黒い海 一頁目
この世界に住む誰もがどこかしかでその存在を知る『世界三大災厄』。
しかしこれについて正しい認識をしている人間というのは、意外と少ない。
というのもこの世界を統治する『神の座』は、詳細を知らずとも恐れさえすればそれで良いと考えていた。
本当に重要な事はこれらに触れるような機会があった場合、一目散に逃げる事であるからだ。
なぜなら『世界三大災厄』とはこちらから近づくことで発生するような代物ではなく、本当に偶然、もしくは不慮の事故の結果、関わってしまうものだからだ。
その際大半の人間が余計な事を考えず、すぐに逃げることを選択する。
そう脳に刷り込む事こそ、最も重要な事なのだと、彼女は考えていた。
一つ目の災厄は『人災』である『三狂』。
現存する犯罪者や危険人物の中でも際立って危険とされる『十怪』の範疇すら超えた、まさに世界最大の『悪』。
各々が類を見ない『武力』・『被害度』・『瞬間最大規模』を誇っており、四大勢力でも最高位以外では歯が立たない存在と言われている。
二つ目の災厄は『正体不明』である『闇の国』。
神出鬼没、いつどこで、どのような条件で現れるかも、なぜ現れるかもわかっていない黒い霧で覆われた世界。
現れては人を誘い、一度入ったものは二度と出てこられない危険な場所で、『闇の国』と出会ってしまったのならば、そう認識した瞬間両耳を塞ぎ目を閉じ、真逆の方角へ走るべきと言い伝えられている。
最後の一つ、三つ目の災厄は――――この世界で唯一恐れられている『天災』。
この世界で最も危険と語り継がれる『黒い海』だ。
地下数百万メートル以上下に眠っていると言われるこれは、時折地表近くまで昇り、その際に大地が裂けた場合などに現れると言われている。
対処法はもちろん逃げの一手。この点は他二つと変わらない。
だが、この存在に限り、逃げきれないと理解した瞬間他二つと違い、すぐさま別の手を取ることを勧められている。
誰でもできるその手段、それは自身の手で自らの命を捨てる事……すなわち『自殺』だ。
そんな危険な存在が今、彼らの目の前に姿を現した。
「?」
最初にその存在に気がついたのは蒼野であった。
奇妙な音を聞いた彼はさして緊張感のない様子で周囲を見渡し、音の正体が何か判断しようとした。
するとそれが先程まで記念石碑が置いてあった場所から聞こえたもので、折れていたまま残っていた杭の残骸が飛びだしたのを確認。
杭の残骸は蒼野が見守る中、少し離れた場所にある林の中に消えていった。
その光景を訝しげに見ながらもすぐにそうなった原因を探ろうと視線を元の場所に戻した蒼野。
「……………………え?」
そこで彼が見たのは、石碑を固定していたであろう杭が埋まっていた四つの穴の一つから吹きだしてくる真っ黒な液体。
僅かにだが粘着質のあるそれはとめどなく溢れ地面に広がり、徐々に徐々に、世界を侵食し始めた。
「ひ!」
蒼野に続いてその光景を目にしたアビスがこれ以上は広げられないというほど大きく目を見開き、両肩を抑え震え始め、
「アビス君……一体どうしたんだい?」
「ご、おぉぉぉぉ!?」
その様子を確認したゴロレムが持っていた神器から彼女に視線を映し、同時に康太が全身を襲う吐き気を前に膝をつく。
その様子も確認したゴロレムが周囲を確認し、そこで彼もまた目にした。
――――この世界を飲みこむ事すら可能と言われる、世界唯一にして絶対の『天災』を――――
「く、黒い海!」
悲鳴にも似た叫びを蒼野があげ、それに呼応するかのように大量の黒い水が直径一センチにも満たない小さな穴から溢れ大地を穢す。
それはゴロレムとアビスから少し離れた位置にいる蒼野の元へと一直線に伸びて行き、
「冬将軍・防人!」
「うわ!」
蒼野を呑みこもうとしたその一歩手前で、ゴロレムの声に反応し氷の壁が瞬時に形成。黒い海の行く手を瞬時に阻んだ。
「ご、ゴロレムさん!?」
「アビス君、説明は後だ!」
だが黒い海はなおも追撃の手を緩めはしない。
黒い海が埋め尽くした大地から真っ黒な腕を無数に生やし、蒼野に加えて康太やゴロレムなど、その場にいる全員にそれを伸ばす。
「今は生き残ることだけを考えるんだ。すぐに彼ら二人をこの場所に集めるんだ!」
途中で呼吸を挟むことなく、これまで彼らに見せたことのない表情で叫ぶゴロレム。
彼がそう告げると同時に無数の黒い腕が現れ、それは生物だけではなく周囲の石柱や林にさえ黒い海は腕を伸ばす。
その勢いは凄まじく、瞬く間に動かぬ対象を掴んだかと思えばその身にとり込み、ほんの数秒で、公園内の無生物全てが呑みこまれた。
「二人とも急げ!」
「こいつは、こいつは本当にこの世の光景なのか!?」
蒼野と康太が突然の出来事に慌てながらも走りだした瞬間、黒い海が行動不能の状態まで追い詰めた人々を呑みこんでいく。
「ぎゃぁぁぁぁ!」
その光景は、まさにこの世の地獄と形容するにふさわしいものであった。
動けぬ者は震えながら飲みこまれていき、動けるもの、抵抗する者は無数の真っ黒な腕に対抗するが、燃やしたり凍らせたりした側から新しい真っ黒な腕が生えてきて、物量で捉え飲みこんでいく。
不思議な事にそれらは、呑みこめないはずの巨体さえその中に引きずり込んでいく。
真に恐ろしいのは腕に体を掴まれたものが見せる表情だ。
誰もが触れられるだけで目を見開き喉が千切れるほどの絶叫をあげ、穴という穴から水分を溢れさせる。
体が動くならばそれだけ激しく抵抗し、崩れ落ちた者はコンクリートの地面を爪で引っ掻いた影響で血の線を残していく。
そんな彼らは引きずられる間に穴という穴に黒い水がすすぎこまれ、断末魔の悲鳴を上げながら小さな小さな穴の中に消えていく。
「はぁはぁ!」
二人が襲われていないのは、黒い海の習性が呑みこみやすいものから吸収しているからなのであるが、そんな事には気が付くはずもなく、彼らはゴロレムの元にまで移動した。
「ゴロレムさん!」
「来たか!」
瞬く間に目に見える範囲一帯を侵食した黒い海から、数えるのも馬鹿らしくなるほどの量の腕が溢れ出る。
それら全てが彼らの元に向かって行き、一定の範囲内に入ったものから瞬時にゴロレムが凍らせていくが、凍ったそばから腕は追加されていき、絶え間なく襲い掛かってきていた。
「蒼野君! 康太君! まだ若い君たちにここまで頼ってしまうのは申し訳ないんだが、この危機的状況を乗り越える名案はあるかね! このままでは被害が拡がるばかりだ!」
襲い掛かる黒い水の波をゴロレムは延々と凍らせることはできる。
しかしどれだけ凍らせようとも黒い海は周囲へと拡がっており、発生点である穴の部分まで凍らせても容易に突き破り溢れ出てくる。
それを見たゴロレムは、数秒後には平和公園を出て、罪のない人に襲い掛かる未来を想像。
それだけは避けなければならないと考えた彼がそれを防ぐために延々と氷の壁を公園と他の場所の境目に展開しているのだが、主戦力の氷の人形が容易く飲みこまれる勢いを目にして、自分とこの存在は最悪の相性である事を痛感した。
「防ぐつったって…………こんなもんどうしたらいいんッスか!」
古賀康太という人間は蒼野と比べた際、弱気なこともなければ怖がりなわけでもない。
むしろ冷静かつ機械的に、様々な問題を処理していくその姿は齢十六歳とは思えないほどの貫禄がある。
しかし彼の実力は一般の者達と比べれば遥かに優れているが、それでも『黒い海』に対処できるほどの実力は未だなく、目の前の現実に打ちひしがれる。
「そ、そうだ。電話だ。電話で善さんやヒュンレイさんに援護要請を!」
蒼野がそう口にしながら慌てて革袋から携帯電話を取りだし見知った番号に電話をかけるが、返ってくる狂気で満たされた女の嗤い声を聞き、反射的に携帯を投げ捨てた。
「『黒い海』は現状存在するあらゆる通信手段を混乱、または破壊する。それ以外の手段はないかね!」
「他の手段、なんて言われたって…………」
切羽詰まった声で追及するゴロレムに対し、蒼野も康太も途方に暮れる。
『世界三大災厄』については言い伝えなどとして聞いてはいた存在だが、まさか自分たちが『人災』以外の二つと遭遇するなど、夢にも思っていなかったのだ。
「そう、例えばだが、あの石碑を元に戻すだけでもいい。そう言うことはできないか?」
「え?」
ただそんな二人に告げられた内容を前に、蒼野と康太が顔を見合わせた。
「そ、それだけでいいんですか?」
「ああ。際限なく溢れてくるのが脅威なんだ。蓋をして、そのまま動かないよう固定さえできればなんの問題もない! そしてこれまあで止めていた様子を顧みるに、恐らく結界維持装置の役割を兼ねていたあれはそれが可能なんだ」
その言葉を聞き二人の頭に希望がよぎる。
なぜなら、それは元々蒼野と康太が最終的には行わなければならないと考えていた事であり、その程度ならば彼ら二人でも充分に可能であったからだ。
「それなら俺に任せてください……時間回帰!」
崩れ落ちた記念石碑はかなり離れたところに飛んで行っており、しかし何とか蒼野の視界の内に入っており、しっかりと見据え半透明の丸時計を展開。
作りだしたそれを記念石碑へと向け撃ちだす。
「っクソ!」
だがそれは石碑に当たる前に黒い海が発生させた波飛沫に触れ、その効果を正しくない存在に発動してしまう。
「だ、ダメです! 俺の能力はこのめちゃくちゃな水量の水に遮られてしまう!」
発動までの時間の短さ、いざ発動した際の効果、その他いくつもの利点を兼ね備えている蒼野の能力だが、『対象を決められず、触れた者の時間を戻す』という点だけは目に見えるほど大きな欠点だ。
そしてその特性により、半透明の丸時計は地面に沈む記念石碑に届く前に黒い海の飛沫に当たり能力を発動してしまった。
「そうか。なら、目の前まで移動をっ」
襲い掛かる無数の手から身を守りながら一歩前に進むゴロレムであるが、その瞬間それまでの倍以上の腕がゴロレムに襲い掛かり、行く手を阻んだ。
「動くことも許さないか!」
その事実に表情を歪め、前に出した足を引っ込めるゴロレム。
そうした彼が見据えたのはこの場の状況について行けず体を震えさせ縮こまっているアビスの姿だ。
「あとで……君のお父さんに謝らなければならないな」
静かな決意を秘めた目をメガネの奥から覗かせるゴロレム。その姿を目にした彼女が全てを察し息を呑んだ。
「黒い海に関しては日夜研究が進んでいる。その中で今重要な事、それは黒い海というものは能力と同列で語れるという事だ」
「!」
見た者の心を削る呪詛に、触れた瞬間心を破壊しようと襲い掛かる呪詛。
あらゆるものを際限なく呑みこむ貪欲かつ見境のない食欲。
そして人間同様に知恵と学習能力を持ち、自身に対する脅威に抗う思考。
それら全てを兼ね備える『黒い海』は使用者という存在はいないものの、能力のカテゴリーに属するものであるとされていた。
「彼の案内を…………頼めるかい」
「そうしなければならないならば……私は頑張ります!」
であれば対処できるだけの手段は目の前にある。
「二人とも聞いてくれ。どうやら、黒い海は私の事を完全にマークしているらしく、申し訳ないが私はここから動けない」
「そ、そんな!」
外に出ようとする黒い海がその障害となっている氷の壁を破壊しようと吸収と殴打を繰り返し、それに加えてそれらを行う本体であるゴロレムを飲みこまんと画策する。
彼は自分では、この事態を解決できないと瞬時に悟った。
「だから、これからの対処は君たちとアビスに任せる。私が抵抗を続けているうちに、彼女と共に蒼野君ができるという対処法を実行しに行くんだ」
「む、無茶だ…………俺達程度じゃ、ゴロレムさんから離れた時点で呑みこまれてしまいます」
「無茶じゃない。なぜならば……」
心臓を押さえつけ息も絶え絶えといった様子で語りかける蒼野。
そんな彼をなだめるように、ゴロレムは頭を捻り伝えるべき内容を瞬時に選ぶ。。
蒼野の嘘偽りのない本音を振り払うように、、彼は自らの意見を曲げることはせずこう告げる。。
「今君たちと共にいるアビス君は『神器』の使い手だ。彼女を中心にして歩けば、君たちは黒い海の脅威を幾分か避けながら前に進める。だから彼女を守りながら、君たちは目的の石碑にまで辿り着くんだ!」
ここまでご閲覧いただきありがとうございます。
作者の宮田幸司です。
という事でこの物語の根幹にかかわり、今回の話のラスボスである『黒い海』の登場です。
とはいっても、相手は無生物なので、そう長々と話を続けることなくすっぱりと終わらせられればなと思います。
あと、一応軽いホラーとして書いたので、少しでも怖がって下さると幸いです




