アイノウ・アンノウン1
二学期の始業式があった週の日曜日午前十時、つまりはイカれた元同級生の枢木玲奈が転校してきて最初の日曜日、あるいは日曜日を週の頭として扱うべきなら翌週の日曜日、最近ようやく自動改札が設置された地元の金井駅前で俺はそわそわとうろついていた。
現在時刻は、正確には午前九時四五分。午前十時とは待ち合わせの時間だ。家からは自転車で十分程度なため待ち合わせの直前を狙うこともできたが、俺は二十分前には到着した。仮に相手を待たせてしまえば、自分の印象を下げることになると憂慮したからだ。
しかし、周りには古びた木造の民家しかなく、どう暇を潰せばいいかわからない。スマートフォンを開いても同じページを眺めることしかできず、他にやることがあるだろと自らを叱責すると、身体は自然と駅舎の脇にある自動販売機の前に移動した。移動しただけで、自販機が何を売っているのかさえ認識できていないほど、俺は目の前の物体に興味を持っていなかった。
ふと顔を上にあげると、昨日降っていた雨が嘘だったかのような青空が広がっている。晴れてよかった。
……駅に着いてから十分。初めて心が動いた気がした。
「隆志くん!」
自動販売機の前で無意識のうちに購入客の演技に没頭していたが、自分を呼ぶ声に腕を組んだまま振り返った。
フリルの付いた黒色のブラウスに、白色のスカートを合わせたコーディネイト。落ち着いた色合いの服装は長い黒髪と相まって、高校の制服を着ているときは段違いの大人びた雰囲気を醸している。正直、見惚れた。
合流予定にはまだ時間があったが、待ち合わせ相手の樹理がそこに立っていた。
「ごめんね、結構待たせちゃった?」
「俺もさっき来たばかりだ。ていうか、まだ待ち合わせ時間前なんだから気にしなくていいよ。俺が単にやることなくて早く来ただけだし」
「そっか……隆志くん優しいね。昔と変わってない」
「こ、こんなのフツーだろ。いちいち褒めなくていいって」
どうしてだろう。『昔』という言葉に俺は弱い。そんなに前から俺をちゃんと見てくれていて、そんなに前のことをいまも覚えてくれているんだ。そんな人、親を除いたら樹理しかいない。
俺にはやっぱり樹理しかいない。俺は彼女と正式に恋人同士の関係になりたい。だから、今日のデートは成功させなければならない。
彼女とのデートを成功させるために、俺は昨日色々学んで、考えてきた。
その成果を、今日ここで出してみせよう!
「樹理、その、休日に会うのって久しぶりだけど、そんな大人っぽい服着てるんだな」
「……似合ってないかな? 私のお気に入りなんだけど……」
「いや似合ってるよ! ただ、なんか学校とは全然雰囲気が違うから驚いたっていうか」
「そりゃあ制服とは違うよ! 今日はこうしてオシャレしてるんだから!」
「服が変わるだけで印象が変わるもんなんだな。俺はオシャレとかよくわからんから、少しびっくりした」
「よかった。実は私も、いつもと違う服着て隆志くん驚かせようって思ってたから」
「それなら、俺も変わった服を着てくるべきだったか……?」
初っ端から、樹理は積極的なアピールを飛ばしてきた。
今日は単に“二人で遊ぼう”と誘っただけで、デートとは明言していない。もちろん詭弁だが、俺はデートではないと思って少しでも気持ちを軽くしたかった。「遊ぼう」と「デートしよう」では内容が同じでも重みが違う。デートではない。樹理と遊ぶこれは〝まだ〟デートではない。
だが、樹理がデートのつもりで臨んでいるであろうことは火を見るより明らかだ。
「じゃあ駅のホームに移動するか。唐橋までの料金わかる?」
「三百二十円だよね? 私、よく服買いに行ったりするから」
「そうか。俺はあんまり行かないから、毎回確認しないとわからん」
「隆志くん、中学校の頃はよく出かけてたのに」
「出かけるといっても親と一緒のときは車だし、あとは近所の家に自転車でいくくらいだ。高校も自転車通学だし、電車なんて全然乗らん」
「そうなんだ。なら、最近の休日はどうやって過ごしてるの? バイトばかり?」
「ああ。基本バイトだな。あとはたまに、友達の家に行くくらいだ」
友達じゃない奴の家にいったりもしたが、樹理には伝えずともいいだろう。
改札を抜けてホームに着いた途端、構内の古ぼけたスピーカーが列車の到着を報せる。
「楽しみだなぁ」
そう独り言をこぼす彼女の横顔は、やけに幼く見えた。服装は大人びているのに、その緩んだ顔はよく遊んでいた小学校の頃と変わらない。
樹理は樹理のままだ。そう確信できると、肩に入ってた力が少しだけ緩んだ。
だけど、少しだけだ。
今日これからの予定を、ただのありきたりなデートで終わらせてはいけない。
彼女の記憶に刻む特別な一日――そして、俺自身の転機となる特別な一日にする。これまでの人生で最も大きな意味を持つかもしれない一日の始まりに、表面からでは認識できないが、俺の心臓は破裂しそうなほど早く脈打っていた。
終点の唐橋駅の改札を出ると、昼前だというのに広い構内はすでに活気に満ちていた。
「すごい数の人だな。樹理がいつも来るときもこんな感じなのか?」
「こんなのまだ少ないほうだよ。十四時から十八時くらいにピークを迎えるはずだから」
「信じられんなあ。東京いったら、ここのピーク時ですら比にならないほど人がいるんだろ。俺にはやっぱ東京生活なんて無理だ。よくれい――」
「玲奈」といいかけて、踏みとどまった。おそらく、“踏みとどまった”の範疇だろう。
デートではないが、デートなのだから。他の女の名前を出すのはよくない。なにかの本でそう読んだことを咄嗟に思い出した。
「――よく冷房が効いてるから、涼しいのは悪くないけどな」
我ながら、陳腐な誤魔化しだと恥ずかしくなった。玲奈が聞いてたら、お決まりの台詞で間髪いれずに罵倒していただろう。
「冷房? そうだね。まだ今日もちょっと暑いからありがたいね」
樹理はわずかに首を傾げていたが、特に不快感を抱いているようではなく安堵した。
「ねぇ、隆志くん」
腰の後ろで腕を組んだ樹理に、語りかけられる。
「隆志くんはあんまり唐橋を知らないだろうから、私が色々案内しよっか? 何をするかは当日決めようって話だったし、いいよね?」
「全部任せちゃっていいのか?」
「私、がんばるから。実は最初からそのつもりで、もう考えてあるんだ」
「すごいな。わりと具体的なタイムスケジュールを組んだってこと?」
「そんな細かくはないけど……まず休日でもランチやってるとこでお昼ご飯食べて、近くにあるモールでお買い物して――あ、お買い物っていっても、見るだけでもいいから。見るだけでも楽しいんだよ? それで、モールにある映画館で映画を観て――あ、上映時間の関係があるから、モール着いたら最初に何見るか決めたほうがいいかも。映画を観たらモールを出て、ファミレスで夜ご飯食べるの。
ほんとはもっと豪華にしたかったんだけど、私達まだ高校生でお金ないから。五千円で収まるくらいのプランで考えたんだけど、どうかな?」
樹理が話している間、俺は平然と相槌を打ちつつも内心では驚いていた。
こんなに喋る樹理を見るのは初めてだった。運動部で毎日身体を動かしているから、性格も昔に比べて活発になったのか。運動は人の心を豊かにすると聞いた覚えがあるが、ここまで顕著に効果が出るとは思っていなかった。
樹理の話には驚いたが、同時に嬉しくもあった。俺を楽しませるために色々と考えてくれたのだ。自惚れではない。彼女もまた、今日に向けて準備してくれていた。
俺が準備してきたのと、同じように。
「――せっかくなんだけど、今日は俺に任せてくれないか」
「えっ? 隆志くん唐橋知らないんじゃないの?」
「知らないから、ネットで調べてきたんだ。どうか今日は、先導する役目を俺に譲ってほしい」
切り出した直後は虚を突かれた表情をしていた樹理だったが、数秒後にはぱぁっと晴々とした笑顔を咲かせてくれた。頬が微かに紅潮している。普段は見せてくれない、一段階上の笑顔に見えた。
「……うんっ! それじゃ、期待しちゃおうかな」
「あんまり過度な期待するなよ。俺は根っからの田舎者だから」
スマートフォンを片手に持って、あらかじめ作っておいたスケジュール表を確認した。もちろん、樹理からは見えない角度で。
「最初に行くところは……たぶんこっちだ」
そういって、歩き始めた。
ランチに買い物に映画にディナー。そんなのを男女二人でこなせば、誰だって相手のことを強く意識するようになる。世間一般的にはそれでいいのかもしれないが、どうにも俺はそんな〝王道〟では相手への気持ちが本物だと確信はできない気がしてしかたがない。
その問題を解消するために、俺は“王道”ではないデートプランを立てた。……なんだかんだいって玲奈の奇天烈な思考の影響を受けていることは認めざるを得ないだろう。
どうか成功することを信じて、若いカップル達がこぞって向かう方角――おそらくショッピングモールがある方角とは別の駅出口へと向かう。
隣では、手が触れ合うくらいの間隔で樹理が歩いていた。