ディープ・エンカウント6
「えっ!? い、いや、そんな、いきなり、こんなところで……っ!」
あからさますぎる動揺をみせて、樹理はちらちらと俺を見る。頬を赤らめる彼女の姿に恥ずかしくなって、俺は彼女から視線を逸らさずにはいられなかった。
「……はぁ。いいたいことがあるけど、面倒だからいいわ。じゃあ、仮にあんたに好きな人がいるとして、それが物語にとってどれだけ重要かわかるかしら?」
「あたしのことが、お話と関係あるの……?」
「当然よ。あんた、好きな人はいても、その人は彼氏じゃないんでしょ?」
「え……えと…………はい……」
視界の端に、申し訳なさそうに顔を俯ける樹理が映った。
「それだから、あんたはメインヒロインなのよ。よくある学校を舞台にした物語を思い浮かべてみなさい。メインヒロインに最初から恋人のいる作品がどれほどあるかしら? あたしも世の作品を全部知ってるわけじゃなくて、むしろほんの一部分しか知らないけど、その条件に当てはまる作品が少なくて、非王道のストーリーだってことは想像できるわ。つまり、物語のヒロインには恋人がいてはいけないの。
そういった点も含めて、樹理、あんたは最高のメインヒロインといっていいわ。脇役に過ぎないあたしが嫉妬するほどにね」
「……枢木さんには、好きな人がいないんですか?」
「あたしは東京に彼氏がいるの。だからあたしは物語の主役にはなれない。樹理ちゃんと違ってね」
弱々しかった樹理の瞳が、元の色を取り戻した。玲奈の発言に嘘がないことを確かめるように、樹理はまっすぐに彼女の顔を見つめる。
このあと、どういう展開になるのだろう。
胸は高鳴る。男らしく、ここは俺からいったほうが良いのだろうか。きっとそうだろう。いまこそ決断の時。時は満ちたのだ。
樹理に注目すると、彼女は俺に目を合わせてくれたが、すぐに横に逸らされた。しかし俺は耐える。過去の偉人には耐えて成功してきた者が多いのだ。つまり耐えることは正しい。英雄に学び、俺は彼女が再び目を合わせてくるのを待った。
そして、樹理の瞳がゆっくりと俺のほうに戻った。
「――あ、樹理ちゃん部活はいいの? もうあれから十分くらい経ってるわよ?」
「えっ――! ああっ! 完全に遅刻かもっ! 私行かなくちゃっ!」
「部活がんばってね」
「うん。ありがとう、枢木さん。部活に入りたくなったらバドミントン部も見にきてね」
「もちろん、そうさせてもらうわ」
樹理は慌てた足取りで教室を出て行こうとした。よほど先輩が怖いのか。まだ一年であるため、遅刻によって印象が悪くなるのを恐れているのかもしれない。
俺は一歩を踏み出すチャンスが潰れて意気消沈していたが、彼女と変わらない関係で過ごせることに安堵する気持ちもあった。どちらが本音かはさておいて、なにか彼女に声をかけなければと思い、口を開いた。
「樹理、あとでメールするよ」
「あ、うんっ!」
そうして伝えたのは、問題の先送りだ。明朗な笑顔で応えてくれただけに、なんとも名状しがたい感情が胸の奥底から湧きあがってきた。
隣にいた玲奈が、ニヤけた顔を浮かべて俺の横腹を肘でつついた。
「やるじゃない。今夜メールで告白するつもり?」
「メールで告白するのは、お前的にはアリなのかよ」
「アリよ。ドラマチックじゃないもの。それで物語が終幕しちゃうのは寂しいけど、非王道を求める以上はしかたないわ」
「まさか、割り込んで樹理を部活に行かせたのは、ドラマチックな告白を防ぐためだったんじゃないよな?」
「そんなつもりは毛頭なかったわ。というか、あんたさっき告白しようとしてたの? だったら教えてくれても良かったのに。一対一の状況下での告白が王道だから、周りに他人がいる状況での告白はあたし的にもオーケーだったのに」
「うるさいな。お前が邪魔しなければ、告白できてたかもしれないんだぞ」
「でも、あたしがいなかったらこんなチャンスは巡ってこなかったし、あんたがその気になることもなかったはずよね」
口の減らない女だな、といおうと思って止めた。こいつには口論で勝てる自信がなかったのと、彼女の主張にも一理あると思ってしまったからだ。
声には出さず深呼吸して、俺は玲奈を見た。
「お前といれば、今日みたいなチャンスがこれからも巡ってくるのか?」
「もちろんよ。あたしは人々が無意識につくってしまう王道の状況を拒絶する。だからあたしがつくる状況は意識的なもので、そこで抱く感情は雰囲気に流されたものじゃなく、自分の内側にある本物の気持ちなの。あたしのサポートを受ければ、間違いないわ」
「随分な自信家になったな。俺の記憶にある枢木玲奈は、そんな目立つ奴じゃなかったのに」
「東京で中学時代を過ごした経験は伊達じゃないってわけ。十四歳前後は多感で性格が変わる時期っていわれてるもの。小学校時代のあたしと同じだと思ってもらっちゃあ困るわ」
「俺は玲奈と違って、小学校の頃から変われてる自覚はないけどな」
「昔からテンプレ主人公だったってわけね。それなのに未だに誰ともくっついてない点は、王道なのか非王道なのか意見が綺麗に分かれそうなところね」
相変わらず玲奈は人を物語の登場人物に置き換えて妄想している。四六時中、王道だとか非王道だとか、主人公だとかメインヒロインだとかを考えているのだとしたら、これはもう病気というより他にない。思春期に陥るという明確な治療法のない病だ。
こんな変わり者にも彼氏がいるのだから、やはり現代は恋愛の難易度が著しく低いのだと実感する。まあ玲奈は容姿に関しては平均以上あるため、美貌だけで選ばれたのかもしれない。もっとも、そんな男を玲奈が彼氏に選ぶとは想像もできないが。
この変人の彼氏が務まるとは、いったいどんな男なのだろう。多いに興味があるが、玲奈とはまともに話すようになってまだ二日。踏み込んだ質問をする気にはなれなかった。
「ねぇ隆志。あんたはたぶん、これまで王道の人生を歩んできたわ。でも、それだとあんたの思い通りの人生にはならなかったのよね」
「王道かどうかは知らないけど、これまでの人生が求めていたものじゃなかったのは確かかもな。俺は作られたような環境じゃなくて、本物がほしい。そのためには、お前のいう『王道』のような、どこにでもありがちなドラマじゃ満足できないのかもしれんな」
「変わってるわね、あんた。散々王道のテンプレ主人公だなんていったけど、あたしの勘違いだったかもしれないわ。国の施行した恋愛活動支援制度がうまくはまったように、みんな深く考えずに誰かの主人公、誰かのメインヒロインになれることを求めてた。だから王道は王道として成立して、それを嫌う人はいないはずなの。なのに、あんたは王道を拒絶してる。その一点だけで、充分に非王道の主人公を名乗る資格があるわ」
「王道とか非王道とか、悪いけどそんなのはどうでもいい。俺はただ、周りに流されたくはないってだけだ」
「かっこいいわね。そのへんは、まさに王道って感じだわ」
「茶化すな。真面目に答えてやってるのに」
「ふふふ、そうね。あんたは真面目だものね」
くすくすと笑って、彼女はゆっくりと教室の出口に向かい歩き出した。
「なんだ、帰るのか?」
なんとなく、状況的に一緒に帰る流れだと思っていた。帰り道でも、彼女が胸に抱く様々な価値観を聞かされるのだと想像していた。
玲奈は足を止めて振り返った。俺に見せた表情は、変わらずにまだ緩んでいた。
「ええ。今日はおとなしく帰るわ。あんたも帰っておきなさい。バイトだってあるんでしょ?」
「あ、ああ。そりゃあ、帰るには帰るが」
「今日という日を噛み締めておきなさい。王道としてのあんたの人生は今日で終わり。あたしが、あんたが欲しがっているものをプレゼントしてあげる」
そういって、口角に笑みを残したまま彼女はいった。
「明日から、あんたは非王道ストーリーの主人公よっ!」
決め台詞のようにビシッと言い放たれたが、俺はまだ、玲奈の脳内に広がる大宇宙を欠片も理解できている気がしない。
当惑で動けずにいる俺を教室に残して、枢木玲奈は軽やかなスキップで放課後の教室から出ていった。