フィオラ3
「それらを私が彼女へ行ったという証拠はあるのでしょうか?」
シアが証拠を残さずにいられたのだから、真実何もやっていないフィオラに証拠などあるはずがない。
自信を持って投げつけた言葉を、スティーブは予想外のしたり顔で打ち返した。
「君の友人達から証言は取ってある。自分達の説得に応じることなく止まない君の悪事の数々に、よもや黙っておくことは出来ないと涙ながらに語ってくれたよ」
大変残念なことなのだがフィオラの友人はパウロだけである。
犬から証言を聞き出すのは、それはもう大変だったろう。
彼の証言した悪事……「僕の背中を枕にされて迷惑したことがあるワン」とでも語ったのだろうか。
少し想像して和んでしまったが、そんな場合ではないことを思い出して気を引き締め直すフィオラ。
「私に人間の友人はおりません」
きっぱりと、そして真っ直ぐに言い切った。
その堂々たる姿に怯んだのか少し困惑気味なスティーブだったが、すぐに持ち直す。
「いつも君が引き連れている取り巻きの女生徒二人の存在は広く知られている。隠し立てなど不可能だ」
ああ彼女達か、と合点がいった。
いつもアカデミーでカルガモの子供のように自分の後ろを付いてくる少女達の顔が浮かぶ。
「あの方々は我が伯爵家の親戚筋のお嬢さん達です。いつも側にはいますが友達ではないです」
伯爵家は国でも有数の資産家で、王家を考慮して伯爵の立場で収まっているが、貴族社会の中での影響力は凄まじい。
よって権力目当てに群がってくる者も多く、特に親戚達は伯爵家のお零れに与かれる可能性が高いと躍起になっている。
「君のようないつもヘラヘラしている薄気味悪い人間に付き合ってくれる優しい子達に友情も感じないとは、やはり薄情な女だな君は」
スティーブが軽蔑の視線を向けてくるが、友情など欠片も感じないのだから仕方がない。
彼女達はフィオラ自身が無益な存在だということをとっくの昔に知っているのだ。
何せフィオラは伯爵家当主…絶対権力者である祖母から疎まれているのだから。
そのことは親類縁者には周知の事実で、いつも嘲笑われるか嫌厭されるかの二通りの反応が返ってくる。
当然彼女達もそのことは知っており、完全にフィオラを侮った態度が端々から感じられる。
ついでに言うと二人とも眉目秀麗なスティーブの熱心なファンであり、彼女達の井戸端会議の議題として『いかにフィオラは彼に相応しくないか』がかなりの頻度で登場する。
いつもそれを少し離れた場所で延々と聞かされうんざりしている。
だがそれでもフィオラの側にいるのは、伯爵家直系の威光を借りたいのだろう。
現にフィオラの名前を出して横柄な態度を振舞っている所を何度も目にしたことがある。
「とにかく君の悪事の証拠は揃っている。これを大々的に公表すれば君は終わりだ。君のお祖母様も君を見放すかもしれない」
スティーブの言う通り、事実はどうあれこんなことが噂になれば祖母は怒り狂うだろう。
想像するだけで脚が震える。
「はぁ、こんな話をしている時くらい少しはその薄気味悪い笑顔を引っ込めたらどうだ、気持ち悪い」
「……」
「だが、効果はあったみたいだな」
フィオラの顔色が青くなるのを眺めて満足そうに笑みを浮かべたスティーブは最後の駄目押しをする。
「約束してくれるね。“フィオラの独断で婚約解消する”ことを、今度の卒業パーティで発表すると」
「……」
的確に弱点を突いてきたスティーブに、先程のようにきっぱりと否定することが出来ない。
だが自分から婚約を破棄することを約束してしまえば祖母はなんと言うだろう。
蛆虫を見るようなあの目を思い出し、呼吸が浅くなる。
おかしい…吸っても吸っても酸素が肺に行き渡らない。
そもそも無理な話なのだ。
家族からも嫌われるフィオラが他人に好かれるはずなどない。
フィオラは生きているだけで迷惑な人間なのだから。
それでもスティーブとの婚約は伯爵家にとって唯一フィオラが役立つことだと信じてそれに縋った。
でもダメだった。
役立たずどころか迷惑しかかけない娘など、存在することすら許されない。
自分は、消えなくてはいけないのかもしれない。
でも、パウロを残して? そんなこと出来ない。
頭がズキズキと激しい主張をしてくる。
「どうか、婚約解消…だけは、お許し…下さい…」
息も切れ切れに縋る思いで許しを乞うが、スティーブは不快そうに眉を寄せる。
「まだ言うか、しつこいな。君のような凶悪な女の婚約者などやってられるか」
「でもっでも! 困るのですっ…!」
目が回りスティーブが歪んで見える。
立っているのも精一杯だ。
必死の思いでスティーブの腕に縋り懇願するが、それは乱暴に振り払われてしまう。
「あはは! 珍しく焦っているね。薄気味悪い笑顔が消えて醜悪な君の本性が見えてきた!」
スティーブの愉しげな声が頭痛を引き起こす。
それと目眩に吐き気に息切れ。とにかく体調が悪い。
でも…笑わなくちゃ…笑っていなくちゃご飯貰えない……パウロの餌だって。
笑え笑え笑え笑え笑え!
「君の友人達から聞いたよ。君、亡くなったお父上にも疎まれていたんだってね? ねぇ親にも嫌われるってどんな気持ちなんだい?」
“————嗚呼”
それは不思議な感覚だった。
極め付けとばかりに叩きつけられた言葉で、今まで渦を巻き激しく乱れていた感情が突然一気に波を引いて静かになったのだ。
“———そんなの貴方には関係ないじゃない”
何か、一線を越えた心地がする。
ずっとずっと自己否定を強いられ心に刷り込まれていたものが消えた。
そして卑屈な自分がいかに傲慢であったのか、今初めて気づいた。
全ての凶事の元凶がフィオラであるはずがない。そんな当たり前のことが何故わからなかったのだろう。
“どんな気持ちかですって? 何も知らないくせに。貴方みたいに無条件で誰からも愛される人間には私の気持ちなんて一生理解出来ない”
一度引いた波は何倍にも大きく膨れ上がって腹の奥底の方から沸々と戻ってくる。
今までにないまずい何かが自分に起こっていることは分かっているのに止めようがない。
それはずっと強いられた笑顔の中で押し込められていた怒りと悲しみの感情が沸点に達したのかもしれない。
スティーブへの負の感情が抑えられない。
“そんなに私の気持ちが知りたいなら交換してよっ!!!”
母から教わった呪文を腹の底から大声で唱えた。
何か嫌なことが起こるたびに心の中で何度も唱える最早癖のようなものだ。
母が死んだ時も、父が死んだ時も、初めて祖母から平手打ちが飛んできた時も、家庭教師の授業の初日も、パウロがフィオラを庇って肋骨を折った時だって祈った。
それはいつだって何の効果も現さなかったのに。
何故今この瞬間なのかは分からない。
だが、呪文は初めて効果を発揮し、フィオラとスティーブは眩い光に包まれた。