フィオラ1
母親がまだ元気だった頃の夢を見た。
彼女は本当に変わった人であったが、底抜けに明るくて優しい人だった。
流行病で亡くなって10年経ったというのに母を思うと未だに胸が苦しくなる。
父は母がこの世を去るとそれを追いかけ黄泉の世界へと旅立ってしまった。
元々父の黒い瞳を引き継いだフィオラを父は嫌っていた。
父親からの遺伝なのに苦手な母親―つまりフィオラにとっては祖母を思い出して不愉快だという。
それならば毎日鏡を見て不愉快にならなくてはいけない父はさぞや大変だったろう。
そんな訳で父はフィオラを僅かでも気に留める筈もなく逝ってしまった。
残された伯爵家は、一度は引退した祖母が舵をとることになった。
入り婿だった夫である祖父は若い頃に他界しており、父が成人するまで伯爵家を一人で盛り上げてきた祖母の手腕は確かだ。
当主を突然喪っても伯爵家が揺らぐことはなかった。
そんな祖母は溺愛する父の愛情を奪い、そのうえ彼の死の原因となった母を大層憎んだ。
雪国を思わせる白い透き通った肌と儚げな顔立ち、そしてこの国では見かけない薄銀の髪色をした母親。
彼女とそっくりなフィオラのことも同様、もしくはそれ以上に憎んだ。
それでも唯一父から受け継いだフィオラの黒い瞳だけは大切なようだった。
その瞳の色は代々伯爵家に受け継がれる何よりも深い漆黒で、伯爵家直系以外の人間に現れることはまずあり得ない。
フィオラが正当な伯爵家の血を引く証だ。
孫のフィオラをそれこそ殺したいほど憎んだが正当な跡取りは欲しいらしく、幼い彼女が秘密裏に処分されることはなかった。
両親を失い七つの頃からずっと祖母と同じ屋敷で暮らしているが“お前は伯爵家を存続させる為の只の腹で、何の権利も持たせない”と常々言い聞かせられて育った。
薄汚い売女の血を持つ薄汚い存在。
———生まれてきて申し訳ございません。
毎晩祖母が晩餐を楽しむ目の前で、地面に膝をつき手を胸で組み詫びなければいけない。
体裁をひどく気にする彼女は屋敷の外では孫を愛する優しい祖母を演じる。
祖母がフィオラを殺したいほど嫌っているとは、外部の人間には決してわからないだろう。
愛する息子が残した忘れ形見を懸命に育てる祖母の話は社交界では定番の美談となっている。
だから見える場所には鞭を振るわないし、生命にかかわる程の“躾”はされない。
伯爵家の内情を知る使用人は皆一様に口を噤み、それでも密かに眉を顰めるような者は耐え切れずに辞めていった。
残ったのはニヤニヤと愉しげに虐げられる様を見る者か、迷惑そうにゴミを見るような目を向けてくる者か、まるでそこにフィオラなど存在しないかのように何も見えていない振りをする者だけになった。
その中でもフィオラの家庭教師を任された男は、最初に分類される人間の代表格だ。
祖母の息がかかったその男は伯爵家の親戚筋で、祖母の若い燕の一人と言われているらしい。
端正な顔立ちと明晰な頭脳を買われ祖母が引き抜いてきたようだ。
フィオラの父よりも若いその家庭教師と本当に関係があるのかは知らないが、祖母のお気に入りなのは間違いない。
事実この屋敷において家庭教師はかなりの権限を持っており、祖母が不在の場合は当主代理のような役割までしている。
家庭教師は本業であるフィオラの教育にも熱心で、勉学のみならずマナーまで彼一人が請け負っている。
特に“躾”には力を入れており、解答を間違えると脹脛を良くしなる細い棒状の鞭で10回きっちり打ち付ける。
間違える度にミミズ腫れになっていく脹脛を見る男の目は熱く実に愉しげだった。
伯爵令嬢として常に笑顔でいることを義務付けられており、苦痛で顔が歪んでしまうとお仕置きは倍になってしまう。
仕草の一つ一つにおいても指導は厳しく、背筋は常にピンと張り、歩くときは重心を意識して極力身体の揺れをなくす。
矯正の為に背中に板を挟まれ、一日中ただ立っているだけという日もあった。
簡単に見えてそれは拷問に等しく、少しでも姿勢を崩そうものならすぐに鞭が飛ぶ。
足の感覚がなくなり額に脂汗が浮き視界が霞もうとも、常に笑顔で己が生まれてきてしまった罪深さを詫び続けなければならない。
身体が崩れ落ちるまでそれは続けられ、気が遠くなると水をかけられ気絶から目覚めてはまた立ち続けるのを繰り返す。
一日中紙に自身の反省すべき点を書き連ね、それを復唱するという日もあった。
いかにフィオラは矮小で無価値な人間なのか、その存在がどれほど周囲を不快にさせているのか、そんな駄目人間を生かしてくれている祖母への感謝、この多大なる迷惑をどのように償うべきなのか。
文字に起こし声に出して自分に刻む。
そうすると祖母と家庭教師は満足げに微笑んだ。
実に気味の悪い光景であるがそれを異様に思う者は屋敷に存在しない。
母親が居なくなってから、フィオラはとことん自己否定を強いられ続けた。
そんなフィオラにも心の支えが一つだけある。
それは飼い犬のパウロだ。
彼は毛足の長い茶色の大型犬で、気性の大人しい賢い子だ。
脚が悪いのでヨタヨタとしか歩けないが、それでも尻尾を振ってこちらに懸命に駆けて来ようとする様にいつも胸が締め付けられ、そのいじらしさに癒された。
家庭教師に折檻され崩折れるフィオラを庇うために覆い被さり、酷く蹴られて怪我をしてしまうこともしばしばあった。
それでもパウロは言いつけを守り、人間に牙を剥くことなくその大きな身体で何度でもフィオラを庇う。
本当に優しい子だ。
パウロが居たからフィオラは生きていられた。
祖母はパウロを薄汚い獣だと酷く嫌い処分しようとしたが、その時ばかりはフィオラも死を覚悟して抵抗した。
殺されそうなパウロから離れようとしないフィオラは激しく殴られた。
痛みで意識が飛びそうになったが死んでもパウロから離れなかった。
近いうちに茶会を開く予定で目立つ場所に痣が残っては困ると家庭教師に止められ、祖母は仕方なくパウロの処分を諦め、代わりにパウロを人質として扱うようになる。
少しでも反抗しようものならパウロを殺すと脅され、フィオラはどんな折檻でも黙って耐えた。
パウロさえ元気ならばそれで構わない。
そんな生活の中、10歳で大きな転機が起きた。
フィオラに婚約者が出来たのだ。
昔から祖母と付き合いのあった侯爵家の末の三男坊でフィオラの一つ年上の男の子だった。
青い目と金色のふわふわとした髪を持つ、絵本の王子様のような男の子。
名前はスティーブ。
くりくりとした純粋な目、人を疑うことを知らない溌剌とした笑顔。
彼のそばにいると誰もが微笑む魅力的な男の子で、祖母でさえ彼を気に入り伯爵家の婿にと望んだ程だ。
彼が来る日は家庭教師の授業もなく、涙が浮かぶほどキツくキツく髪を結われることも、息が出来ないほど苦しくコルセットを締め上げられることもない。
ただ綺麗な服を着て婚約者の彼と喋りお菓子を食べておけばいいという夢のような時間だ。
ただ、犬は苦手なようで彼が来るとパウロは部屋に閉じ込めておかなければならないのが唯一の欠点である。
「それでね、その木ノ実は秋にしか実らないから父様が来年の秋まで我慢しなさいというんだよ。僕は今食べたかったのに酷いでしょ?」
「そうなのですね」
「母様も酷いんだ。観劇に連れて行ってくれるって言ったのに、劇の題材が刺激的過ぎて子供にはまだ早いから次の演目まで我慢しなさいってさ」
「まぁ…」
「我慢我慢我慢我慢、そればっかり。僕って不幸だよね」
「元気をお出しください」
「………」
残念ながら婚約者の喋る内容はよく分からない。
相槌を打つのが精一杯だが、家庭教師から鍛えられたので笑顔だけは崩さないでいられた。
14歳になるとこの国の貴族の子供達は皆アカデミーに通う。
そこでようやくフィオラはあの家庭教師から解放された。
とは言え彼が屋敷から出て行った訳ではない。
最近祖母は新規事業に忙しいらしく屋敷にあまり長く居らず、屋敷の細々としたことは家庭教師が祖母の代理として勤めているのだ。
最早家令のような立ち位置にある家庭教師。
彼もフィオラに構っていられないほど日々を忙殺しているようで折檻も随分と受けていないが、たまに廊下ですれ違うと蛇のようなジットリとした視線が付きまとい恐ろしい。
何はともあれ実害はなく、平和には変わりない。




