松賀騒動異聞 第十一章
第十一章
その晩、こんな夢を見た。
遠くで鐘の音がしている。
一人の侍が縁側に座り、暮れて行く空を眺めている。
かなりの老齢らしく、その背中はすこし丸まっている。
季節は秋であろうか、庭には黄色い落葉が舞い落ちている。
その男の妻であろうか、一人の婦人がお茶を運んできて、そっと男の傍らに置き、静かに去って行った。
男はすっと手を差し伸べ、湯呑みを両手で抱えるように口元に運び、少し飲んで、元のところに戻した。
男は再び、夕陽で紅く染まった空を眺める。
父上、わたくしの一生はこんなもので良かったのでしょうか。
男は心の内で、父に語りかけていた。
わたくしは小さい頃から先代の殿様に仕え、懸命にご奉公を致してまいりました。
禄高も過分に戴き、今、このように静かに人生の幕を引こうと思っております。
医者は何も申しませんが、表情から察するに、わたくしの人生は残り半年といったところでしょう。
子供の伊織も三十の坂を過ぎました。
このところ、父親のわたくしから申し上げるのも息子自慢と思われて嫌でございますが、なかなか気の利く男になりました。
殿様に仕え、一生懸命ご奉公に励んでいるようでございます。
ただ、気懸りは伊織に子供が出来ぬことだけでございます。
こればかりは致し方もございません。
この頃は、今の殿様もたいそうお気にかけて戴き、いろいろと養子のことなど仰せられております。
ありがたいことだと思っております。
殿様のご恩を思う時、わたくしから伊織にかねがね申し聞かせておりますことは殿様と進退を同じくせよということでございます。
その点でわたくしは間違えました。
先代の殿様が卒去なされた際、わたくしは綺麗に身を引くべきでございました。
退隠して、お殿様の菩提を日々心安らかに弔うべきでございました。
そうは思いましたが、嫡子であらせられた今の殿様が幼少でございましたので、今暫くご成人あそばされますまでは、と思いながら、そのままお側に仕えてしまいました。
これは、わたくしのあやまちでございました。
侍にとって、仕える殿様はお一人でなければなりませぬ。
風が吹いてきたようでございます。
庭の松の梢から風の音が聞こえてまいります。
父上にお尋ねしたき儀がございます。
それは、本人のわたくしには判らぬことでございます。
父上はわたくしの側に居て、これまでいつもわたくしを見守って下さいました。
その父上にお尋ね致したいことは。
わたくしは果たして領民を幸せにしたか、ということでございます。
先代のお殿様、今のお殿様におかれてましても、まことに過分なお言葉でわたくしを誉めて下さいました。
これはまことにありがたいお言葉と思っております。
しかし、わたくしは厳しくご自分を律せられた父上からお言葉を戴きたいと思っております。
もうじき、わたくしもこの世を去り、父上のところにまいります。
その時、わたくしという存在が領民の幸せに少しでも役に立った存在であったのか、残念ながらそうではなかったのか、お言葉を戴きたいと思っております。
これが今のわたくしの心を捉えて去らないところでございます。
侍はそのように思いながら、暫く茫然と空を見ていた。
空はすっかり暮れ、宵の明星が輝きを増していた。
「木幡さん、もう少し暖かくなったら、鎌倉の光明寺に行きませんか。そう、桜の頃がいいかも知れませんね。本当に、松賀族之助がそこに眠っているかどうか、確かめたくはありませんか。本当の逆賊・逆臣であれば、内藤家の墓所の中にはその墓は無いでしょうね。墓があれば、史書が語る族之助悪人説はどうも後世の人による捏造伝説ということにもなるでしょうから。どうです、一緒に確かめに行きませんか」
小泉さんの眼は少年の眼のように輝いて見えた。
ええ、行きましょう、行きましょうと私も元気よく小泉さんに同意した。
「小泉さん。内藤治部左衛門という名前は史書によく出てきますね。祖父は初代藩主・政長の子供ということでまさに内藤一族です」
私が言うと、小泉さんは早速自分のノートを持って来て、開きながら語り始めた。
「政長には四男十二女ありと史書には記録されております。四男というのは、長男の忠興、二代目の藩主となる忠興ですね、次男の政次は早世、三男の政重が家臣となり、治部左衛門の先祖となります。そして、四男の政晴は二万石を与えられ、泉藩の初代藩主となります。早世した次男の政次はともかくとして、三男の政重が家臣に下った理由は判りません。ただ、政重も若死にというか、夭折しています。記録に依れば、寛永十年(一六三三)、右馬助・政重卒去享年二十歳とあり、家臣で二千石を与えられていたと記載されています。政重死去の際の関係者の年齢を言うと、父の政長は六十六歳、長兄の忠興が三十二歳、下の弟の政晴は八歳の子供です。忠興の長男、義概は十五歳、次男の義興は十三歳、三男の政亮は九歳です。全て、政重から見たら甥ですね。義概は三代藩主となり、義興は後年二十九歳で夭折し、政亮は後年四十六歳で湯長谷藩一万石の初代藩主となります。さて、政重は二千石を貰っていましたが、二十歳で死にました。その後、内藤という姓の家臣は、忠興時代の家臣録には四百石・内藤伊織という名前を見つけることが出来ます。義概時代で、松賀族之助組の名簿で六百五十石・内藤平内左衛門の名前があります。義孝・義稠時代の家臣録は見たことがありませんが、史書の記録では、内藤平内左衛門政種が殿様の御名代として太刀目録を献上したとか、元禄十二年に内藤治部左衛門が三百石加増され、千石となって家老となったとか、元禄十六年に治部左衛門が組頭になったとか、享保二年に治部左衛門の嫡子の内藤玄蕃に新知二百石が与えられ、次男の内藤丹下が十人扶持で近習見習となったとか、松賀騒動の直前には、治部左衛門政種が松賀伊織稠次と共に、政樹の家督相続のお礼に付き添って参上したとか、松賀騒動では義英の意向に基づき、クーデターの中心的役割を演じ、治部左衛門政種は隠居して自得軒と改名したとか、の記載がありますが、この治部左衛門は享保九年(一七二四年)に病死しています。その後、治部左衛門として史書に登場するのは、享保十一年(一七二六年)に治部左衛門に五百石の加増があったとか、元文百姓一揆では悪役を演じ、翌年元文四年(一七三九年)、隠居願を出したが、聞き届けられなかったとか、寛保三年(一七四三年)治部左衛門が隠居し、隠居料として二百石、嫡子の平内左衛門は二千石で家老・組頭を相続したとか、延岡移封後の寛延二年(一七四九年)に治部左衛門が病死したとの記録があります。家臣録としては政樹時代の延岡移封後で、二千石・家老組頭・内藤主税、治部左衛門とも称していたが、外、三百石・内藤全稀という名前を見つけることが出来ます」
纏めるとこんな風になります、と小泉さんはノートに書いて私に見せた。
内藤治部左衛門家の家系:三人の治部左衛門が居る
内藤政重(二千石)
内藤伊織(四百石)
【松賀騒動で主導的役割】政重の孫とされる
内藤平内左衛門政種(六百五十石から千石)→治部左衛門政種(二千石)→内藤自得軒(隠居料二百石) (一七二四年に病死)
【元文百姓一揆で主導的役割】自得軒の嫡子
内藤玄蕃→内藤治部左衛門(二千石)→内藤全稀(隠居料三百石)(一七四九年に病死)
【磐城平から延岡への移封時】全稀の嫡子
内藤平内左衛門(二千石)→内藤治部左衛門/主税(二千石)
「元文百姓一揆で悪名高い治部左衛門は弟の内藤丹下、改名して舎人ですか、と共に百姓から指弾されていますね。藩主の子孫であると云う特権意識を感じさせる男ですね」
「彼は百姓を働く生き物だと本当に思っているような男ですね。搾れば搾るほど、年貢が出てくるのだと云う意識に凝り固まった男のような感じを持たせますね。生来の藩の高級官僚といったところでしょうか」
小泉さんは苦そうにコーヒーを飲んだ。
「木幡さん。当時の磐城平藩の借金総額は四万両に膨らんでいたらしいですね。一両を十万円と見たら、四万両は四十億円ですか。利子がどの程度であったか、私は浅学で知りませんが、仮に一割としても年に四億円ですか。常態的に経済が困窮している藩としては利払いも大変ですね。何かの本で、磐城平藩は当初は比較的裕福な藩で恒常的に年に二千両程度は蓄財出来たはずだと云うことを見た記憶があるんですが。やはり、幕府から課せられるお手伝い普請、上納金、天変地異による自然災害による年貢の減収などがじわじわと藩経済を圧迫していたのでしょうな」
「それに、小泉さん、藩主及び藩主一族の浪費癖もかなりのものになっていたんじゃないでしょうか。特に、義英はこの時代きっての文化人であり、いろいろと文化事業及び自分の趣味にお金を使っていたのではないでしょうか。息子の政樹もかなりの文化人で父同様俳諧の道にも明るかったんですが、政樹の場合はこれに算学の趣味もありました。特異な趣味と云うか、政樹の場合は殿様芸を越えたレベルであったらしいです」
「そう言えば、算学の巧者・名人を何人扶持かで抱えたとか云う史書の記録も見たことがありますよ」
「二代目藩主・忠興のように新田開発とか殖産の活性化に力を注ぐ藩主ならば、このように借財が嵩む藩にはなっていないはずですが、あいにく、忠興に対する息子としての反撥もあったのか、義概以降の藩主はどちらかと言えば、文化・文芸趣味に走った嫌いがありますね」
「そうとう、藩経済を圧迫したのではないでしょうか。政樹関連の記述を見ていたら、参勤交代で江戸から国元に帰る際、政樹は結構風邪を引いたり病気になったりして、国元への出発を延期したという記事をやたら見ました。一瞬、江戸を去るのが嫌で、都度、仮病を使ったのかと思いましたよ」
「木幡さんもなかなか辛辣ですなあ。でも、それはありうることかも知れません。なにも、きっかり江戸に一年、磐城に一年居る必要は無いのですから。江戸に一年半居て、磐城に半年でも良いわけですから」
「とにかく、義英を始めとした風流三昧の暮らし、江戸での華美に流れる暮らし振りが次第々々に藩経済を疲弊させていったのでしょう」
「時に、木幡さん、余計な心配ですが、ご自分の経済状況は如何ですか」
小泉さんが笑いながら私に訊ねてきた。
「美智子先輩が心配しているんですか」
私が逆に尋ねると、小泉さんは図星をつかれたかのように苦笑しながら言った。
「うちの美智子は少し心配症でしてね。人のお財布までつい心配をしてしまうんですよ」
雅子さんのこともあるのかな、と思った。
もし、私が雅子さんと結婚するようなこととなって、果たして雅子さんに経済的な苦労をかけずにやっていけるのか、心配している様子が見てとれた。
「まあ、磐城平藩のような借金経営はやっておりませんから、ご安心下さい。現在のところは無借金経営で、無収入ながらも何とかやっていけますから」
「うちの大蔵大臣、いや今は財務大臣ですか、財務大臣に言っておきますよ。余計な心配はするな、と」
「元文百姓一揆は貧窮を極めた藩の経済を領民に対する追加課税で対応しようとしたことに端を発した百姓総決起でしたが、松賀騒動は、隗より始めよとばかり、江戸・磐城に緊縮財政を敷き、先ず藩士たちから襟を正そうとした松賀伊織・島田理助たちの改革運動を潰した藩守旧派の巻き返しと僕は見ているのですが、小泉さんのご意見は如何ですか」
「さて、漸く本題に入って来ました。松賀騒動に入りましょう」
美智子さんが小泉さんと私のところに、コーヒーを運んで来た。
「木幡さんの言う通り、私も基本的にはそう思っています。キーマンとしては、島田理助ですね。理助は小姓騒動で命を落とした雨野彦右衛門の息子とされています。これも、本当かどうか、判りません。捏造されたお話に過ぎないかも知れません。理助の後ろには松賀族之助の息子である伊織が居ます。ああ、失礼、伊織では無く、隠居後は改名して正元と名乗っていますね。伊織という名前は養子である織部稠次に名乗らせています。どうもこの時代は前にも述べたように、治部左衛門は三人居ますし、親の名前を代々名乗って行くというのがむしろ当たり前でしたから、史書を読む場合は特に注意しなければなりませんね。さて、伊織こと、改名して正元は義孝死後二年後の四十六歳で早々と隠居してしまいます。隠居して正元という名前になりました。そして、昔は退隠した家老あたりには隠居料が終生与えられるのですね。今風に言えば、老齢年金でしょうかね。族之助は千石貰っていましたが、正元はたしか、五百石貰っていたはずです。一石を今の米価で換算すれば、大体四万円程度だと思いますので、五公五民として二百五十石の手取りとなり、一千万程度の年収となりますか。なんか少し安いような気もしますが。まあ、それはともかく、百石あたりが侍の平均であった時代の五百石ですから、それはまあ、豪気な隠居料であったのでしょう。正元は隠居して始めは町人みたいにのんびりと暮らしていましたが、暫くすると、誰か名前は失念しましたが、元老中のお殿様から磐城平藩が経済的に苦境に陥っていると聞いている、隠居しているお前に言うのも何だが、一つ男気を出して智慧を授けてやったらどうだ、と忠告され、それではとばかり、藩の御勝手方、今風に言えば、金融財務関係特別顧問あたりの役職に返り咲いたということです。そして、正元が父の族之助の施策を参考にしていろいろと改善案を示し、伊織と理助が実行部隊の長として藩全体を巻き込んだ藩財政改革運動を始めていったのでしょう。当初は、改革の痛みを藩士全員で分かちあおうという伊織と理助の熱気に煽られて藩士たちもヤル気になったことでしょうが、長年怠惰に流れた習性は如何ともし難く、藩士たちもガチガチの緊縮財政に段々嫌気がさしてきたのかも知れません。特に、藩の上層部ほど、この緊縮財政が憂鬱になってきたのかも知れません。考えは分かるが、なにも、そこまで徹底する必要はないんじゃない、という、言わば総論賛成・各論反対という風潮になってきたのかも知れません。伊織・理助はこの中だるみに危機感を募らせ、全員を集め、再度徹底するために、全員に誓詞・血判を求め、初心に帰れとばかり、立て直しを図りました。しかし、隠密裡に伊織・理助打倒のクーデター計画は練られていました。クーデターの首謀者は誰だったかは判然としませんが、彼は藩主・政樹の父である義英を味方につけることに成功しました。或いは、義英自身がクーデターの黒幕であったかも知れません。松賀憎しの思いを一日も忘れたことは無かったと思います。何と言っても、自分の藩主就任を妨害した張本人の松賀族之助は死んでしまったものの、息子の正元たち松賀派がまだ藩の実権を握っている現状は義英にとっては到底容認出来るものでは無かったと思います。まして、今までは冷や飯を食わされていた自分は図らずも藩主の父親ということで俄かにスポットライトを浴びることになったのですから、自分を万能の神のようにも思えたことでしょう。今まで自分を敬して遠ざけていた者がこぞって自分のご機嫌伺いに来るといった状況は限りなく嬉しく喜びに満ちた状況でありました。義英たちは松賀派に狙いを定め、力一杯弓を引き絞り、そして矢を放ちました」
「小泉さんのおっしゃる通りだと思いますよ。武士たちは戦の無い時代には身分の上下はあるにしても藩の官僚となります。官僚に取って、厳しい監督者はいらないのです。藩の高級官僚にとって、名君はいらないのです。会社も同じで、自分たちに温かい上司を歓迎するものです。その上司が会社のために本当になる人かどうかは関係なく、自分に温かい人をつい歓迎してしまうものです。そして、隗より始めよとばかり、厳しく自分たちを規制するシステムには猛然と抵抗することとなります。小泉首相の言葉ではありませんが、意識して、或いは無意識に抵抗勢力となってしまうものなのです。その中心に、強大な実権を握った義英が居た、ということでしょう。誰も逆らえない存在となっていました」
大須賀次郎筠軒著「磐城史料」から
按に松賀族之助、名を泰閭と云い、号を紫塵という、主君義泰に世子の下野守義英を讒し、其子の大蔵をして嗣たらしめ、主家を奪うを謀る、事呂不韋に同じ、其心術の凶悪なる彼の如く、而して外に忠義を粧い、諸士を籠絡する盖し一朝一夕に非ざるなり、元禄十年上梓の熱海紀行を読むに、(元禄九年二月二十三日、泰閭夫人を奉じ、熱海に遊浴せしことを、岩城の儒官宮正葩なるものの筆記せしなり)泰閭の詩歌を載す、其中に、「鎌倉光明寺にいたりて、人々花をささげ、水をたむけ、こころこころのあるか中に、我はかく十とせの春秋をおくりなして、世にふることは本意なく、かつはおもてふせらるる心ちして、人なみに我も手向の花の露、何ぞと問わばなにとこたえん。其夜浅枕のいそぐ心となく、たえずや苔のと、よませし言の葉も身にしみ悲しくて、松の嵐浪のひびきにうちてねず、身はうき雲のたつ空もなき、と見ゆ正葩其下に書して曰く、貴丈拝風山先公之廟。詠倭歌。其言流出於無妄肺腑中。云々、又貴丈故公に純臣の法、人倫の師表とするにたれりと、嗚呼族の虚飾、当時の儒宦を感動せしむる是の如し、又貞享二年九月、岩城著名の神祠へ、泰閭より願書を捧げしものあり、其中に太守義泰朝臣。一朝忽易簀。悲夫。世子義孝君未壮。臣泰閭以尫弱之才。或為股肱。或為爪牙。而欲追程杆之忠志。仰冀神鑒暗照。而擁護世子之踵武。とあり、大奸忠に似たりと謂うべし、又石森観音に、貞享五年五月の鰐口あり、依松賀氏泰閭立願片山氏重章寄進之と刻せり、其黨與の多きも、亦以て見るべし、族の逆謀彼の如く、而して牖下に老死するを得しは幸なり、然も其子伊織、主君政樹を毒殺せんとするに及び、陰謀悉く露れ一家亡滅し、長く不祀の鬼と為る、天道の昭々たる終に掩うべからざるなり、
【現代語訳】( )は筆者注
松賀族之助、名を泰閭と云い、俳号を紫塵という。主君義泰(義概のこと)に世子である下野守義英を讒言し、実子の大蔵を世子にして主家を簒奪することを謀った。
その事は中国の呂不韋と同じことである。人の心を自由自在に操るという凶悪さにおいては呂不韋と全く同じであるが、外見は忠義の士を装い、全ての侍を籠絡したことは一朝一夕に出来るものでは無かった。
元禄十年に出版された熱海紀行を読むと、[元禄九年二月二十三日、泰閭が四代藩主義孝の夫人のお供をして、熱海に湯治に行った際の出来事を岩城の儒官・宮正葩という者が書き記した書物であるが]泰閭が作った詩歌を掲載している。
その中に、『鎌倉光明寺をお参りして、同行した人々が墓前に花を捧げたり、水を手向けたりして、思い思いに故人を偲んでいました。わたくしは義概様が亡くなってからこの十年という年月を送ってきましたが、この世に長く生きることはわたくしの本意では無く、生きながらえていること自体を恥ずかしいと思う心持ちになり、人並みにわたくしも手向けの花の露と同じで、涙を流しました。人にどうしたのかと問われれば、さあどのように答えましょうか。その夜、眠りも浅いままに詠んだ歌なぞも身に沁みてもの悲しく思われました。松の嵐 浪のひびきに うちてねず 身はうき雲の たつ空もなき(松の嵐、波の響きで心が騒ぎ、眠ることが出来ませんでした。身はふわふわと浮くようであり、雲が立つ空も無いような心持ちでありました)』泰閭のそのような文と歌を見た宮正葩はその文章の後にこのように記した。
貴丈拝風山先公之廟 泰閭殿が先の殿様、内藤風山様の廟にお参りし
詠倭歌 歌を詠んだ
其言流出於無妄肺腑中 その言葉に偽りは無く、読む人の肺腑をえぐる
云々と続き、また、貴丈故公に純臣の法、人倫の師表とするにたれり(泰閭殿の先公に対する臣下としての忠義振りは全ての人が為すべき道の師となるに十分である)とまで書いている。ああ、何と言う松賀族之助の虚飾であることか。当時の儒官をこのように感動させるとは。また、貞享二年九月に岩城で有名な神社に泰閭が捧げた願書がある。その中に次のような文がある。
太守義泰朝臣 磐城平の殿様である義泰様は
一朝忽易簀 突然この世を去られた
悲夫 わたくしはそのことを悲しみます
世子義孝君未壮 御世継である義孝様は未だ幼く
臣泰閭以尫弱之才 臣下であるわたくし泰閭も浅学非才の身ではありますが
或為股肱 義孝様の股肱の臣となり
或為爪牙 或る時は、爪牙となって
而欲追程杆之忠志 忠義の志を示したいと思っております
仰冀神鑒暗照 何卒、神様のお力を以て暗きところを照らし
而擁護世子之踵武 世子義孝様の尚武をお助け下さい
という文である。大奸は忠に似たり、と言うべきであろうか。また、石森観音に、貞享五年五月に寄進した鰐口がある。それには、依松賀氏泰閭立願片山氏重章寄進之(松賀泰閭の立願に基づき、片山重章がこれを寄進する)と刻まれている。寄進した神與も数多く残されている。松賀族之助の逆謀はこのようなものであった。そして、江戸で老衰で死んだことは幸いであった。その子の伊織が主君の政樹を毒殺しようとして、陰謀がことごとく露見し、松賀家は断絶し、永遠に子孫に祭られない不祀の鬼となってしまった。天網恢恢疎にして漏らさず、ということであろうか。
松賀一族滅亡
松賀族之助の子伊織、相襲て家老たり、(元禄十一年の頃は、泰閭の子伊織も、既に老臣に列せしと見え、下小川村二股八幡祠の棟札に、老臣松賀族之助藤原泰閭、松賀伊織藤原孝興と、一列に記しあり)家を養子に譲り、伊織を名のらせ、自身は正元に改む、享保四年正月八日、(猪狩氏筆記には四年を三年に作る)正元饅頭を民部に献ず、民部其色の常に異るを怪み、之を犬に與う、犬即死す、大に驚き、穂鷹吉兵衛久行を召し、之を見せしめ、急に使を馳せ、國家老内藤治部左衛門等を江戸に召し、正元伊織父子を捕う、
二月四日、網乗物にて、之を岩城に下す、島田利助等、松賀一味の者を併せ、或は斬に処し、或は切腹を命ぜられ、一族盡く亡滅せり(黒木茂雅覚書)
【現代語訳】
松賀族之助の子、伊織は族之助に続き家老となった。[元禄十一年の頃は、泰閭の子、伊織も既に老臣(家老とか年寄りといった藩重役)に昇格していたと思われ、下小川村・二股の八幡神社の棟札に、老臣松賀族之助藤原泰閭、松賀伊織藤原孝興というように一列に記載されている]そして、伊織は家督を養子(織部稠次のこと)に譲り、伊織を名乗らせて、自分は正元という名前に改名した。享保四年正月八日、[猪狩氏筆記では四年が三年になっている]正元が殿様の民部(豊松のこと。後の政樹)に饅頭を献上した。民部は饅頭の色がいつもの色と違っていることに気付き、怪しいと思い、この饅頭を犬に与えてみた。食べた犬が即死した。大いに驚いて、穂鷹吉兵衛久行を呼んで、この様子を見せた後で、急使を国許に派遣して、国家老の内藤治部左衛門たちを江戸に呼び、正元・伊織父子を捕えさせた。二月四日、網を被せた駕籠で松賀父子を岩城に護送させた。そして、島田利助(理助)たち、松賀一派の者たちを纏めて、死罪に処したり、切腹を命じたりして、松賀一族はここにことごとく滅亡した。[黒木茂雅覚書]
平市史編集委員会「概説 平市史」から
藩史料から見た騒動記
藩史料には享保三年十一月十四日から、その経過が述べられている。
(注記 現代語訳は割愛する。内容としては、後述する松賀治逆記を簡略に纏めたものであり、現代語訳に関しては、そちらをお読み下さい)
享保三年十一月十四日
松賀伊織俄に岩城へ下着、堀、島田は杉平屋敷へ行伺い対面数刻に及ぶ。遠方役人共明朝早々平へ罷出べき旨夜中飛脚を以て触渡し、御城内外の役人は残らず十五日朝、杉平屋敷へ罷出べき由、早天に触渡とあって、何事か起ったと思われる、あわただしさである。
十一月十五日
諸役人巳の刻より杉平屋敷へ参伺、堀主馬、島田理助出座、諸役人へ此度伊織殿御用にて御下り候、只今迄諸役所勤方宜しからず此度は御用捨成され候、向後急度相勤申渡し銘々役所勤方前書一通づつ、これを渡し大目付曽根忠左衛門立会神文血判見届けしむ。
十一月十八日
松賀伊織御用済出府
同日、高月様(義英・露沾)より松賀父子段々奢増長致し御家御為に罷り成らず候に付御書付を以て御尋成され候儀これ有り候間、治部左衛門、刑部主馬、兵右衛門、大蔵出府致すべき旨仰付けられ、又家事の諸士を各其頭宅に召し御書付拝見の上、何れも神文仕べき旨仰付らる。
御書付
備後守(政樹)家督以後別而正元・伊織軽上丹波守殿(内藤政長の孫内藤政親二代目の泉藩主、内藤政森)、主殿頭殿(忠興の子内藤政亮初代湯長谷藩主、内藤政貞)を欺き我意を振廻家中領内の仕置猥成儀候得共、備後守家督の砌故其儘差置候処段々奢恣成儀増長家危有之家中の諸士所存も備後守為に難成儀、正元父子如唯今難差置旨相聞候家中の者共迄相嘆候様仕候儀不忠の至此存念可申聞事
一、伊織先達而岩城え罷下候節我等備後守を父子の間(義英の子は政樹)に候間早速罷越備後守機嫌の程も具に申聞我等機嫌も伺可申処無其儀罷立候前日一度罷出候義不届の至候、此段可申訳事
二、光安院(義孝夫人)並政姫(義稠の妹)逢類焼上屋敷へ立退候節用部屋をしつらい光安院居所に致し政姫事引放し端近き長屋に差置候由、伊織居所長屋間数も多幸成事に候間早速明け候而右両人可差置処右の通に仕候段畢竟軽上候心底に而可為如此候此義可申訳事
神文前書
松賀正元同伊織段々奢恣成義共有之御家危く只今迄の通り差置候而は不罷成義は御家中存旨相聞候、下野様も父子罪科御糾明被遊候由忠義に御座候得ば私共一統仕度各様迄連判如此御座候 以上
とあって、内藤下野守義英が中心となって、松賀父子の謀逆を摘発したものである。
享保四年正月二十三日
国家老以下の重臣が、松賀父子謀逆の報を知り、急ぎ江戸に上った。次の史料から判断すれば、正月八日に松賀正元が備後守に毒饅頭を献じて毒殺せんとしたという磐城史料の説は事実であったと思われるのである。
即ち、家老内藤治部左衛門以下十数名の重臣御上屋敷へ着、治部左衛門、刑部主馬直に安藤三郎兵衛長屋に行伺申合することあり、安藤大に驚き早速同道にて御前へ出る。夫れより松賀伊織方へ安藤三郎兵衛手紙にて岩城に於て大変これ有り治部左衛門外大勢罷登られ候。早々罷出候様申遣す、伊織早速罷出候処、溜の間に於て治部左衛門、高月様思召しこれ有り御使として罷登候御大法に候間腰の物相渡さるべき旨申渡す。 伊織腰の物渡候ては一分相立申さずと申候えども谷口安右衛門進出てこれを受取る。治部左衛門下野様御意見申渡候様致すべく候えども歯抜け言語訳らず候間主馬申渡すべくとの由にて主馬御意の趣申渡し且又御尋の御書付を渡し此分申聞くべしとなり然れども一言の申訳これ無し、谷口安右衛門、塚本運平引き立て先づ坊主部屋へ押込め暮に及んで長屋へ移す、又正元屋敷芝新細町へも伊織同様手紙を以て足軽八人に若し正元遅滞に及び候わば召捕るべき旨申含め差遣す正元何心無く手紙を披見大きに驚き早速駕籠に乗罷出る、御台子の間に於て治部左衛門高月様思召これあり御使として罷登候御大法に候間腰の物渡さるべき旨申渡す正元子細無く腰の物差出す半田新左衛門これを受取る。主馬、下野様御意の趣申渡し且又御尋の御書付を渡す。正元申候は我等事風山様(義泰)御意に久玄院様(義孝)御弟分に仰付られ候間家督致候わば御仕置存念の通り致すべく候段仰置かれ候久玄院様御遠行の砌我等果候わば早々隠居仕安楽に罷在るべき旨仰置かれ候早速隠居仕身持町人同前に罷成候間行跡の処は御用捨これ有るべき事と存候其上隠居の事故近年御仕置に一切構わず罷在候処に去春中より御勝手御不如意に付相模守様より達て御頼成され候故万端伊織へ差図仕候迄に御座候身に敢て不忠節の覚これ無しとの事に付先づ高月様御意の趣御請致され追て御書付御不審の条々申聞かるべき旨申聞候得ば正元畏て御請仕る半田新左衛門、岡村宇太夫引き立て表長屋へ押込
松賀正元へ
其方儀在役中より甚奢不勤の事共隠居以後も恣成不埒有之候に付御為に不成段在所家中の者一同血判を以申達下野守様にも其思召に不被為叶段被仰出候に付隠居料被召上於御在所蟄居被仰付候
松賀伊織へ
其方儀平生御用伺重役人共は不致熟談恣成仕方依之在役にて御為に不成儀且又養父正元在役中より段々奢不勤隠居後も不埒成儀共旁以御為に不為候段在所家中一同血判を以申達下野守様にも甚思召に不被為叶候段被仰出候に付役儀知行被召放蟄居被仰付候同、日夕内藤丹波守様、内藤主殿頭様御屋敷へ被為入右の趣聞及ばれ御驚成され候て我等事備後守殿御後見致候事故大小事共に申聞べき筈に候殊更け様の儀早々知らせ差図をも受くべき事と申され重て丹波守様もはや此方は別儀これ無く候間刑部兵右衛門は明日早々岩城へ罷下り御在所取静め申べき由申され候両人畏り在候わば此度の儀御聞届遊ばされ候段御両所様御墨付頂戴致し罷下り家中の者共安堵致させ度旨申上候処尤の由とて丹波守様御自筆にて左の御書付一通両人へ給わる御書付
松賀伊織父子不届者に付今迄の通にては備後守殿御為に不相成殿何れも一同以血判申出候儀備後守殿御聞届被成候。我等も承知申候家中一同御為を存候段尤に思召我等も同意に候何分にも何れもの可任所存候旨を備後守殿へも申達事に候間左様可被相心得候
以上
享保四亥正月二十三日
内藤主殿頭(湯長谷藩主 内藤政亮? 内藤政貞では)
内藤丹波守(泉藩主 内藤政親? 内藤政森では)
岩城一同惣家中へ
以上の史料の示す通り、松賀父子は謀逆は高月に隠遁中の内藤義英(露沾)によって摘発され、親族に当る湯長谷藩主内藤政亮、泉藩主内藤政親によって蟄居、謹慎を命ぜられたのである。
正月二十八日
穂鷹刑部、加藤兵右衛門等岩城へ下着、丹波守様、主殿頭様よりの御書付を番頭物頭へ渡し惣家中に順達す
正月晦日
正元父子岩城へ御下し網掛駕籠にて士分十五人徒士八人足軽二十一人差添う
二月四日
正元父子岩城着、桜町牢舎へ移し昼夜侍番十二人づつ三十六人にて三番にこれを勤む内物頭二人軍使二人其外足軽昼夜十人づつ勤番
二月十七日
片山善右衛門、松賀及び島田へ無二の随身に付逼塞(門を閉じ出入禁止)伯父片山紋右衛門従弟片山平蔵同片山忠兵衛遠慮仰付らる
二月二十七日
享保二年江戸御上屋敷御類焼に付御家中町在共寸志金上納仰付られ御家中は半分、町在は三分の二上納済にて残の分今度御用捨となる
三月六日
大目付小川半左衛門、正元父子罪科の御書付一巻杉平へ持参、伊織一類並に家来共へ読聞かせ松賀の家断絶、家財闕所仰付られ罷帰るべく家来共には面々の道具下され候間当屋敷引払早々退散仕るべき旨申渡す
三月十一日
井上平兵衛御目付勤務中松賀、島田が随身の事相知れ逼塞仰付らる
三月十八日
荒木内蔵助、正元と同姓ゆえ隠居仰付られ伜団右衛門へ新知百五十石下され苗字改候様仰付られ樋口と改む、荒木平太夫も同断伜大之進へ新知百五十石下され加藤と改む、平野新六、正元従弟の続に付遠慮、渡部喜三右衛門、伊織付きに付逼塞、川路九太夫、正元父子理助随身に付逼塞、本宮戸右衛門、志賀銀右衛門、平川荘七伊織付につき御暇、丹羽太衛門理助縁者の上随身に付遠慮、中根喜兵衛、理助へ荷担の筋これ有り逼塞、鈴木半六、福島合助、伊織取立につき逼塞、鈴木類右衛門、理助物書きにつき逼塞仰付らる
三月二十三日
江戸に於て松賀、島田へ一味の面々永の御暇下さる
三月二十七日
島田理助父子切腹、家来義兵衛、若党仙右衛門死罪仰付らる
島田理助へ被仰渡
松賀正元、伊織我意を恣に振御家危只今の通難立置の旨家中の諸士一統に申達下野守様御聞届の上公儀御届相済父子共に禁牢被仰付余類の者共科の軽重夫々被仰付候、其方儀父子を相進め張本人其罪不軽候猶又居所闕所囲炉裏の底物置の内埋隠候書き物出正元父子方にも其品々文通有之非士法儀顕重科至極候依之討首にも可被候得共御用捨を以切腹被仰付候伜源五右衛門儀親の罪不遁切腹被仰付候
若党仙右衛門は曲田川原にて打首三日曝し理助父子の死骸は島田惣三郎、山本権左衛門願に依りこれを下され大館村長興寺に葬る。是月御在所諸士血判誓紙を以て内藤治部左衛門、穂鷹刑部、堀主馬宛差上る。其の文に云う。
一、松賀正元、同伊織狭我意奉忘御厚恩を不忠不行跡に付御家老儀奉嘆候処下野守様被為聞召屈取鎮難有奉存候
一、此度一統の面々此以後不義不行跡奉忘御厚恩候儀御座候わば少科たりとも可被重奉存候。如何様にも可蒙其罪候事一統の面々此誓紙子孫に相伝志を不変忠義を励可申候。若連判の内不忠の者有之候わば急度言上仕以御威光取鎮可申事
右の通申合候上は日本大小の神祇違変仕間敷候 以上
享保四巳亥三月
松賀族之助牢死(?)
享保四年九月二十六日、松賀正元牢中にて病死す。去月中旬より腫気相煩い医者取替え治療仰付られ候処養生叶わず今日死去、五十一才、死骸片付の儀従弟平野惣右衛門、平野新六へ仰付けられ矢目付曽根忠左衛門立会、これを改め谷川瀬村真浄寺に葬る。金弐両下さる。
十月二十二日
穂鷹刑部、堀主馬御家老に成され弐百石づつ御加増下さる。
以上のように松賀正元の牢死によって、この騒動は解決した。
伝説的にのみ取扱われて来た「磐城騒動」は実在したことが明かであった。
一面、石城史の一頁に善行主義の勝利を教えているのである。(この稿鈴木光四郎調査史料より)
いわき地方史研究会編「いわきの歴史」から
磐城騒動:元禄の米(?、水か)損、旱損による減収、江戸在番の出費、家臣団の消費の増大により、家臣の減俸を行なった。特に享保三年(一七一八)の江戸屋敷の火災には、藩中の百姓に対して、田畑一石につき銭三百文、町屋敷一口について銭四百文、郷士五百文、郷足軽三百五十文、家中百石につき五両、十人扶持並びに切米六俵以上の者より、借り上げを行なうなど、藩財政は困難に当面した。しかし、領主は一切を重臣に委任していた。かくて、政治の実権が大家臣の手に握られた。松賀一族が藩政の中心となったのは、禄米制に切りかえた直後からであり、勢力を拡大していた松賀父子は、殿の側近に妻を侍らし、その子を内藤大蔵と命名し、お家相続をはかり、藩主政樹を毒殺せんとしたが成らず。族之助は捕えられて牢死し、城南谷川瀬の真浄寺に葬られた。