夏の影法師
真夏といえば何をイメージするかと聞かれたら、『影』とぼくは答える。
入道雲や蛙、蝉とかじゃなくって、『影』だ。
影ってだいたい薄青いけれど、真夏はちがう。夏の影って本当に黒いんだ。手や顔や足に影はぴたりとはりついて、どこまでも離れない。
それが面白くて、だからいま、ぼくらの間では『影ふみ』の遊びが最高に流行っていた。
ギラリと刺すような太陽の目を感じながら、ぼくたちは走り回る。こめかみから汗がつうと流れてくるけど、そんなことはもちろんお構いなしだ。
夕方しか車の出入りがない“児童館”の駐車場は、ぼくらにとっては絶好の遊び場だった。
埃っぽいアスファルトにとっちらかる、小さな影たち。
お鍋の湯気みたいな陽炎がゆらゆら揺れて、もう倒れそうなくらい暑い。
「ながやん、影ふーんだ!」
ぜえぜえ呼吸を乱しながら、鬼のつっくんが、ながやんを捕まえる。その顔は満面の笑顔。
反対にながやんは眉を八の字にしていた。
「またおれ?」
「あたんめーだろ。おまえ足遅いもん。――みんな、ながやんが鬼だぞ!」
うぎゃあぁと怪獣の悲鳴みたいな声をあげて、またぼくらば逃げ回る。
建物の影に逃げて、鬼が過ぎるまで待つ、なんていうずるをしなければ、影ふみってすげー楽しい。
影ってずっと同じ方向にいないから、どうやって鬼から影を逃がしてあげるのか、考えるのも面白いんだ。
でも、大体コーフンしててわかんないけど。
ながやんがぼくに狙いをつけて追い回してくる。ほかのやつもたくさんいるのに、ひとり狙いなんて卑怯だぞ。ぼくはスピードを出して走りまくる。なんでこういうときばかり足がもつれるんだ!
「まーてー」
「うわあぁ」
風のせいでおでこ全開。息切れする直前。ドテドテドテと靴の音。ってゆうかながやん怖すぎ。
あわてまくってぼくはコケかけた。そこを逃がさず、ながやんが右足を大きく踏み出した。
「しんちゃん、影ふーんだ」
捕まえられる。
「げっ」
満面の笑みのながやんに、すこしイライラしながら、ぼくはなんとか息を整える。もう死にそう。
「つぎ、しんちゃんが鬼だよ――」
「おやつですよ!」
ながやんの声は先生の一言に掻き消えた。影ふみのときより猛ダッシュで、みんなピンク屋根の古くてボロボロな児童館に戻っていく。
夏休みは、いつもこんな感じだ。
児童館は、小学一年生から三年生までの鍵っ子が集まるところだ。夕方の五時までここで遊んで、同じ区の子たちと一緒に帰るか、お迎えを待つ。
ぼくたちが児童館に通っていると言うと、「かわいそうに」って悲しそうにするひとがいるけど、ぼくは絶対にそうは思わない。
だって友達とずっと遊べるのはうれしいし、「おかえり」も帰ったあとのおやつも出してくれるひとのいない家に帰るなんて、そこでひとりで待っているなんて、ぼくは死んでもできない。
だから、児童館はいいところなんだ。
「みなさん、手を合わせましょう。いただきます」
「いただきます!」
当番と僕らの大合唱が終わると、みんなぎゃあぎゃあ言いながらおやつを口に詰め込み始める。
今日のおやつは、牛乳クッキーにピーナッツ、みかん飴だ。
たまにはポテチもだしてほしいよな。
「しんちゃん、ピーナッツと飴替えよ」
「いいよ」
となりのもんたが言った。ぼくはピーナッツが好きなのだ。
「うるさいな、あんたはウチと遊ぶの!」
いきなり甲高い声が響いた。ぼくたちは「またあいつか」って前の席を見る。
「うるさいのはおまえだ。鬼っ子のくせして」
つっくんが囃すと、みんな「そうだそうだ」と面白がって騒ぎはじめる。
「犬の声つぶしたくせに」
「ばあか、あーほ」
みんな言いたい放題だ。前の席のその女子、うわさの本人――鬼っ子の『ササキカヨ』がみるみる真っ赤になって叫んだ。
「うるさい! あんたたちに関係ない!」
「もうやめなさい!」
先生がすごい剣幕で怒鳴って、みんなをぴたりと止めた。
ぼくたちは『ササキカヨ』が嫌いだ。
まず、印象からして最悪だった。だってあいつん家の犬は有名だったから。
コリーの小型犬だった。小さいくせによく吠えて、狂暴だった。だから石を投げて、からかうやつもいたんだ。
朝から晩までワンワンワンワン。
近所中大迷惑してるって話だった。
けれど、あるときからぴたりと鳴き声がやんだ。
聞こえるのは、『ハンハン』っていう、掠れた声。――そうだ。カヨの親が犬の声をつぶしたんだ。獣医に連れて行って。
みんなうわさしたよ。あそこには鬼が住んでる。
そのあと、カヨが児童館にやってくるようになったから、「鬼っ子」って呼ばれるのは当然のことだった。
けれどそれだけならまだいい。
カヨは女王みたいだった。
わがままで、自分の言うことが通らないと、ものすごく怒って攻撃する。攻撃っていうのは、殴る蹴るじゃなくて、悪口を言うんだ。
カヨはびっくりするくらい口がうまかった。大人だって時々負けてしまうくらい。
それに自分は悪口ばかり言うくせに、ぼくらが悪口を言うと倍返ししてくる。先生に怒られると人のせいにする。
友達じゃなくて、まるで女王様と家来。
ずる賢くて、まさに「鬼っ子」だった。
「しんちゃん、早く行こう」
ながやんが急かす。ぼくはピーナッツを口に詰めこんで外に走り出す。
横目でちらりとカヨを見たら、つんとしてゆっくりとおやつを食べていた。
外はやっぱり太陽じりじり。入道雲もくもく。
児童館を道路ひとつ超えた先にあるお墓の群れには、ぐにゃぐにゃ陽炎。
ぼくは茶色に焼けたおでこに手を当てて見渡す。走り回るみんなの影は、やっぱり真っ黒だった。
*
夏休みってけっこうタイクツ。
何日も同じようなことばっかり。変わったといえば、ながやんの苗字くらい。
またあだ名考えなきゃ。
『夏の友』は午前中の勉強時間のおかげで、半分まで終わったし。あとは自由研究をどれくらいするかってことなんだけど、みんなと相談しているから安心だ。
ぼくたちは、毎日影ふみをしてる。
「うわ、つめてえ」
「やっほう!」
いまは児童館の裏にある遊び場で水休憩。
水道から勢いよく出る水を、みんな頭からかぶっている。水しぶきがキラキラ飛んで、すごくつめたくて気持ちいい。びしょ濡れが面白くて、みんな笑ってるんだ。
「あーつかれた」
もんたが晴れ晴れとした顔で言う。みんなおんなじ気持ちだった。にやにや笑いが止まらない。
ながやんがものすごく明るい声で言った。
「おい、木の下に行こうぜ」
児童館の裏の遊び場は、ブランコや砂場、すべり台とか、いろいろ遊具があって面白い。だけど段差があって影ふみに向かないから、いまは駐車場のほうで遊んでる。
でもいちめん芝が生えていて、春にはすっぱくて甘いグミの生る木や、ツバキがあって、女子がおままごとに使うヨモギのいい匂いがして、何より柳の大木があるから、ここも大好きなところなんだ。
ときどき、涼しい風がふわっと吹いて、すだれた柳の葉がさらさら揺れる。
柳ってお化けがでるっていうけど、そんなの全然気にしない。むしろのれんみたいな葉が、ぼくたちを守ってくれているみたいだ。
「あー、おれ眠っちゃいそう」
「おれもー」
「ぼくも」
ながやんも、もんたも、つっくんも、ぼくも。柳の木の下にみんな寝転がってぐたっとしてる。
上のまぶたと下のまぶたがいまにも仲良くなりそう。
ぴーひょろろ、ととんびが鳴いた。
だれかの寝息が聞こえはじめる。ぼくも眠りの世界へとんびのように飛び立とうとしたとき、大声が聞こえた。
「なにやってるの、かよちゃん!」
ぱっとみんな一斉に起き上がって、児童館の窓へ走り出す。カヨがまたなんかやった!
「これ、ポケットにいれてどうしようとしたの」
先生が持っていたのは、落とし物入れに入っていた、丸いピンクの玉がついた髪留めやビー玉とか。
そういう、きらきらしたものだった。
どうやらカヨは盗もうとしていたらしい。
「あのね、わたしはこれ返そうと思ってたの。落ちてたから」
カヨはすました顔で言い張る。先生は眉をひそめた。
「どこに落ちていたの」
「あのね、外だよ! すべり台のところ。きっと誰かが持って行ったんだよ……」
「先生はかよちゃんが、落とし物入れからポケットに詰め込んでいたように見えたけど?」
カヨの嘘をさえぎって、先生が言った。カヨはいっそうすまして言いつのろうとする。
「鬼っ子のうそつき!」
窓からつっくんが囃した。みんなもつられて囃そうとする。
「そうだそうだ」
「あなたたちは黙ってなさい!」
先生が怒鳴る。つっくんの方がびくっと揺れた。
ため息をついて、先生はカヨのほうを向いた。
「……かよちゃん。こうやってずっと悪いことをするなら、先生はかよちゃんのお父さんお母さんに、このことを言わなきゃならないの」
その言葉は、予想以上の効果だった。
カヨが固まったのだ。恐ろしいことを聞いたように目を見開いて。
こんなカヨ、だれも見たことがない。カヨはもっとびっくりすることに、唇をふるわせて言った。
「……言わないで。せんせい、ごめんなさい。もうしません。ごめんなさい、ごめんなさい! もう一生しないから、だから、言わないで!」
先生は目を丸くしていた。そしてあわてたように言う。
「いいのよ、かよちゃんが謝ってくれたから、もう言わない。ほんとよ、だから落ち着いて」
カヨはぐしゃっと顔をゆがめて、外に走り出て行った。
「おぅい、鬼っ子。ほんとの鬼にばらしちゃうぞ」
柳のまわりでつっくんたちが囃したてる。柳の木陰は、カヨがいるせいで真っ黒になったように見えた。
カヨは背中を向けて、うずくまって耳をふさいで、何も言わなかった。
カヨはとても小柄なのだと、いま気づいた。
「鬼っ子、なにか言えよ」
眠っていた蝉が突然起きだしたように、うるさく騒いでいた。
「何か言えったら!」
つっくんたちは張り合いがなくてつまらないみたいだった。そして、とても戸惑っているみたいだった。
ぼくはぼうと突っ立って、揺れるのれんみたいな柳を見つめていた。
「ちっ……飽きた。おい、行こうぜ」
みんなぞろぞろと柳から離れる。
「影ふみしようぜえ」
「しんちゃんも、早く行こ」
ながやんが心配そうに呼んだ。
ぼくは「うん」とだけ言って、まだ突っ立っていた。
ざわめきが遠ざかる。あとは砂場で知らんふりしながら遊ぶ女子だけ。
蝉がうるさかった。
「おい……」
つい呼んでみたら、ものすごい勢いでカヨが振り返った。泣きながら叫びはじめる。
「どうしよう! お母さんたちに嫌われたら!」
泣き顔をはじめて見た。
「どうしよう、キウイみたいに喉をつぶされるだけじゃ済まないかもしれない。……捨てられちゃうかもしれない! わたし、悪い子だからきっと捨てられちゃう! どうしよう……そうなったら、そうなったら」
カヨはまるでぼくを見ていなかった。うつろに目を見開いて、ふるえて、なんでもかんでも声にだしていた。
ぼくはこわくなった。
柳の影が、とても濃かった。真っ黒だった。
そういえば、ながやんの影も真っ黒だったなって、ふと思い出した。それに、ぼくらの影も真っ黒だ。
「……だ」
一度口をつぐんで、ぼくは思い切って声をだした。
「……だいじょうぶだよ」
小声でささやく。カヨの瞳が、はじめてこちらを向く。焦点が当たる。
涼しい風が吹いて、さらさらと柳が揺れた。太陽はぎらぎら、汗がつうとつたう。
「だいじょうぶだよ」
ぼくはもっと近くで言ってやるため、おそるおそる右足をだして、真っ黒な影に踏み込んだ。