フィオラ2
アカデミーが休日のある日、婚約者のスティーブから呼び出された。
身支度もそこそこ喜び勇んで侯爵家へ急ぎ向かった。
昔は楽しげにお喋りしてくれていたが、最近はめっきり冷たい態度の婚約者。
笑ってばかりいないでたまには何か有益な事は言えないのか、これでは人形と変わらないといつも叱られてばかりいる。
そんな婚約者からの久々の呼び出しに喜ばずにはいられない。
通されたのはいつもの迎賓室。
そこには婚約者のスティーブが一人窓辺の椅子に腰掛け佇んでいた。
開け放たれた窓からそよ風が通り抜け彼のサラサラの金髪を撫でていく。
その姿はまるで一枚の絵画のように美しく見る者を感動に誘うだろう。
「お久しぶりでございます」
親しみを込めた笑顔で挨拶をするが返事は返って来ず、チラリと冷めた視線を寄越し溜息を吐き出すスティーブ。
「相変わらず薄気味悪い笑顔だな」
開口一番飛び出したのは誹謗だったが、これはもう慣れたもので挨拶と化していると言ってもいい。
「フィオラ、今回君を呼び出したのは他でもない。僕達の婚約についてだ」
「はい」
「僕との婚約は解消してもらう」
突きつけられた突然の衝撃宣言に思わず固まる。
「そして僕はシアと婚約するよ」
「……シアとは男爵令嬢であるあの方ですか?」
小さな花を思い出させる可憐な少女が脳裏に浮かび上がる。
最近スティーブの近くで多く姿を見かけるようになった彼女は、見た目とは違い中身は毒花のごとく強烈だ。
思わず笑顔が引きつると、それを咎めるようにスティーブの目つきは鋭くなる。
「身分のことを言いたいのか? 確かに彼女は男爵令嬢だが、僕らはそんな些細な障害など気にはしない。君のような偏見で凝り固まった者と違ってね」
「………」
よりにもよって何故彼女なのか。
彼女の人となりはあまりに酷いものがある。
しかしフィオラが何か意見を言おうものなら途端に不機嫌になってしまうスティーブの性質を知っているので口を噤む他ない。
だがその様子も気に入らないらしい彼は目つきの鋭さをそのままにハァと大げさに息を吐き出した。
「ショックが大きすぎて言葉も出ないといったところか。だが十分夢は見れただろ? 僕も君みたいな子の婚約者という立場に今まで甘んじてあげていたのだから感謝して貰いたいね」
吐き捨てられた言葉に息が詰まる。
やはりそうか。
愚図で頭が悪く卑しい自分では彼とは釣り合わないのは分かっていた。
それでも彼の家も婚約には納得済みだったのではないのか。
どうすればいいのだろう。
婚約解消などになれば祖母はフィオラを許さないだろう。
「そこでだ。君から婚約を解消したいと今度のアカデミー創立パーティにでも大々的に発表してもらいたい」
「……私がですか?」
「こちらから破棄したとなると僕とシアの未来の汚点となってしまう。シアが悪く言われるなんて耐えられないからね」
二人の未来は婚約を解消される人間には関係のないことである。
だがスティーブはそれをフィオラが考慮しフォローするのは当然として話を進める。
「婚約解消の理由はそうだなぁ。自分では僕にふさわしくないと気付いた――とかでいいんじゃない? 実際そうだし。そうだそうしなよ。君みたいな微笑んでいるだけで何も出来ない女性でも、その辺の並み程度の男になら相手にしてもらえるかもしれない。幸い君の容姿は美しいし人形だと思えば欲しがる男もいるだろ?」
何故か楽しそうに語るスティーブ。
思えば彼はフィオラを貶す時はいつでも楽しそうだった。
「あ、くれぐれも他に好きな男が出来たからとかいう理由はやめてくれよ。僕が君に捨てられてるみたいでプライドが許さないから」
肩をすくめて冗談めかしに笑うスティーブ。
フィオラを捨てることは当然で、だがその逆は許容出来ないようだ。
そのうえ婚約の解消の責任を全てフィオラに負わせようという腹積もりらしい。
幼い頃は少々我儘なきらいはあるものの優しい少年だった。
今でも周囲からの評判は良く、アカデミーでも明るい人気者だ。
彼の言うようにいつも微笑んでいて人形のようで薄気味悪いと陰口を叩かれるフィオラとは大違い。
彼のこの仕打ちは、相手がフィオラだからなのかもしれない。
フィオラはどこか人を苛立たせる要素があるらしい。
全てフィオラの責任である。
自分がだめな人間だから、婚約解消されそうなのだ。
祖母はなんと言うだろうか。
怒ってパウロを殺すかもしれない。
あの子を連れて逃げようにも、高齢になった最近のあの子は歩くこともままならないのに。
ダメだ。スティーブには悪いが婚約破棄だけは認められない。
頭の中でぐるぐると様々な感情が回る。
「婚約のことは両家の問題。個人で勝手に決断されては困ります」
頑としてスティーブの要求を撥ねつける。
普段従順なフィオラが反論するのは予想外だったらしく目を丸くさせるスティーブ。
だがフィオラの言葉を脳内で処理が終わると、だんだんと苛立ちの表情に変わっていった。
「それほど僕と婚約を解消したくないのか。だが君は勘違いをしている。これはお願いではなく命令だ」
スティーブは怒りのオーラを放ちながらも器用に口端を吊り上げ笑って見せた。
「君がシアにあらゆる嫌がらせをしていたことは知っているんだ。それを大々的に公表してもいいが、昔馴染のよしみで穏便に済ませてやろうとしているこの僕の優しさが伝わらないようだな。見下げ果てた女だ」
今度はこちらが目を丸くさせる番である。シアに嫌がらせとは一体なんのことだ。
身に覚えが一切ないどころか、シアこそがフィオラに嫌がらせを繰り返す張本人ではないか。
例えばすれ違いざまに小声で中傷されたりだとか、わざと水を掛けられたりだとか。酷い時には階段から突き落とされたことだってある。
幸い咄嗟の受け身で事なきを得たが、運が悪ければ大怪我していただろう。
「いつもシアに死ねだのブスだのと罵詈雑言をぶつけていたんだろ。それからバケツの水を頭からかけたんだって? 極めつけに階段から突き落としたそうじゃないか。これはもう立派な犯罪だ」
「違います。それら全て私が彼女にされていたのです」
言いがかりも甚だしい。
笑顔の仮面を貼り付けているだけの無感情とよくスティーブに言われるフィオラだが、流石にこればかりは怒りが湧いてくる。
「呆れた…あの心優しいシアがそんなことするはずがないだろ。責任転換とは恥ずかしくないのか」
シアは無害な小動物のような見た目に反してかなりの狡猾さを持っており証拠を全く残していない。
今までは結果として大した実害はなかったので気にしてはいなかったが、今回ばかりは被害が大きそうだ。