始まりの茶会
「レギアス。この魔道石板を君にあげよう。私が残せるものは、もう……これくらいしかない」
これはいつの光景だっただろう。
夏の館、小麦畑の向こう、森の奥。
うす暗い、秘密の隠れ家の中だから俺が七歳位。もう、十年も前の話だ。
とても遠い国から来たという年老いた旅人が一人、使わなくなった炭焼き小屋で行き倒れていたので、ほんの一日だけ面倒を見た。彼は翌日に亡くなってしまい、面倒ごとを持ち込んだ犯人にされた俺は、大公領へ避暑に訪れていた親類一同から理不尽な叱責を受けたものだ。
亡くなる直前。
彼は真っ黒で光沢のある石板を大事そうに取り出すと、俺の手のひらをそれに押し付けた。
知らない文字が空中にぼんやりと浮かび上がる様はとても神秘的で、俺がそれに目を奪われていると、彼は意味のある最後の言葉を口にした。
「この世界には、継ぐべきものが他にもある筈なんだ。もしよかったら、君も探してみないか――」
――――――知恵と力の結晶を。
「閣下。そろそろお目覚め下さいませ」
「朝から閣下はやめようよ、バロー」
「そこは慣れて頂きませんと。私も気を付けますので――」
ネックビリアス侯爵閣下――と、わざとらしく新しい肩書を口にしているのは従者の男だ。
今朝は随分と機嫌がいいようで、俺の着替えを手伝いながら歌いだしそうな気配を滲ませている。
「ネックビリアスに行くのは、まだ先の話だぞ?」
「確実に戻れるだけでも嬉しいのですよ」
彼の実家はネックビリアス領にある海沿いの大商店だから、俺が田舎領地に正式着任すれば、権限で休暇を与えることもできる。
当然その方向で考えていたが、こうあからさまに予定されるとなんだか素直になれない気分だ。
「落ち着くまで暇はやれないぞ? しばらくは視察三昧だ」
「それでも、海には急ぎの御用事がおありでしょう?」
「まあな」
魔道石板の燃料補給が急ぎなのは事実だ。
こいつを遙か彼方にある海にたっぷり浸けないと、早晩何もできなくなる。
頑丈な小箱に仕舞われた黒い石板をバローから受け取り【朝食の間】に降りていくが、表面に指で触れても表示が暗く弱々しい。
膨大な映像資料や文献を閲覧する力は既になく、このまま放置すれば赤文字で警告されているように機能が回復不能になる。
それだけは絶対に回避しなければ。
溜息をひとつ吐いて、石板を上着のポケットに放り込む。
「おはようございます、母上、義姉上」
「おはよう、レギアス。よく顔を見せて」
「おはよう」
二人に挨拶をしながら見回すが、他に家族の姿は見当たらない。
ここのところ連日の深酒だったから、父も兄も遅れて来るのだろう。
長年二重に抱えていた重責を降ろして身軽になった父と、ケテルダート大公領という王国の中枢を引き継ぐことになった兄。
どちらにも酒を飲む理由ならたっぷりある。
これから何十年も、王都と自領の往復を繰り返す兄の激務に比べれば、田舎領地にべったり張り付くことになる俺はどれだけ気楽か。
父の治世では手が回らず、優先順位を落とさざるを得なかったネックビリアス領だから、課題が沢山あることが当然予想されるが、それでもだ。
ただ、その新生活に入るためには両親から提示された条件をいくつか満たさなければならない。
一つは来年の春までに、宮廷学校をきちんと卒業すること。
若いからと侮られることなく領地運営をしていくには、確かに必要そうな経歴だ。
あと半年しか時間はないが、これはどうにかなる見込みが立っている。
全くどうにもならないのは――――
「それで。結婚のお相手は見つかったの? レギアス」
「いえ。母上、それはまだもう少し……」
田舎領地に引っ込む前に、王都で結婚して周囲に知らしめよ。
急に隠居を決めて、そのような命を出されたところで、全く出来る気がしない。
婚礼から逆算して設けられた期限まで、残りたったの十日間。
まあ、無理だ。
「私が決めてもいいのだけど、妃に相応しい人物を貴方自身が見極められるか。それも大事なことなのよ?」
「……分かっております」
兄と違って、王都から遠く離れて暮らすことが決まっているから、不人気なのは仕方ない。
自力で期限までに見つけられない場合、父母の手元に届いている見合い申し込みの中から選抜し、言い渡されることになっている。
申し込みのあった人を教えてくれれば、相手を探す手間が省けると思ったのだが、親同士に限った交換情報であって、当事者が見ていいものではないと却下されてしまった。
食卓を挟んで戦力比が二対一と分が悪く、増援もどうやら期待薄とあって困っていたら、意外なことに義姉――イザベルから助け船が出された。
「レギアス。今日のお茶会に、貴方も出席なさい。王宮では会えない方々が沢山いらっしゃるわ」
王宮では会えない――反主流派の女性。
主流派ど真ん中の義姉から呼ばれたのであれば、きっと今頃、生きた心地がしないまま朝食をとっていることだろう。
この話の流れで出席を促されたということは、反主流派から妃を選ぶのが正解なのだと教えているようなもの。母はすっとぼけて耳が遠いふりをしているし、イザベルは紅茶を飲みながら、これ以上の助言はできないと目で訴えている。
一年前の戦争で王子を守り切れなかった責任を問われ、領地の一部を取り上げられた【反主流派】の人々だが、こうやって同情する向きも多い。
我が国の王子は、恋に浮かれ戦地にしゃしゃり出て武功を立てようとした挙句、自陣で落馬し命を落としたと聞く。やり場のない悲しみを、王妃は臣下にぶつけてしまい、振り下ろされた拳は王国に深い亀裂をもたらした。
王都内では表立った援助や交流ができないが、ネックビリアスのような遠隔地であれば、王妃の目が届かない方法で手助けすることも出来るだろう。
なるほど母のやりたいことは分かったが、そういう企てがあるならもっと早く、もっと分かりやすく伝えて欲しいものだ。
「わかりました義姉上。お供させていただきます」
程なくして、珍しく朝食を残した母が退席した。少し気分が悪いという。
執事とメイド長が慌てて付き添っている隙に、テーブルから身を乗り出した義姉が小声でまくしたてる。
「良いこと? レギアス。貴方は今日、体調を崩されたお義母さまの代理としてお茶会に出席し、その場で一目惚れした女性と愛を誓って、数日中には王都を離れるのです」
「はい?」
「そういうことにしなければ、お義母さま達が叱責されてしまうでしょう?」
母のあれは責任回避の為の演技だったのか。心配して損した。
王子と同じく、『息子が恋に暴走して親の言うことを聞かない』という立て付けは、王妃にとってはおおっぴらに糾弾できない。
親の責任を言い出せば、お前が言うなという事態になる。
「しかし、今日お話を伺って、すぐに王都を発つなんて……」
「準備万端な駆け落ちがどこの世界にありますか。貴方は学業も全て放り出すほどの運命の女性と出会ってしまい、周囲の説得も聞かず強引に自領へ連れて帰る――という筋書なのです」
「義姉上の書いた筋書ですか?」
「お義母さまよ。私はまだ、こんなに大胆なお話は作れませんわ」
「ということは、父上もご存じということで?」
「そうなるわね」
連日真剣に妃を探していたのに、誰の名前を出しても渋い顔で突き返しておいて、既に根回し済みだなんて。
まったく、この人たちは……。
あれだけ見境なく宴席で声をかけたのだから、結婚を焦っているという噂も「十分に」立っただろうし、挙句に反主流派と駆け落ち結婚となれば、しばらくは同情の視線が強いだろう。
両親も兄夫婦も、時勢を読まない結婚を止めたという体裁を作りつつ、実際は懇意にしていた反主流派との繋がりを水面下で強化する。今後の勢力図がどう転んでも生きていける両睨み作戦。
なるほどいい案だ。
割を食うのが俺でなければだけどな。
「家としての意向であれば、僕は着の身着のままでも構いませんけど、お相手の方はどうするんですか?」
ネックビリアスの侯爵城までは、何の準備もなく辿り着けるような距離でもない。馬車を急がせても十日。河を下ればあっという間だが船の手配には時間がかかる。ひと月かけて船を王都に戻す労力を考えたら、おいそれとは使えない手段だ。
「既にお義母さまがお話を通して下さっていますから、貴方は心配無用です。今日で花嫁が決まるのです、そちらの心配だけしていればよろしくてよ」
執事たちが朝食の間に戻ってきたのを合図に話は打ち切られ、俺にとっては「よろしくない」一日が始まった。
時は正午過ぎ。
お茶会にしては早すぎる時間だが、先触れの馬車が到着する音が自室までひっきりなしに聞こえてきている。
本日の来客は九名。
秋晴れで天気もいいので、庭先のテラスを使って開催するという話だ。
俺は一通りの歓談が終わったころで合流することになっている。
「閣下。駆け落ち結婚するって、本気なんですか?」
「本気らしいね」
大慌てで荷造りしているバローを尻目に、長椅子にもたれて溜息を返してやる。
同情する素振りを見せながら、帰郷が大幅に早まった嬉しさを隠せないでいるあたりが、少々腹立たしい。
今回の計画は当家の家令までしか知らされておらず、執事やメイド長はこれから起こる事件の目撃者役として、今現在も普通のお茶会だと騙されている。
バローは今朝から家令の指示で動いており、このまま俺とネックビリアスへ同行するため、周囲に話を広げる目撃者には数えられていない。
「日暮れにはもう船の中ですよ? 閣下。私はちょっと頭が追いついていません」
「俺もだ」
義姉のイザベルは数日中に王都を離れるよう言っていたはずだが、今しがた作戦変更の知らせがあった。
船の準備が思いのほか早まり、船着き場で長時間待たせるのは目立って良くないとの判断だ。
あくまでも家族を振り切り、ちょうど出航する船に乗って駆け落ちするという筋書であって、用意周到に練り上げられた策略だと露呈してはいけない。
病床に臥せっていることになっている母が、自室からあれこれ指示を飛ばしている姿を想像すると、どっと疲れがこみ上げる。
「どなたを選ばれるんです? 凄いお方ばかりですが」
「ノリと勢いで決めるしかないな」
バローは冗談だと思ったらしく笑って返したが、俺は割と本気でそう思っている。
多少例外もあるが、誰々の娘、としか聞いたことのないような年頃の御令嬢ばかりだ。
九人ともなれば、それぞれとは挨拶で数分話すだけの時間しかないだろう。
そんなもの、勢い以外でどう説明がつくというのか。
俺が選んだ人物は妃になることが確定し、選ばれなかった八名は妃の従者としてネックビリアス領へ受け入れることになっている。
九人はお互いに気心の知れた仲だそうで、辺境の地で暮らすことになっても支えあって寂しさを紛らわせるだろうというのが母の見込みのようだ。今日付き添っている侍女についても、このまま領地まで同行するという話だから、暮らしぶりが急に変わるということもない。
結局、これから会う彼女たちとは、俺の決断に関わらず常に城内で顔を合わせることになるという訳だ。
選択権があるようで、実際にはそんなもの存在しない。
そんな現実に肩を落としていると、手元の魔道石板が「激しく光った」。
バローには見えないが、見間違いではない。
中空に大きく文字が躍る。
『高濃度魔素が操作範囲内にあります。吸収してよろしいですか?』
久しぶりに元気よく稼働している姿を見たが、それだけ優先度が高い事案ということだろう。
高濃度魔素とは海水などとは違い、燃料だけを押し固めたようなものだと石板自身が教えてくれた。
特殊な鉱物に含まれ、人間が長期間接すると病気になってしまうとも。
そんな危険な魔素が、なんだってこんな忙しい日に――と恨みがましく思うが、餓死寸前の魔道石板からすると天の恵み。
今すぐにでもどうにかしたいようだ。
『高濃度魔素が操作範囲内にあります。吸収してよろしいですか?』
二度も聞かんでいい。
心で毒づきながら「いいえ」を選択する。
即断しないのは、高濃度魔素というものがどのような外観で、どうやって手に入れられるか情報を仕入れたいから。
そして、操作範囲内に入ったというその魔素の塊が、九つ近づいてくる様子を石板が映し出しているからだ。
どうやら、扱いの難しいことになってきたようだ。