SS「コーヒー」
「そこのカップに、お湯を注いでくれ。」
「はい。」
ヒシギは才沼が指さす縁が金で装飾されたカップにポットのお湯を注いだ。
「それは、そのまま置いといてくれ。」
「はい。」
カップを置いたヒシギを小さく手招きする才沼。ヒシギは素直に近づく。
「今日の豆はどこの物だと思う?ほら。」
才沼は、ドリッパーを持ち上げヒシギに渡した。ヒシギは、数秒見詰めたあとに、鼻を近づけ、匂いを嗅ぐ。焦げた何かのような香り、ただそれだけ。何度匂いを嗅いでも、色を見ても、一向に分からない。分かるはずもない。しばらく考えたふりをした。
「コロンビアでしょうか?」
「あ~、確かに、この若々しい草のような香りは、前々回のコロンビアの物に似てもいるな。」
知っている豆の名前を言ってみただけのヒシギ。そもそも前々回の豆の匂いも最早覚えていない。
「今回のは、エチオピアの物が。う~ん、幾分焙煎が足りなかったか?」
才沼は鼻で大きく息を吸いこみ言った。ヒシギは問いの答えを間違えたことは少しも気にしていないようだ。
「さて、入れよう。今日は君が入れなさい。」
「!」
ヒシギの目が丸くなる。
「い、いえ、そんな。せっかくの豆が知ろうが入れたのでは台無しになってしまいます。とてもじゃないですが―――」
「遠慮するな、これも仕事だと思って、ほら、入れなさい。」
才沼は銀のポットを差し出した。2度目同じことを言われては断れない。ヒシギは覚悟を決め、ポットに手を伸ばす。才沼はにんまりと笑っている。
「最初は全体を湿らす程度でいい。どうしてだったかな?」
「豆を蒸らすためですよね。」
「うん、その通り。」
ヒシギはポットを傾ける、異様に重いポットの口の手前で、90数度のお湯が出そうになったり、戻って行ったりしている。ちょうどいい角度が見つけると、最初のお湯の塊は、ゆっくりと焦げた粉に落ちていく。粉の上を一周程し、ポットの角度を戻した。
「このくらいでしょうか?」
「もう少し。」
「はい。」
今度は、更に半周お湯をかけた。才沼に目をやると、うんうんと頷いていた。
「このわずかな手間がコーヒーを平凡な飲料にするか貴族の嗜好品にするかを分けるのだと思うんだ。」
才沼は、独り言のようにつぶやく。ヒシギは、んんと納得するかのような反応をしておいた。
「もういい頃だろう。さあ。」
「はい。」
「そんなに緊張しなくていいんだ。失敗しても、飲めるくらいの物にはなるさ。ははは。」
才沼は、憂鬱で重いヒシギの肩をポンポンと叩く。
「のの字を書くように・・・おお、いい感じだ。」
「はい・・・。」
「お湯を入れた後に、豆は膨らむだろ、そして・・・ほら、しぼみだした。さあ、お湯を切らさないように。」
ドリッパーから湯気が上がり、焦げた木のような匂いが立ち込める。ヒシギは、この匂いを嗅ぐと、横暴で癇癪持ちのタバコくさい父親の匂いを思い出す。
「まるで、豆は呼吸をしているみたいだろ?・・・これは、ほら、ちょうど子供を育てるのにも似ているんじゃないか。喜んだり、悲しんだり・・・。」
「あ~。そうですね。」
深い共感と、新たな知見への驚きを込めたように聞こえるようにヒシギは取り繕った。
うまいとも思えない飲み物を飲むために、大層な道具を揃え、仕事の合間に部下を呼び出し、時間をかけてチマチマと作業をする。
本当だったら、こんなもの、すぐにお湯をたっぷりかけて放っておけばいいのだ。数度の温度の違いで少しばかり苦味の出方が違うだの、なんだのとくだらない。
サーバーに、半分ほど黒い液体が溜まった。お湯をかけるのを止めた後も、才沼は、フィルターの底からポツリポツリと落ちる滴を眺めている。
「毎朝こうしながら一日のことを考えるんだ。若いころは、そんな心の余裕もなく、ただ忙しく朝を過ごしていたからね。」
「素敵な時間ですね。」
「うん、大切な時間だよ。」
才沼は何かを思い出し、過去に浸っているように見えた。
「さあ、いつまでも見ていたら、せっかくコーヒーが冷めてしまうな。飲むときの理想の温度は覚えているかな?」
「確か・・・70度ほどだったかと。」
「ああ、正解だ。ほら、飲んでみなさい。」
才沼は、サーバーからカップにコーヒーを注いだ。白く輝く器の底はすぐに見えなくなり、覗き込むと黒い水面に自分の顔が映る。ヒシギはゆっくりとカップに口を付けた。熱いコーヒーが唇に染みこむように、少しずつ口に流れてきた。口の中に広がる苦味と酸味。カラメルなど焦がした物を食べた後に残る、下の奥の方で感じる特有のえぐ味。来週に控えたプレゼンの確認の途中で呼ばれ、何度も聞いた話を初めて聞くかのように聞きながら何十分と作業をした後の産物。
「なんだか・・・いつものコーヒーより、飲みやすく思います。香りも、とてもいいですね。」
「うんうん。自分で入れると違う物だよな。」
才沼も、コーヒーを口に含んだ。
「うん、やっぱり少し焙煎し過ぎたかもな。ははは。」
片づけを手伝った後、部屋を後にするヒシギ。大きく深呼吸をした。階段を下り、自分の部署のある部屋に入る。
「戻りました。」
「お疲れ。広報の三浦さんから内線あって、来週のプレゼン関係のことで話聞きたいって言うから、4時半くらいに、内線入れて。」
「はい。ありがとうございます。」
ヒシギは、自分のデスクの上の冷えたお茶が半分ほどの残っているカップを持って水道に向かった。飲み残しのお茶を捨てると、水ですすぎ、紅茶のティーバッグを入れ、電気ケトルのお湯をなみなみと注いだ。