???
「ま、だ。まだ…………」
敵対する者がいなくなった戦場の跡地から、か細く消え入りそうな声が発せられる。
ほんの数分前までこの世界を代表する者達がぶつかり合っていたとは夢にも思わない静寂さを秘めた部屋の四隅の一角、そこには蠢く影が一つだけあった。
「義母、さん!」
その影の陰の主は数秒かけて自身の体を持ちあげると、いつ倒れてもおかしくはない、まるで夢遊病患者のようなおぼつかない足取りで壁を支えに歩き出し、上へと登る階段を一歩ずつ、噛みしめるように進んでいった。
その先で、望んでいない光景が待ち構えているなど露とも思わず。
粉々に砕けた大地の至る所から噴水のような勢いで吹き出し、『神の居城』を包み込むようせり上がる液体。
それは惑星『ウルアーデ』の現状を語る上で決して避けては通れぬ存在『黒い海』。
触れるだけで対象を発狂させ死に至らしめるものであり、『三狂』や『闇の森』に並びこの世界で最も危険な物体として扱われているものである。
「なんだこれは」
「黒い……水?」
現代人ならば誰でも知っているこれらは、しかし千年前の時点では明確に知られておらず、シュバルツ・シャークスとアイリーン・プリンセスの反応は薄い。それこそ妙な胸騒ぎ程度ならば感じているのだがそこまで強い警戒心を抱くには至っておらず、シュバルツ・シャークスなどはアイリーン・プリンセスが足止めしている傍らで、その正体を詳しく知るために触ろうと思い近づき、腕を伸ばし、
「退け! 『神の居城』に近づくな!」
「!?」
「なに?」
触れようとする寸前に聞こえてきた、自分たちに向けられたわけではないエルドラの危機感を孕んだ声を聞き動きを止め、振り返ったところで切羽詰まった表情を浮かべる数多の兵を視界に収める。
「俺が行く! お前らが下がってろ!」
「デューク!?」
「おっと危ない。彼らの反応からするに、触れちゃいけない物質なんだな」
『神の居城』を包み込むようにせりあがり、その周辺にいる自分たちの側まで迫っている物体。その詳細は分からずとも周りの騒ぎ要から『特大の危険』であると二人は認識し、僅かにだが距離を取る。
その状況で前に出たのはシロバの戸惑いの声を浴びたデュークであり、手にしていた鉄槌の柄を強く握り、勢いよく振り抜き僅かにだが意識を『黒い海』に向けていたアイリーン・プリンセスに攻撃。防がれたものの、その場に縛りつけることには成功した。
(待て待てデューク。お前さんこの状況でまだ戦う気か?)
(そうだよ戦うよ! 状況が悪いのは分かってるが、神器を持ってないアイリーン・プリンセスならこいつに沈めれば勝てるはずだ。なら利用するしかねぇだろ!)
二年前に一度退けたゆえか、それとも現状をどうにかして好転させたいという思いが強いゆえか
デュークの声に宿る熱は力強く、他の者を退かせていたエルドラの考えを改めさせた。
(…………俺も神器の欠片を渡されてる。付き合うぜデューク)
(サンキューエルドラさん)
そんな彼に敬意を称したエルドラが一歩前に進み、それに釣られるように戦意を漲らせる者が現れ始め、粉々になった地面を強く踏みながら前進。
「どうするシュバルツ」
「ふーむ。こりゃちと困ったな」
自分たちにとって分からない物質の登場により一気に冷え込んだ空気が、ものの数秒で先程以上の熱を帯びたのを認識し、しかし戦好きの彼にしては珍しくその空気に乗りきる事はできなかった。
ここで問題になるのが液体の正体だ。
現代人からすればそれが触れてさえいけない脅威であることなどすぐにわかるのだが、それを知らない彼らは手さぐりで戦わなければならない。
触れていいものなのか? どのような効果を秘めているのか? 神器の守りは貫通するのか?
情報がない以上、これまで以上に慎重な立ち回りを要求されるのだ。
「エヴァの方も気になるし、万が一とはいえガーディアの奴に問題が起きても困る。となれば仕方がないな」
「エヴァに関しては興味本位で触れてもおかしくないわよね」
「だよなぁ…………なら仕方がないな」
更にいえばこの場にいない二人の事も気がかりで、顎に手を置き困った様子を示すシュバルツ・シャークスは、しかし少しして決心する。
「アイリーン、引き続き奴らの拘束を頼む」
「貴方はどうするの?」
「動きが止まった奴から、一人ずつご退場してもらおう。エヴァが貼った結界があるんだ。万が一にも死にはしない。予定外だが、手の内をもう少し晒そう」
そう言いながら水色の練気を纏い、背後で固め、
「なんだと!?」
「エヴァ!?」
するとそのタイミングで一際強烈な光が頭上を覆い、僅かな時を置き、彼の思惑を挫くように結界が霧散する。
それを前にしてシュバルツ・シャークスとアイリーン・プリンセスが戸惑いの声をあげ、少々遅れて彼らと戦おうとしていたデューク達も事態を正確に理解。
そして
正門前にいた者達全てが、その光景を目にした。
「これは?」
『黒い海』の襲来という事態はガーディア・ガルフにとっても本当に突然の事で、加えて言えばシュバルツ・シャークスやアイリーン・プリンセス同様、完全に未知のものであった。
神の座が語る、微塵も予想していなかった内容。
それを聞く最中にそれらは部屋の中に侵入し、今や四方の壁を埋め尽くし、足場さえも奪わんと進軍していた。
その正体が何であるかは現代の知識を十全に備えていないガーディア・ガルフの口から突いて出たのは困惑の色を帯びたものである。
「…………全貌を聞いていないゆえに断言は避けよう。しかし話を聞く限り君は自身の死を受け入れているように思えたのだが、これはどういう事かね?」
続いて口から飛び出したのは、イグドラシルが語る内容を黙って聞いていた彼が辿り着いた結論。
それを聞いた神の座の顔には寂しげな笑みが浮かび、すぐに彼から視線を外し背後に視線を向け、窓の外に広がる薄緑色の結界に包まれた景色を見下ろし、
「否定はしません。貴方が私を殺すといった時から腹は括っていました」
「ならばなぜ?」
「…………あまりにも必死だったから」
「なに?」
『果て越え』に問われ振り返るのだが、その瞬間彼女の顔に浮かんでいたのは、喜んでいるとも悲しんでいるとも言いきれない、様々な感情が混じった表情であった。
「本気になった貴方に勝てる可能性は万に一つもない。デュークもアイビスも、いいえ、多くの人たちがそれを半ば悟りながら私のために戦ってくれている。それを見てしまったら…………何とかしなくちゃ、なんて思っちゃったんです」
固い口調が和らぎ、その姿に似合わぬ可愛げのある声が喉を通る。
長い年月纏ってきた鎧を脱いだ彼女の姿。それを見てガーディア・ガルフは僅かではあるが目を細め、
「そうか。しかし私の辿り着いた結論は変わらない」
それでも自身の成すべきことは変わらぬと断言。
「……あなたにだって引けない理由がある。それにこれまで失ってきたもののためにも、ここで引き返すことなどできるわけがないー―――――アデ」
「無駄口が過ぎる」
神の座の言葉を最後まで聞くことなく、最後の衝突が始まる。
男の足元を埋めるように迫っていた黒い海が突如泡立ち、壁や天井を這っていた物も含め、全てが勢いよく吹き上げ、部屋に合った家具や食器の類を破壊しながら神の座の敵対者へと迫っていく。
がそれらはガーディア・ガルフが全身から吹き出した真っ白な炎の勢いにロクな抵抗もできず消滅し、
「もしも彼女が意識を保っていたのなら、これを使うだけの余裕は今の私にはなかった」
「…………」
「イグドラシル、君は迷いすぎた」
彼がそう告げた瞬間には彼女の心臓を手刀が貫き、足掻くような事もせず彼女の体は側に合った窓を突き破り宙を舞い、
多くの者に見つめられながら、突如吹きだした黒い海の吹き出し口の中に呑み込まれていった。
神教が、いやこの世界が迎える大きな歴史の節目。
神の座イグドラシル・フォーカスの失脚である。
795話 落日
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作者の宮田幸司です
神は破れ奈落へ堕ち、勝利した皇帝はただただ見下ろす
長かった戦争編、その大きな区切りとなります
次回もぜひご覧ください




