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スティーブ1

「お嬢様、お嬢様! 一体いつまで惰眠を貪るつもりなのです。怠惰な生活は許しませんよ!」

「うーん…」


耳元で女性のヒステリックな声が響き渡る。

声を回避しようと布団に潜り込むが、すぐさまそれは強制的に剥ぎ取られた。

夜のうちはしっかり閉じていた筈のカーテンは全開で、容赦なくスティーブを照らす。

薄い瞼では強すぎるその光を防ぎきれずに仕方なく目を開けると、そこには目と眉を思い切り吊り上げて怒りを表現している中年女性がお仕着せ姿で仁王立ちしていた。


「いい加減になさいまし! まったくだらしない! お嬢様のその不肖なところが大奥様を苛立たせ疎まれる原因だと分からないのですか!」


一体なんだというのか。

こんな乱暴な起こし方があるか。

まだきちんと稼働していなかった頭だったが段々と血が上ってくる。


「なんだそなたは。使用人の分際で立場を弁えろ」


自分としては低い声を出したつもりが、それとは正反対の高音が喉から飛び出し驚いて咄首元に手を当てる。ほっそりとして何の突起もない滑らかな感覚にこれまた驚いて、やっと今の状況を思い出した。


(そうだ、私は今フィオラと入れ替わって……)


自身を見下ろせばすぐそこに柔らかそうな双丘が並び、白いレースの寝間着に覆われている。

一応己を紳士だと自負しているスティーブはそれに目をそむけ、中年女性へと向き直る。

彼女は目を剥き出しでこちらを凝視し口をパクパクさせていた。


「な、な、なんですかその口の効き方は!?」

「そなたこそなんなのだ先程からのその態度は? 私はそなたの主だ、それ相応の敬意を払えないというならばクビにするぞ」


あくびをしながら言い捨てると、彼女の顔はまるでトマトのように赤く染まっていった。


「貴女がわたくしをクビにするですって!? わたくしは貴女が生まれるよりもずっと前からこの伯爵家に仕える、大奥様からの信頼も厚いメイド長ですのよ! 貴女よりよほど価値のある人間よ! 単なる穀潰しのくせによくもまあまあまあまあ! このことは報告させていただきますからね! もう謝ったって許しませんよ、ええ! 許しませんとも!」


ドシドシと足を鳴らして去っていく女に、欠伸の途中のまま口をあんぐりさせて見送る。

ただただ唖然とした。

誰からも傅かれて育ったスティーブにとってあのように罵声を浴びせてくる使用人というものにショックが大きすぎたのだ。


(どうせフィオラのジメジメと陰気な態度が使用人どもを付けあがらせているのだろう、自業自得だが私に影響があるのは勘弁してほしいものだ)


心の中でフィオラに文句をつけつつ、ベッドの中で先ほどの使用人の代わりが来るのを待った。

しかしどうしたことかいくら待っても部屋に誰かが来ることはなく首を傾げる。

早く洗顔用のお湯とモーニングティを持ってきて欲しいのだが部屋の外に人の気配がない。


(まったく教育のなってない家だ。そういえばフィオラの母も既に亡くなっていたな。家を取り仕切る人間がいないということか)


あのメイドも一応当主であるフィオラの祖母のことは敬っている口ぶりであったが、当主の見えないところでは好き勝手にやっているのだろう。



(僕のシアであったならばこんなことにはなっていないだろうな。慈悲深い彼女は使用人とも信頼関係をきちんと築き、主人として敬われ大切にされている筈だ)


フィオラの出来が悪いせいで何故自分がこんな目に合わねばならないのかと嘆きながらベッドを出る。


「あ…」


外へ人を呼ぼうとして己の格好に気づく。さすがに寝間着で部屋の外に出るのは不味いだろう。

目についたクローゼットを開けると一番手前にアカデミーの制服が掛けられている。

動揺しつつもそれを手に取り意を決して寝間着に手を掛ける。


目を瞑ったまま慣れない女性用の服を着るのはかなり難儀だ。

更に誰かに手伝ってもらうことなく服に袖を通すのは初めてのことで、何度か失敗してようやく服を着ることに成功した。


(このスカートというものは股がスースーする上にかなり心もとないものだな。女性はこのようなものを着て外を歩いていたのか。あ、リボンが残っていた。さて、どうしたものか)



男子生徒はタイを、女子生徒はリボンを付けるのがアカデミーの決まりである。

しかし自分でタイも結べないスティーブには女子のリボンなど触ったこともないものを装着するのは至難の業であった。

まあ、別になくてもいいかと早々に諦め手に持っていたリボンをポケットに押し込む。

部屋を出ると廊下から中年のふくよかな女性が忙しそうに廊下を歩いていた。


「そこの。誰も私の朝の支度に来ないのだが」


声を掛けると女性は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにその目を釣り上げた。


「お嬢様! 今朝メイド長を怒らせたそうですね。あの方のヒステリーは病気みたいなものなのは知っているでしょう? 勘弁してくださいよ。八つ当たりされるのはあたし達なんですから」


スティーブは絶句した。

この女性もまたあまりにも酷い口の利き方だ。


「まったく、役に立たないだけならいざ知らず、邪魔ばかりしないでくださいよ」

「え…」


女性の言葉に対して間抜けな声が出てしまった。

このように邪険に扱われたことがないので咄嗟に言葉が出なかったのだ。

そんなスティーブを気にすることなく女性は喋り続ける。


「ところでパウロのご飯がまだですけどどうかしました? お嬢様体調でも悪いのですか?」


フィオラを心配する台詞のようだが、風邪なら移してくれるなよという嫌そうな表情がありありと浮かんでいる。


「あ、ほらパウロがお嬢様を探しにやってきましたよ。自分から歩いているなんて久しぶりね」


女性が指差す先には大きな茶色い埃の塊のように見える何かがかなりのっそりとした緩徐な動きで時折躓きながらこちらへやって来る。

茶色い埃の塊はスティーブに近付くと牙を剥き出して唸り声を上げた。


「あらパウロったらどうしたの? お嬢様に唸るなんて」


女性は驚いているが、スティーブはその理由を悟った。

この犬は自分の正体を見抜いているのだ。


「ご飯が遅いから拗ねているのよ。犬にまで怒られるなんてお嬢様らしいわ。あら嫌だ、くだらないことで時間使っちゃったわ」


女性は仕事が残っているのか好きな事だけ言って足早に去っていった。

犬は相変わらず鼻に皺を寄せてこちらに牙を見せつけている。

フィオラがよく連れていた脚の悪い犬という認識しかなかったが、こんなに凶暴だっただろうか。

そういえば昨日フィオラと別れる際にくれぐれもこの犬の世話を頼むと言っていた気がする。

入れ替わった衝撃でそれどころではなかったが、こんな緊急時に犬の面倒を見ろとは何事かと怒鳴ってやれば良かった。


それはそうとして、餌はどこにあると言っていただろうか。

何か与えないとこちらがこの犬の餌になりそうである。


「フィオラ様!」


犬と睨み合いをしていると、遠くから怒鳴り声が響いた。

距離のある廊下を長い脚でツカツカと忙しげに動かす顔立ちの整った男。

ビシリと後ろに撫でつけられた髪に乱れなど一切ない執事服。

真っ直ぐに伸びた背筋に自信のようなものが浮かんでいる。

この男には見覚えがある。

確かフィオラの家庭教師だった筈だ。


「その獣に廊下を彷徨かせるなと何度言えばその知能の低い頭は覚えるのですか?」


実に嫌味たらしいセリフが飛び出しお前もかと言いそうになる。


「メイド長が貴女様に無礼を働かれたと憤っておりました。どうやらまだ私の“躾”が不十分だったようですね」


嘆かわしいとわざとらしく嘆息する男。

この屋敷で働く人間はどいつもこいつもどうなっているのだ。

伯爵家の令嬢に対してあるまじき態度だろう。


「それとも、私の気を引きたいが為に敢えてやっているのですか? 最近忙しくて構ってあげられておりませんでしたからね?」

「っ!?」


どちらかと言えば中性的な顔立ちの男ではあるが、ニヤリと笑うその顔は雄のそれだった。

フィオラのヤツ!

まさかこの家庭教師とそういう関係だったというのか!?

くそっくそっくそっくそっ!

とんだ裏切りだ!


「おや、いつものように怯えないのですか? まぁお嬢様が“躾”を嫌がるのならパウロに変わって貰ってもいいのですよ。ただこの薄汚い老犬に私の“躾”は耐えられるのでしょうかね?」

「ん?」


てっきり浮気かと思い憤っていたが、話の方向性が分からなくなってきた。

なぜ犬の躾の話になったのだろう。


「なんですかその間抜け面は。いつも笑顔を絶やすなどあれ程言っているでしょう」


先程まで実に楽しげだったのが、一気に不機嫌さを露わにした。


「いつものように笑いなさい、さあ、ほら! さっさと笑えっ!!」


段々と声のボリュームが大きくなる。


「笑えと言っているだろっっっ!!!」

「っ、は、はい」


突然凄い形相で怒鳴りつけてくる家庭教師に完全に萎縮し思わず返事をしてしまう。

家庭教師の恫喝に屈して無理矢理口端を上にあげる。

あ、これ……。

自分が今どんな表情をしているのか鏡を見なくとも分かる。

これはいつものフィオラの薄気味悪い感情が読めないあの笑顔だ。


「よろしい。その顔を心がけるように」


怒りを納めた家庭教師がこちらに手を伸ばし指先が唇に触れる。

無理やり上げた口に感じる家庭教師の指の感触に鳥肌が立つ。


「私も暇ではないのでね。今日のところは見逃してあげましょう。さぁ、早く出発せねば遅刻ですよお嬢様」


その言葉に逃げるように家庭教師から離れる。

心臓がバクバクと嫌な音を立てる。

なんだあの男は。

情緒がかなり不安定なのか気色が悪い。

唇を触れられた感触が残り不快でならないのに、恐怖で足がすくみ何も言えなかった。

パウロのことも朝食のことも忘れ慌ててアカデミーへ登校する。



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