彼の者の名は――――
「え?」
頬の位置まで裂けた口に、その中から飛び出て蒼野へと向けられる鉄色の銃口。
眼球は焦点が合わない様子で天井を向いており、両腕の袖からは鋭利な刃物が出ているその存在は、今朝あったばかりの綺麗な大人の女性のなれの果て。
「え……え?」
目前にしたその光景を見ても蒼野にはリアリティーというものが一切湧かなかった。
それほどまでに、意外な事態であった。
「リリ………………さん?」
信じられるわけがない。ほんの少し目を離した隙に、多少なりとも見知った女性が人でない何かに変化しているのだ。
「しぃんで……」
まるで洞窟の奥から響きわたる低く不気味な声が、リリの口から発せられる。
その声と共にリリの口の銃口からは毒々しい紫色をした光線が発せられ、蒼野へと向け一直線に撃ちだされていた。
「はぁ! はぁ!」
毒々しい紫が壁を貫き外に漏れる。
寸でのところで躱すことができた蒼野は、突如撃ちだされた毒々しい光線によって作られた穴から外へと飛び降りる。
「はぁ! はぁ! はぁ! はぁ!」
頭上を見上げれば、見たこともない赤い空。
視点を落下してきた穴に向ければ、作られたばかりの真新しい穴から姿を見せる存在を見て息を呑む。
「あはははははははははははは!」
先程まで普通に話していた女性が、ほんの一瞬目を離した隙にそ人外の存在へと変貌している。
その姿を前に、蒼野の血の気が引いていく。
なぜあのような姿をしているのか?
そもそもあれは本当に自分が見知った人物なのか?
いくつかの考えが頭を巡っては消え、巡っては消えていく。
「あれは……」
その時、リリが空いた穴から地上へと向け飛び降りる。
頭を地面へと向け突き出し、重力に身を任すその姿は、自殺しようとする人間に似た動きだったのだが、その時彼女の背後に張り付いているものに蒼野は気が付いた。
「糸?」
薄くだが発光している緑色の糸。
その正体を探ろうと色々な事を考えるが、落ちてきたリリが地面にヒビを入れながらも無事に両足で着地し、その姿が赤い光に晒され細部までしっかりと目に見えたところで、蒼野はそれまで考えていた幾つかの考察を放り投げた。
銃口は隠れたが頬まで裂けた口に腕の部分から飛び出す巨大な刃。
それらに加え、背の辺りに穴が空き、数十本の腕が飛びだし蒼野へと向けられているその姿。
「に、人間じゃない…………人間じゃない!」
蜘蛛の子を散らすように飛んで行き混乱していた思考が一つに纏まる。
見知った存在の皮を被った全く知らない存在に、心臓が直接鷲掴みにされたような感覚を得る。
「ねぇ」
「っ!?」
「ねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇ……何で逃げるの?」
思考がまとまりある程度の冷静さを得た、つもりであったというのに…………
「もう!」
それまで蒼野と接してきたときと変わらぬ声を発し、どこに焦点を定めているかもわからず虚空を彷徨っていた目がいつもの様子に戻っただけで、ひどく動揺し頭の中を直接掻きまわされる感覚が襲い掛かる。
「あはぁあ!」
「あ……」
そしてその隙を目の前の存在は逃さない。
背の辺りから出した無数の手が蒼野の体へと伸びて行きその身を捉えようと迫る。
それらを叩き落とす蒼野だが二十三十と伸びてくる無数の腕を全て相手取ることなどできず、次第に後方へと下がっていく。
「く、そ!」
精神への負荷が身体能力に影響している。
蒼野自身もそのことをしっかりと認識しているがどうしようもなく、じりじりとだが追い詰められ、ついにその身を捉えられる。
「捕まえたぁ……」
無数に伸びてくる赤い液体を飛びださせた腕をそのままに、じりじりと近づいてくるリリを見て、心臓の鼓動がだんだんと早くなっていくのがわかる。
「お、おぉぉぉぉ!!」
「あら痛い」
近づいてきたリリの顔を申し訳なく思いながらも踏みつけ、同時に風の刃で体を掴む手を斬り落とす。
その後荒い息を繰り返しながら後方へ跳び退き彼女を見ると、
「痛い……痛いわぁ」
鼻から流れる微量の血を垂れ流し、それを愛おしそうに眺めたかと思えばむしゃぶりつくように舐めまわすリリの姿が視界に映った。
「こんなの……昂っちゃうじゃない」
「ひぃ!?」
普通じゃない!
アスファルトで整備された地面に触れる手が震え、そんな言葉が脳裏をよぎる。
「あ、あぁ」
「え?」
その時、背後から掠れたような声が聞こえてくる。
先程のようなヘマはしないと、風の属性粒子をリリのいる方角へと放ち警戒をしながら背後を見ると、必死で気が付かなかったが彼らはいつの間にか大通りへと移動しており、蒼野が背をぶつけるほど近くにも人が居た。
「助けて……助けて」
「たすけて………………」
「タスケテ!」
そのまま辺りを見渡すと外を歩いていた人々は揃いも揃って蒼野に助けを求め、ある者は肩を抱え、ある者はおぼつかない足取りで、ある者は芋虫の如く這って、なんとか蒼野へと向けて近づいて来ようとする地獄のような光景に、蒼野の精神が悲鳴を上げる。
「ま、待っててください! 俺が、すぐに助けて!」
が、その光景を前にしたからといって古賀蒼野の心から善性が消え去ったわけではない。
理解できない恐ろしい光景を目にしながらも彼はもがく彼らに手を伸ばし近寄って行き、最も近くにいた先程ぶつかった男性の手を優しく握る。
「う、ごぇ!?」
そんな蒼野の前で、彼らはその姿を変えていく。
あるものは体を風船のように膨張させ、
あるものは手首に手足、そして首を不可解な力で捩じり、
ある者は頭を抱えうずくまり、
「?」
その全てが血飛沫をあげ事切れる。
「あ…………」
真っ赤な空に鮮血が舞い蒼野の体に降り注ぐ。
おびただしい量の命の滴が大地を穢すだけでなく優しき心を持つ少年の体を襲い、心を揺らす。
「ああ、ああ……ああああ………………ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
目の前で突如晒された惨劇を前に、一瞬だが呆ける蒼野。
しかしそれから少しの間を置き、蒼野はついに思考を放棄し感情の赴くままに悲鳴を上げた。
「ああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
血の雨に晒される全身が震え、叫べば叫ぶほど心が恐怖で埋め尽くされると本能で理解しながらも、それでも耐えきれず声を上げた。
カツン………………カツン…………カツン……カツン
「あ…………あ?」
そんな中、大通りの奥から足音が聞こえてくる。
蒼野が頭で考えることなく、反射的にそちらを振り向けば、
「やあ」
そこにいたのは見覚えのある姿、真っ白なスーツにシルクハットを被った茶髪の男性イスラであるのだが、蒼野にはそう思えなかった。
「こんばんは」
真っ白な服とシルクハットを血の雨で濡らしながらも平然とした様子で歩いてくる。
この状況をさも当然という様子で歩いてくるその姿が、ほんの少し前に話した彼とどうしても重ならなかったのだ。
「イスラ、さん?」
「蒼野君。この私の開いた即興劇にようこそ」
優雅という言葉を体現したかのようにお辞儀をし、優しげな声色で語りながら笑みを浮かべる青年。
「イスラ……さん? あなたは……本当にイスラさんなんですか?」
目の前で繰り広げられた惨劇を前にして精神をすり減らした蒼野の、縋りつくような思いで絞り出した言葉に、男は首を横に振る。
「申し訳ありません。実はその名は偽名なのです」
「偽名?」
「ええ。わたくし世間一般での異名が広く知れ渡っているため、偽名を使い日々を過ごしているのです」
そう言い放つ男の横には、もはや原形を失いつつあるリリの姿。
「あなたには少々お世話になりましたし、特別に教えて差し上げましょう」
そう語る彼の顔に浮かんでいるのは穏やかな微笑なのだが、蒼野にはひどく残酷なものに見えた。
その名は神教において最悪の敵の名。
ここ数年の間で神教内において多くの人々を惨殺し、日々その足取りを掴もうと躍起になっている存在。
「特別に教えて差し上げましょう」
一方でその名は賢教においては然程重要視されていない存在。
一方的に神教側の領地で暴れまわり、各国の要人の抹殺や大量虐殺を行うその存在は、神教を目の仇にする人々にとってはむしろ尊敬の念を抱く程だ。
「私の名は」
神教に属する人々を小馬鹿にした態度で殺す姿。
現存する中で並ぶ者がいないと言われるほどの人形操作の名手。
理解の範疇を超える凄惨な事態を度々起こす腕前。
――――道化師、人形師、奇術師――――
それら全ての意味を含め、正体不明のその存在を人はこう呼ぶ。
「パペットマスターと申します」
この日、少年は出会ってしまった。
彼の人生において、大きな爪跡を残す人物。
『十怪 人形師パペットマスター』と出会ってしまった。
ここまでご閲覧いただきありがとうございます。
遅くなり申し訳ありません。
作者の宮田幸司です。
という事で本日最終投稿にして、本編においてカオスに続く第二の強敵パペットマスター登場。
恐らくクッソ長いこの物語において、最高クラスの外道。
何より、全編通して蒼野に最も強い影響を与えるいわば宿敵です。
これからしばらくはこいつとの対戦になりますので、よろしくお願いします。
明日は午前中に一話投稿できればと思うので、そちらもよろしくお願いします。
…………物語上必須とはいえ、こいつはなろうの規制に引っかからないのであろうか?
心配な作者であった。
あと、できればブクマや感想、評価をお願いします。
連続投稿のやる気や、そもそもこいつの存在が皆さまにとって良いか悪いかの判別方法にもなりますので




