閃きの産業廃棄物
テレビのリモコンを適当に押しながら、チャンネルを変えていると、音楽番組や教育番組、ドラマやバラエティー等の様々な、彩りの華やかな世界の一端が目と耳を通して、脳に刺激を与えようとしてくれるが、歳も30を過ぎてくれば、刺激が弱く感じてくる。
どこかで見たよ聞いたよと、屑のような嘲笑を浮かべる自分がいる。
日常生活も、薔薇色なんて見たこともなく、かといって深淵を見るようなこともない、自分とにた境遇のやつなんて、掃きすてることも、使い捨てることも、ネット注文するぐらいに、容易なぐらい珍しくもなんともないだろう。
何一つ感動するものなんて作れず、産み出せず、消費するしかしていない人生のクセに。
まるでご意見番気取りで、長年携わってきたんだと勘違いするような、端からみればアホのような自分。
そんな自分とにたような魑魅魍魎が、跋扈している現代日本というのは、わりと地獄から五十歩手前ぐらいまで、きているのではないだろうか。
いや、こんな自分みたいな者達がいると言うのに、そんなやつらは、関係ないとばかりに、創作していく人達。
いや、自分たちみたいな人間にだって、感動を思い出させ、楽しんでもらおうとしている人達。
感動を産み出し、消費させてくれる、生産者達は善人すぎる天使か女神か、善なのだろう。
現代日本が、地獄になっていないのは、
そんな人達の心の賜物だ。
それを雑に消費し、あるいは破壊する、自分はなんて愚かしくて、短慮で、浅ましいと気づければいい。
世界は、まだまだ色づいていると思えるようになるだろうから。
綺麗ごとを並べて、矛盾だらけ、被害者のように悲観することも、誰かの悲しみを背負って綺麗ごとを並べて、敵対する者なら何をしてもいい正義感に溢れた登場人物が跋扈する、SNS慣れした現代社会の産業廃棄物のような自分だって、まだまだたくさん消費できるものがあるってわかるだで、世界は、まだまだたたくさん彩りに溢れている。