぎないのではないかと思っていた。娯楽の少ない漁師町ならではの、他人の不幸は密の味、を確認するような行為だと。
ところが海の民俗学を調べているうちに、もしや漁師たちは、海で遺体を引き揚げると大漁に恵まれると信じ、それにあやかろうとして我先に現場へ行ったのではないかと考え直すようになった。
こんなことなら生前、義父が元気なうちにちゃんと聞いておくべきだった……。