黒い海 二頁目
「知恵という名の守護よ。我を守りたまえ…………」
少女がコンクリートの地面に着地した瞬間、粘性を纏った真っ黒な水が前後左右に引いていく。
「行きましょう」
と同時に人を死に誘う荒波の真っ只中であるというのに、物音一つない湖面に小石を投げつけたかのような綺麗な波紋が立ち、彼らの周囲を満たす。
「あ、ああ」
神秘的な光景、というのはこういう事を言うのだろう。
その様子を眺めていた蒼野がそう考えながらアビス・フォンデュに続いて黒い海が侵食していない地面に着地する。
するとゴロレムの周囲に展開していた真っ黒な腕とは別の腕が、彼らへと向け一直線に伸びてきた。
「二人とも、足を止めるな。時間が掛かればそれだけ、オレ達もゴロレムさんも厳しい状況になる事を忘れるな」
「分かってるさ」
「す、すいません」
「…………いや、オレの方こそ悪かったな。切羽詰まったせいで、言葉を選べてない」
最後に下りた康太が銃弾で黒い手を撃ち抜き二人にそう告げるが、返ってきた答えを聞くと素直に謝罪し、アビスを庇うように先頭に立ち、一歩ずつ慎重に前に進み始めた。
「心が軽い…………」
「それに加えて黒い海を跳ねのけてやがる。なるほど、これなら確かに、ゴロレムさんの言う通り目標の場所まで辿り着けそうだ」
本当に奇妙な空間であった。
背後を見れば同じ神器を持っているゴロレムに対し数えるのも馬鹿らしくなるほどの黒い腕が伸びては凍らされているのだが、アビスを中心とした三人が自由に動ける空間には一切黒い海が侵入してこれず、腕や飛沫がどれほど襲い掛かろうとも、ある程度のところまで近づいたところで霧散し消滅した。
「アビスの持ってる槍も、ゴロレムさんが持ってる本も、同じ神器なんだろ? なのに何でゴロレムさんはアビスと同じように黒い海を消せないんだ。もしかして、これはアビスの持つ神器の能力なのか?」
彼女が両手に力を込めながら握る白い槍に視線を向け、後方から指摘する蒼野。
「神器には三つの型があるんです。ゴロレムさんが持つ神器は攻撃に偏った型でして、私の物と比べると能力を無効にできる範囲に大きな制限があるんです」
「そうなのか……アビスはすごいんだな」
「ふふ。ありがとうございます。そう、私はすごいんです」
それを聞いた彼女は穏やかな笑みを浮かべながら返事を返し、蒼野のどこか遠くを見るような言葉に対し、胸を張ってそう返した。
「隠そうとしないでくれ」
「あ……」
振り返った康太がそんな彼女――――必死に勇気を振り絞り、それでも震えを隠せない彼女の掌を自身の手で包みこみながら、優しく笑った。
「いろんな相手と戦ったオレや蒼野もめちゃくちゃ怖いんだ。戦場に出た経験が少ないアビスちゃんはそれ以上に辛いはずだ。それを隠して無理するんじゃなくて……もっとオレ達に頼ってくれ」
「………………ありがとう、ございます」
自身の掌に触れる康太の手を体に持って行きながら、涙を溜めた瞳で笑うアビス。
(蒼野)
(どうした?)
(な、泣かせちまったんだが、俺はどこで失敗したんだ)
(気にするな。そりゃ多分いい意味の涙だ)
康太から送られてくる念話に返事を返しながら蒼野は前を歩く二人の後をついていき、慎重に、しかし確実に目的の石碑まで近づいていく。
「それにしても……神器っていうのはここまですごいんだな。なかった場合の事を考えると、本当に恐ろしい」
蒼野達を避けるように流れる黒い海であるが、凄まじい勢いでその水かさは増してきていた。
これはゴロレムが外に出さぬようにと壁を作り上げた事による結果なのだが、もしもアビスが手にする神器でこれらを跳ねのけていなかったとするならば、既に下半身は完全に浸かっている程の高さまで水は溜まっていた。
「アビスちゃん、蒼野、急ぐぞ。例え跳ねのけられるとしても『世界三大災厄』の中からは一刻も早く抜け出したい」
康太がそう告げると二人も頷き、僅かにだが歩調を早めていく。
その動きを遮るように無数の手が伸びてくるのだが、それは彼らに触れることなく消滅していく。
「見えなくなる前にあそこまで行こう」
不思議な事に境界維持装置が埋め込まれた石碑は周囲の木々と共に飲みこまれることなく、その姿を蒼野達に見せ続けていたのだが、それでも飲みこまれどこかに流されてしまえば見つけるのは難しいと感じた蒼野が最奥から二人を更に急かす。
「ええい。邪魔だな!」
近づいていくその最中、折れた幹が道を塞いでおり、先頭を歩く康太が手の甲で払い除けた。
「ん?」
それからすぐの事であった。蒼野達へと向け小さな木の枝が飛んできた。
それはさして速度があるわけでもなければ危険性のあるものでもなかったのだが、うっとおしいと思った康太が再び手で払う。
「飲みこみきれなかった分か? 木が邪魔だな」
「なに?」
だが同じことがアビスの背後にいる蒼野にも起きている事を知り、そこで妙な引っかかりを覚え、
「!」
康太の脳が危険信号を発した事で自身に迫る危険の正体を理解した。
「構えろ蒼野! こいつら、神器の特性を学習してやがる!」
額から玉のような汗を流し叫ぶ康太。
すぐに彼が言っている言葉の意味を理解した蒼野が剣を構えると、ほぼ同時に黒い海が呑みこんだ巨大な木の幹が三人へと向け飛来した。
「康太。こいつは!」
「神器の特性、能力以外なら攻撃が通る事実を理解したんだ! 気を付けろ、アビスちゃんを中心とする円から出れば、オレとお前はひとたまりもないぞ!」
飛来する脅威を押しのけようと足掻く二人であるが、その数は尋常ではない。
大地を埋めた黒い海の様々なところから大きさの異なる岩や木を放り投げ、蒼野と康太の二人へと銃弾のような勢いで迫ってきていた。
「視界を絶対に確保して周囲に目を向けろ! 見えない場所からの不意打ちを許すな!」
「わかってる!」
持っている槍を動かせば三人を包みこむ円が傾くためアビスは戦闘に参加できず、蒼野と康太が窮屈な様子で動きながら木々を跳ねのけていく。
「動けそうか?」
「え、ええ。何とかですが!」
そんな中でもなお前へ進もうと足掻くアビスであるが、真っ白な槍を体と平行になるように腕を伸ばしている彼女の息口から荒い息が漏れ、肩を揺らす。
限界が近いな
自分の肩に数人ないし世界中の人々の命が乗せられている事実と、目前に迫る恐怖を前に荒い息を吐くアビスを康太が木々を退けながらも横目で確認。
迫るタイムリミットを前にあと十数歩先にある石碑を見据えるが、そこでついにアビスの歩が止まる。
「っ康太!」
「マジかよ!」
それでも必死の抵抗を続ける蒼野と康太であるが、そんな彼らの前で粘度を持った黒い水が吹きあがり、三人の体を押しつぶすことができる巨大な平らな板を形成しまっすぐに落としてきた。
「俺が防ぐ。周囲の警戒を頼む!」
「わかった!」
「風塵……」
蒼野が空を見上げ刀をしまい、拳に風の属性粒子を圧縮。
「裂破!」
拳の一撃と共に大砲の砲撃が如き風の塊を発射させ、真っ黒な脅威を押し返し、危機的状況から脱したと蒼野が残った片手でガッツポーズを取るが、
「まだだ! 気を抜くな蒼野!」
吹き飛んだ塊のその背後から、無数の木の残骸や石の破片が降り注ぐ。
それは三人の間に割り込むように降り注いでおり、それに一早く気が付いた康太が片方の銃で特に危険なものだけを撃ち抜いていく。
だがそれでも、飛来する全てをの脅威を吹き飛ばせたわけではない。
撃ち漏らしたものはそれまでとなんら変わらず降り注ぎ、彼らの繋がりを引き裂こうと落下。
「くっっっっそ!」
それを理解して康太は覚悟を決めた。
自分の腕をぎゅっと握る小さくなっているアビスを引き寄せ強く抱き、空いた片手に持っていた銃をシリンダーにしまい蒼野の手を引いた。
「お、おぉぉぉぉ!!」
「こ、」
「康太さん!?」
降り注ぐ脅威を一身に受け、肉が抉れる感触が体を襲う。
その内数本が内臓を傷つけ体を貫通し口から大量の血を吐きだすその姿は、素人目でも致命傷とわかるほどの負傷であった。
「リ、時間回帰!」
慌てながらもすぐに時間を戻し康太の怪我を直すと、康太は一瞬だけよろめきながらも、倒れることなく両足で地面を踏んだ。
「なんであんなことを…………」
「アビスちゃんもお前も、この窮地を超えるための希望だ。危険な目に合わせるわけにはいかねぇ。なら、俺がオレになるしかねーだろ」
「だからって!」
「それよりも……下だ!」
数多の攻撃を喰らい乱れた息を吐いていた康太が、再び声をあげる。
すると彼らのいた地面が隆起し、何らかの対応をするよりも早く弾け、三人をバラバラな方角へと吹き飛ばそうと画策する。
「クソ、ビビりすぎたせいでこんな簡単な答えに今辿り着くとは。まだまだ修行不足だなオレも」
しかしそんな策は、二人を抱きかかえた康太には通用しない。
蒼野とアビスは康太にしっかり抱きかかえられたまま宙に浮き、それから何の不安もなくアビスの神器の力で落下先の地上に安全地帯を作りだし地面に着地。
「走るぞ。しっかり捕まってろよ二人とも!」
二人を抱きかかえるという最適解に辿り着いた康太がそう告げると一直線に走りだし、それに続く形で腹部にまで到達する程の深度になった黒い海も近づくたびに消失していく。
それからも様々な攻撃が彼らに降り注ぐが、自身が避けることさえできれば二人の心配はする必要がない康太からすれば、二人を背負った状態で移動できる現状ではさしたる脅威でもなく、
「蒼野!」
「ああ!」
ものの数秒で、彼らは記念石碑の前にまで到着。
康太に背負われたまま、蒼野は迷いなく石碑へと手を伸ばす。
「時間回帰!」
そのまま彼は真っ白な石碑に触れ、事態を終わらす希望の名を唱え、
「あ」
「石碑が……」
その瞬間、真っ黒な海が世界を満たす世界に青白い光が満ちていく。
「綺麗」
それは無数の黒い腕の妨害をものともせず元の場所へと戻っていき、遠くに飛んで行った杭の部分さえ引き上げ、ゴロレムが削る前の元の状態に変貌。
そのまま元の場所へと戻ると、音一つ立てることなく元々の形に戻った。
「まだだ!」
「え?」
黒い海が吹き出るきっかけとなった穴には確かに栓をした。
しかしそれで封じ込められたのは、吹き出るまでの話だ。
一度吹き出てしまい勢いに乗った状態の黒い海を止めるだけの力はそれにはなく、
「ど、どうすんだよ! また引き抜かれちまうぞ!」
「っ」
加えて栓をする石碑を引き抜こうと、地上に残っていた数多の手が結界維持装置にへばりついた。
それを阻止しなければと三人は考え再び動きだそうとする蒼野達だが、
「いや、君たちはよくやった」
「「!」」
その時、彼らの耳に声が聞こえる。
この状況を打破するという意思が伝わってくる、力強い声が聞こえてくる。
「あとは、私に任せてくれ」
黒い海が自分たちを抑えるために無数の手を使った事で、ゴロレムを抑える手の数が減り、蒼野達の背後で拮抗していた状況が急変。
その場から動くことができるほどの余裕を得たゴロレムが、大きく跳躍し空を舞い彼らにそう告げる。
「重ね氷楼」
彼が名を口にすると同時に、二階建ての建物程の高さの氷の塔が出現し、記念石碑の上にのしかかる。
それにより半ばまで抜けていた石碑は再び大地に沈み、数多の腕がそれを吸収しようと手で触れ侵食していくのだが、
「冬閻魔・大団扇」
しかし侵食するよりも先にゴロレムの放った能力が黒い海に襲い掛かり、吹き荒れる凍える風が備えている二つ能力、『完全凝固』と『結晶崩壊』が発動。
氷属性に加え風と闇属性を加えたそれは、触れた全ての腕を瞬時に凍らせ、それ以上抵抗する暇も与えず大量のヒビが生じ始め、
「これは……」
「綺麗……」
「ああ。オレもここまできれいな景色は見たこともない」
真っ黒な水がガラス細工が砕けるような音を立てながら粉々に砕け周囲を舞う。
それらと残暑の日差しが混ざって照らされるその光景は幻想的で、
「康太さん」
「ん?」
「ありがとうございました。私……大変ですけど神教にこれて良かったと思います」
「そうか…………そいつは良かった」
蒼野がゴロレムの側に行き心臓を抑えながら感謝の言葉を伝える中、アビスは彼の腕に抱きかかえられながら、この事件の終焉を最後まで眺めていた。
ここまでご閲覧いただきありがとうございます。
作者の宮田幸司です。
投稿時間が遅くなってしまい申し訳ありません。
さて『世界三大災厄』という大それた名で現れた黒い海ですが、その活躍は短め。
正直に言うともっと突き詰めるべきかと考えたのですが、そうするとロクな話にならないだろうと思ってやめてしまいました。
臆病な私を許して欲しい。
なお、本編でまた細かい情報が出るのでここでは神器の性能差については語りませんが、ゴロレムも黒い海の腕自体は神器の能力で振り払えます。
ですがそれは自分に触れられた際に限ったものとなっており、そこまでこのホラーな存在に近づくことを許すかと問われれば否である、という理由で必死に抵抗していました。
とはいえそのおかげで彼を攻略しようと黒い海はリソースを使ったので、無駄な行為というわけではありません。




