頭巾
ボロボロのアパートの外階段を昇って
男は201号室のドアの前に立つと
二回、ドアを叩いた。
ドンドン
しかし反応が無い。
腕時計を見て、時間通りなのを確認すると
男はもう一度叩いた。
"ハぁイ"
今度は返事があった。
なんとも色気のある女の声だった。
少し待つとドアが開いた。
中から顔を覗かせたのは
声音どおりの艶めかしい肢体を惜しげもなく晒した
赤いドレスを着た女だった。
歳は30代後半ほど。
女が一番熟れている頃だった。
「どうぞ、入って」
男の顔はハットで陰になりよく見えなかったが
女はなんの躊躇いも疑問もなく
すんなりと男を中へ入れた。
男もすんなりと中へあがっていった。
やがて男は6畳一間に通された。
畳張りの部屋である。
部屋は建物の外見と同様に
なんとも寂れていて
一昔前の貧乏学生御用達といったような
セピア色の雰囲気が漂っていた。
部屋の明かりは
天井から吊るされた裸電球ひとつしかなく
しかもドアを開け閉めしたせいか
歩いた時の衝撃のせいかは知らないが
左右にぶーらぶらと揺れるので
男の顔を
照らしては陰を作り
照らしては陰を作り
と繰り返していた。
「座っておいてちょうだい」
女の声がドアの向こうから聞こえた。
女は玄関脇にあった台所に立ちんぼになって
何か始めようとしていたので
恐らくは食べ物か飲み物でも用意しよう
ということなのだろうと
男は考えた。
そして
ならばここはありがたく
座っていることにしよう
とも考えた。
そうしてトレンチコートも脱がず
被っているハットも取らず
その場に座ると
男はすぐに手持無沙汰となった。
周りを見回すが
部屋にはテレビも無いし
雑誌や本も
煙草の灰皿すらもない。
男は急に落ち着かなくなって
よそよそしく
そわそわと身体を蠢かせはじめた。
そうしていると
男は左手の人差し指が急に気になった。
とりあえず匂いを嗅いでみると
なんだか血脂の匂いがした。
酸っぱいような
辛いような
なんとも不思議な匂いだった。
しかし男はそれもすぐに飽きた。
再びそわそわして身体を揺らしていると
ドアの向こうから女の声が
まるで地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸のように
男に差し向けられた。
「お願いよ、開けて」
男は請われるままにドアを開けた。
女が
お盆を持って
立っていた。
お盆の上には何やら旨そうに湯気を立てる
紫と赤の汁物
と
白米が大盛につがれている茶碗があった。
さらにメインの魚もあった。
汁物の匂いが男の鼻にスーっと入っていく。
途端に脳幹に染みていく
甘いような酸っぱいような匂い。
非常に食欲をそそられた。
魚も、サバだろうかバサだろうか。
これもまたすごく旨そうだった。
女は男の前までくると
どこからか丸テーブルを出した。
いったいどこからだと男が思っていると
女は自分の股間を二度ほど人差し指でなぞった。
男は納得した。
ぶらぶらと裸電球が
またもや右へ左へと動き始めた。
「さぁどうぞ、お食べになって」
ありがたく。
男が手を合わせて箸を取り
汁物に手を出そうとしたその瞬間
閉めていたはずのドアがいきなり開いた。
「ごめんあそばせ。私も夕食にお呼ばれされてもよろしくって?」
金色の髪を
くるくると巻き上げた。
蒼いドレスを着たお嬢様だった。
赤いドレスの女は快くお嬢様を招くと
これまたどこから出したのか
お嬢様のぶんの料理を机の上に並べた。
「ありがたく」
お嬢様が手を合わせて箸を取り
汁物へ口をつけた。
男も汁物へ口をつけた。
冷えていた身体が心から温もるような美味しさだった。
出汁がよく取れていた。
男がメインのアジに箸を伸ばすと
お嬢様も秋刀魚へ箸を伸ばした。
「おや」
「あら」
「んま」
男と女とお嬢様が顔を見合わせた。
やはりメインも美味しかった。
そうして料理と白米を平らげると
三人はしばらく横になって
胃を休めつつ談笑にふけり
ふけり。
楽しんでいると
女が思い出したように柱時計を指差して言った。
「もうそろそろいい時間ね。はじめましょう」
柱時計などあったのか。
男は
これもまた女の手品か
それともたまたま己が見過ごしていただけなのか。
と
少し引っ掛かりを覚えながらも
女の主張に頷いた。
「私は始めても構いませんことよ。いつでも準備は出来ておりますわ」
豊満な胸を揺らしながら
お嬢様が堂々と言った。
女は男の顔を見た。
「では、いいわね?」
男も頷いた。
女はスカートに手を入れてがさごそと探ると
やがて一本の蝋燭を取り出した。
一体どこへ隠していたのか
と
男が訪ねるよりも先に
お嬢様が口に人差し指を立てて
女の秘密に野暮な事を言わんとする男の口を封じた。
「では始めるわ」
女がマッチで蝋燭に火をつけると
裸電球を消した。
一気に部屋は暗くなり
壁には橙色の揺らめきが
右へ左へ
風に乗って蠢く度に
三人の黒い影を
ぶらぶら
ぶらぶら
と
操った。
「まずは誰からはじめる?」
男が言った。
女が男の真横ににじり寄って
これまたどこから取り出したのか
ふかふかの毛布を被りつつ
自分を指差した。
「まずは、私からよ」
題名を『頭巾』
と言った。
女はぽつりぽつりと語りだした。
人気のない山奥で生活をする
一軒の農家が
草木も眠る深夜に
何者かに押し入られ
一家皆殺しに遭うという話だ。
犯人は黒い頭巾を被った男だと
翌々日までなんとか息があった父親が証言したらしい。
「私はその父親が怪しいと思いましてよ」
女が話し終えると
お嬢様が自信ありげに言った。
「父親が怪しい?どういうことだ? 父親も死んでるんだぞ。 第一、なぜそんなことをする必要がある?」
男の問いにお嬢様は不敵な笑みを浮かべていた。
「それは無理心中だからですわ」
「無理心中?」
「ええ、一家無理心中。父親は家族の誰かに抵抗されたか、皆殺しにした後に自分で致命傷を負ったのですわ」
ふむ。
と
男は顎に手を当てた。
無い話では無いな
と
思った。
しかし、女がここにきて口を開いた。
「でも、それじゃおかしいわ。無理心中をしたなら、なんで犯人をでっちあげたりしたのかしら。しかも頭巾を被った男だなんて、変な嘘をついてまで。 どうせ死ぬなら、素直に洗いざらい話して逝けば良いんじゃない?」
ここにきて
そうだそうだ
と
男が乗った。
お嬢様は腹が立ったのか
男の頬を
ギュねり
と
抓った。
「全く……。これだから庶民は嫌ですわ。逃避と名誉、というものが全く頭に存在しないのですもの」
「逃避と名誉?」
男が首を傾げた。
お嬢様は大きくため息をついた。
まるで不出来な子供に噛み砕いて教える先生のようである。
「一家無理心中を企てるような男ですわ。きっとお金に困ったとか、何か良からぬ事をしでかしたとか。きっと何かから逃げた末の行動だったはず。そんな男なら、最後の最後まで罪の責めからも逃げようとするに違いありませんわ。あとは一族の名誉を守るため、という可能性も考えられますわ。 だって、一家心中をしたなんて、家名の恥ですもの」
おーっほっほっほっほっほ
と
お嬢様は口元に手をやり
上機嫌で笑った。
男は深く唸った。
女は妖しく目を煌めかせた。
お嬢様は更に
と
付け加えた。
「黒い頭巾でしたかしら?それもまたおかしいですのよ」
何故ならば……。
お嬢様はフッと息を吹き付け、蝋燭の火を消した。
部屋は完全なる闇に包まれた。
「たしか草木も眠る時間、でしたわよね。みな明かりを消して寝ていたハズですわ。この部屋のように暗い中で、黒い頭巾なんて分かるのかしら?」
チェックメイトだ。
と
言わんばかりだった。
男もお嬢様の論に何度も
そうだそうだ
と
頷いた。
女も
おおっ
と
賞賛の拍手を惜しげ無くお嬢様へと送った。
「では、これでよろしいかしら?」
女は頷いた。
「ええ、私に異論はないわ。説得力があるもの」
「あなたは?」
「ああ、俺も異論は全くない」
男も大きく頷いた。
お嬢様は満足そうに笑うと
これで一件、片付きましたわね。
といった。
「じゃあ、次は誰がいく?」
しばらくしてから
男が言うと
まだ笑い続けているお嬢様が手をあげた。
「君がいくのか。じゃあ俺は最後だな」
お嬢様が話し始めた。
題名を『違和感』
と
言った。
と
突然
お嬢様が指をさした。
女も急に指をさした。
さされたのは男だった。
「なんだ?」
「気づきませんこと?」
「そう。違和感。頭巾の話」
男は首をかしげた。
「なんの話だ」
「なぜなの?」
女が詰め寄った。
「なぜなんですの?」
お嬢様も詰め寄った。
"な ぜ 見 え た の"
男は首をかしげたままだった。
頭巾 後編
了
1987年 6月 9日