第1話 不可逆の異世界
”走る影”と”追う影”が、薄暗い路地裏を駆けて行く――。
「はぁ、はぁ……っ! ヤバいヤバいヤバいヤバい!!」
舞台は天花市。表通りから一歩外れたアンダーグラウンド漂う裏路地――
「――【色欲】!」
――のはずだった。逃げる男の姿が、見る見るうちに、物乞いの姿へと変化した。
着ていた服すら変化している。ボロボロのローブに、ボーボーの白髭を蓄え、やせ細った老人と成った。
――明らかな”異常”である。
こんな現象、天花市では勿論、有り得ないことである。
異能力? とでも言うべきか。男は異常な力を使いこなし、見事に姿を変えたのだ。
「何でバレたんだあ……? おれの魔法は完璧だったはずだろお……」
鼻をつく嫌な臭い。
山の様に積まれたゴミの側に座り込み、息を整える。物乞いの姿に化けたのであれば、物乞いの振りをしなければならない。
(はぁ、はぁ……クソッ!! 何でだよ! 何でだよッ!!)
汗が止まらない。これは運動してかいた”汗”じゃない。恐怖による”冷や汗”だ。
ガクガクと震える体を、自ら抱きしめる。今まで何年と隠れるように生きてきた。今更見つかる道理なんてない。あってはならない――
「み い つ け た」
「……ぁ!」
近くから邪悪な声が聞こえたと思ったら、気が付けば男の体を貫く”黒い槍”。ブゴッ、と口から黒い液体が垂れる。
(??????)
それは、ずっと男を追って来ていた黒い影から伸びている。文字通り、黒い影は、9つの尾を持った狐の様な姿をしており、『九尾の狐』を彷彿とさせた。
黒い槍とは、鋭利と化した9つの尾の内の1つ。数メートルの距離から、寸分違わず、男の心臓を突き刺していた。
「う゛あ゛あ゛っ! あ゛あ゛! い゛ぁあああ!! ひぃあああああああああああああああっっ!!」
体を貫く槍に、驚き、戸惑い、恐怖で混乱する男。慌てて抵抗しようとするが――
「(ぬ゛っ、抜げないぃ!?)」
突き刺さっている九尾の尻尾は、傷口付近を黒く染め上げていた。
血、ではない。影、である。
「(お、おれの体がっ! 刺さった場所から影になっているっ!?)」
ジュワジュワと、炭酸が弾ける様な音を奏でながら、全身が黒ずんでいく。口から黒い泡が溢れていく。
「や゛め゛ろ゛お゛おおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!」
心のままに叫ぶ。絶叫する。
黒ずむヘドロを吐きながら必死に声を出す。敵の面を睨みながら――
(あ、ああ……)
――九尾の狐に表情はない。ただの影である。しかし、顔は見えずとも、今まさに舌なめずりをし、得物を喰おうと眼光を鋭くしていることが理解出来てしまう。
とうとう全身が影となった時――
「あ、ああっ、やめ――」
「い た だ き ま す」
ゴシュッ、と耳障りな音がしたかと思えば、男の胸から尻尾が抜かれたと同時に、キラキラと輝く結晶が抜き取られた。
「――ひぃゃ」
見たことのない結晶である。この世のものとは思えない、生命の鼓動を感じる”命の結晶”と言っても差し支えはないだろう。
「……ぁ……ひゅー、ひゅーぅ」
不思議なことに、心臓を刺されたと言うのに、出血はしていない。しかし、その表情は虚ろで、口はだらしなく開いたままである。声にもならない音が漏れている。
やがて影の体から物乞いの姿へと戻り、物乞いから本来の男の姿まで戻った。
「御見事、に御座いますな」
ぬらり、と路地裏の奥深く、暗い闇の中から現れたのは、グレーのスーツに身を包んだ老人であった。
スラリと背は高く、白髪の七三分け、整えられた髭、そして暗黒の瞳。
「その宝石は、貴方を一段階、上のレベルへと上げてくれる魔法の宝石。ささ、どうぞ。良ぉく噛んで、味わってくださいませ……」
「……んあー」
老人に促され、暫く天高く掲げていた結晶を、九尾の狐は一口で飲み込んだ。悍ましい喉越しの音と共に、影の体が、ぶくぶくと、ぶくぶくぶくと、実態を得ていく――
「これで4人目……」
老人の呟きは、新たに実態を得た九尾の産声によってかき消されていく。
間違いなく、ここが天花市ではないことは、確かである――。
……。
…………。
………………。
目が覚めた。
爽快な目覚めである。まるで、目覚まし時計が鳴るより先に、目覚めたぐらいの爽快感である。
「さて……」
立ち上がり、グッと伸びをする。そして辺りを見回す。
「――どこだよ」
ボケ高の番長である俺、雑候谷真魚は、知らない場所にいた。
知らない天井、知らない匂い、知らない部屋……全部知らない。知っているのは自分のプロフィールぐらいなものだ。
ベッドから飛び起きる。……そう、ベッド。天蓋付きのベッドに寝かせられていた。
部屋は全体的にお洒落である。カントリー風な絨毯、木製テーブル、煌びやかなシャンデリア、そしてふかふかダブルベッド。
10畳――いや、それ以上あるか…?
「(どうなってやがる……?)」
未だ夢見心地な脳内を捏ね繰り回すように、眉間辺りを強く捻った。
何が起きているのだろうか、というのが、俺の感想であり全てであった。
「(いや、直前の記憶はあるんだ。異世界から来たと言う少女と『桐第一高校』の少年。その2人を庇って、刺されて――)」
順を追って思い出し、傷を負った所を慌てて触れた――が、傷なんて最初から負っていなかったかのように、綺麗な体になっていた。
……オイオイ。まるで魔法みたいだナ?
異世界、魔法……。何となくだが、何かとんでもない状況になっているのではないかと悟り始めた時に、扉が開いた。
扉とはもちろん、この部屋の扉のことである。仰々しい音と共に開け放たれた。
外からの光と共に現れたのは――
「……あ! お目覚めになられたのですね!!」
ついちょっと前に見た、異世界人を名乗る案内人の美少女だった。桃色の髪が風に浮く。
「……おう。お早うございます」
「あ、これはこれはご丁寧に。お早うございます!」
お辞儀し合う2人。当たり前の事である。
改めて対面する。
背丈は160もないだろう。桃色のさらさらミディアムヘアーに、赤色のヘアピン、ダイヤのピアス、柔和な笑みを携えたお姫様、と言うべきか。赤いドレスが目に映える。
「その様子だと、傷は癒えたみたいですね!」
「ああ、やっぱり……君が治療してくれたのか?」
「私と言うか……これです」
そう言ってポケットから取り出したのは、液体の入った小瓶。
「そうか……何か……回復効果のありそうな何かだナ?」
我ながら語彙力のない返しをしてしまったが、少女は頷いた。
「はい。これは体力を回復する『ライフポーション』……通称『LP』です」
「!? LP……」
手の平サイズの小瓶である。栄養ドリンクとほぼ同じサイズ感。
「ふぅん……?」
飲みきりタイプであろうか。栄養成分表示がないため、一体全体、どんなブツが入っているのだろうか――
「――いや、そんなことは後でいいな」
観察していたLPを、少女に返す。
一度髪をかき上げ、オールバックを整えてから少女に話しかけた。
「混乱はしているが……とても冴えている。逆にな」
「……はい、おっしゃりたいこと、分かります」
もう一度、髪をかき上げる。更に、部屋中をぐるりと見渡し、息を吐いた。
「ここは君の言っていた……”異世界”というものだな?」
答えはもう分かり切ってはいたが、形式上と言うか、誰かに問う形で理解しておきたかった。
「……」
少女は無言のまま、神妙な表情で頷き、
「窓の外を見てみてください」
――と、興味を惹かれることを促した。
無論、乗る。乗らざるを得ないだろう。
俺はゆっくりと光の差し込む窓へと近づき、開け放った。
「!?」
「ブオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
悠々と風を切り、空を飛ぶドラゴンが、目の前を飛んで行った。
「……不本意だとは思いますが」
呆然と立ち尽くす俺の前に立ち、こう告げる――
「ようこそ、『アーキュリア』へ!!」
これ以上ない異世界の証明に、俺はぐうの音も出なかった。
……。
…………。
………………。
昔々の事である。
世界は、1つだった。始まりはいつも1から始まる。
しかしある時、世界に1つの”奇跡”が起きた。
その奇跡によって、常識から非常識を生み出し、異常は正常となった。
まさに奇跡。叶えられないことが、願っていたことが、現実に実現したのである。
人々はこう言った。奇跡の具現化――『魔法』と。
魔法により、今までの生活ががらりと変わった。1から10、10から100へと無数の進化・変態が行われた。
”異世界”の存在を認知できたのも、魔法によるものであった。
もはや以前までの世界ではない。魔法の生まれたこの世界を――『ディメヴィア』と、魔法のない異世界を『ラミヴィア』と名付けた。
ディメヴィアでは魔法が発展し、ラミヴィアでは科学が発展した。両世界が混じり合うことはないものの、一部では繋がりを持ち、互いに情報共有を行っていた。
大国『アーキュリア』。この国でも、異世界ラミヴィアと繋がりを持つ――それこそ、真魚の住んでいた『天花市』であった。
……。
…………。
………………。
ざっくりと、アーキュリアの歴史を少女から聞いた。
本当にさわりの部分。あらすじ中のあらすじらしい。プロローグにすら値しない。
舞台は俺の寝ていた部屋から移り、『王家の間』と呼ばれる大きく広い部屋へ。
荘厳な空間である。素人目だが、格式高く優雅な雰囲気。
全体的に白を基調とし、天井に植えられた数々のシャンデリア、壁に埋められた数多の風景画、床に散りばめられたカラフルな絨毯。
所々に、白い石で出来た台座があり、その上に壺が載ってある。絶対高い。
想像上の貴族の家、そのものであった。
「御免なさい。もう少ししたら、お母様がいらっしゃるので」
「ああ……」
気も漫ろに、王家の間を貪り見る。改めて変な所へ来てしまった。
ふと、少女へ目をやると、神妙な面持ちであった。
決意の目だ。何かを決意した、凛々しく強い目だ。こういう人間は――何かを為そうとする人間は、見ているだけで魂が揺さぶられる。
「感謝と謝罪を、させてください」
「それならば、俺から先に言わせてくれ……助けてくれてありがとう」
「! ……順序が逆ですよ?」
「いいんだ。言いたい時に言わなきゃあな、本心っつーのは」
カッコつけて”硬派”に前髪をかき上げると、少女の表情が多少和らいだ。
「……どういたしまして、です!」
思わず惚れそうになるぐらい魅力的な笑みだった。直視するのを止め、クールに目を逸らして有耶無耶にした。
「あの時の事、覚えていますか? 何か記憶に不都合などは?」
「特にない……と思っているが、何か抜けているかもしれん。 ……もう一度確認させてくれ。あの時――君達2人が転移しようとしたところで不良に襲われ、俺が庇った。そして――」
「傷が深く、あのままでは危険だと判断しました。命の恩人である貴方を、死なせる訳にはいきませんから」
「そんな大層なモンじゃあないが……」
「いいえ、そんなことはありません。貴方が助けてくれなければ、この国の”未来”は変わっていたかもしれません」
何か謙遜しようとしたが、口から言葉が出なかった。
きっと彼女は何か重要なものを背負い、決心し、俺の世界へやって来たのだ。これ以上、俺が俺を貶しても彼女に申し訳ないだけだ。
「だから、ありがとうございます。助けて頂いて、ありがとうございます」
頭を下げた。正真正銘、誠心誠意の感謝である。
「感謝しきれない程です。この御恩は一生死ぬまで忘れません」
純粋な感謝に、お礼を言われ慣れていない俺は、ちょっと照れたぐらいにして、
「どういたしまして」
と、返すのが関の山であった。
「ありがとうございます。本当に――」
彼女の瞳の煌めきが、真っ直ぐ俺を射抜く。
悪くないものだ、人に感謝されるという事は……。
……彼女の気持ちが落ち着いたところで、再び彼女から話が進む。
「そして、ここからが謝罪です」
現状について、だろうな。俺の意識は切り替わる。
「ご理解されていると思います。今の……状況を」
ごくりと、誰かが生唾を呑む音が聞こえる。
どこか緊張している少女なのか、将又、気圧されている俺なのか――
「貴方に恨まれるのを覚悟で……勝手に、一緒に転移してきました。貴方を助けることだけを……一番に考えて」
「ああ……」
彼女の本心だろう。表情は凛として、澄んでいる。
「理解っているさ。今の状況はな」
目の前でドラゴンが飛ぶ様子を見せられたんだ。無理やり脳髄に”異世界”という言語をぶち込まれたようなものだった。
「異世界に来たことは分かった。十分にな。……俺が知りたいのはその先だ」
目まぐるしい展開の中で、俺が求めるのはその先――現状の改善。
起きてしまった事はしょうがない。起きた事実は取り消すことは出来ない。
ならば――大切なのは、どう改善し、対応するかだと思う。
「聞かせてくれ。その先を」
「……は、はい」
挫けそうになりながらも、彼女は正した姿勢を乱さない。
まるで今から全ての責任を取るかの如く、瞳は輝いている。
「実は、この転移――『運命の糸』を利用した転移にはとある不可逆性がありまして……」
「不可逆――もう元には戻らないと言う意味……」
「ええ。私のような存在は例外なのですが」
俺がハッ!? と気付いた様子を見てから、重々しく告げた。
「一度引っ張ってきたら……返せないのです。元の世界へ」
…………………… !? ドエレーーーー事実だべや……。
「確定?」
「……はい」
「どうにも?」
「なりません」
「何とか?」
「出来たら良かったのですが……」
「……」
「……」
俺、帰れなくなりました――。
「あってはならない事なんです! 本人の許可なく、私たちの世界へ転移などと……」
「……まぁ、何事も無許可は良くないな。特にそういう事情なら猶更な」
「は、はい、おっしゃる通りです! だから――」
覚悟は決まっている、そういう目をしている――
「身勝手なことだと思われるでしょうが、貴方の人生全てを、この国で尽くさせてください!!」
また、頭を下げた。立場からして、恐らく国の中枢にいる様な少女が、一心にお願いをしている。
「……謝罪?」
「ですから、これは謝罪です。貴方をこの国に縛ってしまった”謝罪”に他ありません」
「必要ない」
「え?」
驚く少女を他所に、俺の口元は笑っていた。
「起きてしまったことはしょうがない。そもそも、”生きる”ってのは不可逆だ。変わらないものなんてない」
「でも! 到底受け入れられるようなことではないような……!」
「受け入れる受け入れないの問題じゃあないだろ。現に起きているのだからな」
正直、頭がまとまっている訳ではない。ではないが、彼女が嘘をついているように見えない。
そして、起きてしまっている事に対して、大切なのはどう対応するかだ。
少女の肩を叩き、顔を上げる様お願いした。目と目が合う。
「大事な事は”これから”だろ? ”硬派な漢”は前向きなんだ」
クールな口調で、俺は言葉が伝わるよう強く言葉を発した。
「……肝が据わっていますね」
「硬派だからな」
「?」
頭に疑問符の浮かぶ少女であったが、数秒の後、
「ありがとうございます!」
ここ一番の笑顔をくれた。最も悩んでいたことなのだろう。
そういや、と俺は会話を始める。
気にすることはない、と思うからこそ、口から言葉が零れ出てきた。
「お互い、名乗っていなかったナ?」
「! そうでしたね!」
コロコロと笑う少女。改めて見て、明らかにお嬢様っぽい気品さである。
「アーキュリア国メルン王家第1王女――『ウルル・ド・メルン』、です」
……まぁ、驚きはないわな。明らかに気品があった。
「へぇ、王女サマだったのか」
「言う程、大層なものじゃありませんよ?」
「いや、そんなことはないだろ?」
メルン王家――この国の王族か何かだろうな。そして第1王女。相当な立ち位置だ。組長の娘、レベルだろうか。
”お母様”がいるらしいからな。この子はその次ぐらいの序列じゃないだろうか、と予想せざるを得ない。
「何て呼べばいい?」
「『ウルル』とお呼びください」
ウルル……可愛らしい名前だ。そしてその名に呈する愛嬌がある。
「あの、貴方のお名前を教えてください」
「ああ……」
俺はポケットに入れていたスマホを取り出し、メール画面を開く。
当たり前に圏外だったが、そこは今重要じゃない。
「『雑候谷真魚』。”雑草”の雑に、”諸侯”の候。谷は”谷口”の谷。これで雑候谷。名前は真魚。真実の真に、魚だ」
文字入力、漢字変換を経て、雑候谷真魚と言う文字を打った。初見で分かりにくいことは理解している。
特に”侯”。昔の侍が使っていた「そうろう」って漢字と伝えることもある。だが、一番楽なのは、こうやって文字で見てもらう事だ。
……そもそも、文字読めんのか? いやでも、天花市に直で来るぐらいだからなぁ。流石に天花市の事、勉強して来ているだろうしな――
「ふわぁぁぁ!!」
――なんて、考えながら文字を見てもらうと、凄く驚かれた。
……んん、どっちだ?
こんな文字読めませんっつー驚きか、俺の名前を見ての驚きか。
まぁ、女子っぽい名前だ。こんな”硬派”で”漢臭い漢”が、真魚なんて名乗っているのだからな――
「スマホ、始めて見ました!」
そっち?
「資料なんかでは見たことありましたけど……実物は初めてです! すごぉい!」
両手をバタバタさせ、画面に食い入るように見つめるウルル。可愛いけどそうじゃない。
「ハッ!? 違う違う! そこじゃないですよね……!」
「忘れないで、俺の事」
「ご、ごめんなさい!」
俺に睨まれていたのに気が付き、慌てて目を離した。今度はパタパタを両手を団扇代わりにして、顔に風を送っている。
「”雑草”の雑に、”諸侯”の候に、”谷口”の谷に、”真実”の真に、”魚”の魚。真魚様、ですね!」
「ああ。文字、読めるのな?」
「アーキュリアと天花市は、昔から親交があるので!」
そういや、昔から繋がりがあるんだったか。それならば僥倖。
「宜しく、ウルル」
「こちらこそ、宜しくお願いします! 真魚様!」
……こうして。
俺は異世界で生きていくことが確定したらしい。
……胸の高鳴りは、まだまだ続くようであった。