猫との出会い:シュヴァルツとヴァイス
どんよりと厚い雲が空を覆っている。
落ちてきた雨粒は次第に勢いを増してきた。
道沿いの木々も濡れ、地面は雨を吸い色を変える。
視界も悪くなり、急ごうと歩を進めていた女はふと立ち止まる。
小さな声が、聞こえた気がした。
にゃあ、と鳴いてみても助けは来ない。
発する声は弱々しくなり、傍らの弟はもう動かなくなってしまった。辛うじて息をしているのはわかるが、雨も降ってきたし時間の問題だろう。
魔物に襲われて、逃げ出せたはいいがこれでは助からない。
血の匂いは雨のおかげで遮断されているだろうが、捕食が先か衰弱が先かという順序の問題だけだ。
にゃぁ。
もう声も出せないかもしれない。
助けではなく捕食者が来るかもしれない。
死んでゆくのみだ。
死ぬというのが何なのかはわからないが、いなくなるということは理解している。兄弟にも会えなくなるのだろう。
力を振り絞って弟の体に密着する。
その時だった、頭上から柔らかな声が落ちてきたのは。
「生きてる?」
マントに包んだ生き物を家に連れて帰る。
濡れた毛を拭き取って、暖炉の前で温めながら治療する。
止血をし、様子を見、口の中に液状の薬を流し込む。
「大丈夫だからね」
少しでも楽になるように、手のひらで撫でながら魔力を流し込む。体の時間を速めて治癒能力を上げるのだ、負担にならない程度に。
今夜死ななければ大丈夫だろう。
白い方はほとんど動かなくなっていて、黒い方がそれを守るように寄り添っていた。
夜通し撫でていたが、撫ですぎたのだろうことは朝の太陽の光で知った。
「……大きくなってる気がする」
時間を速めたのがいけなかったか。
だが傷も塞がっているようだし、よしとするしかない。
眠る猫たちをそのままに、暖炉の火を消して食事を作ろうと立ち上がった。
薬草を混ぜた薄いスープを猫たちのために作り、自分にはそれよりも濃い目のスープ。硬いパンと、バターを用意してお茶を淹れる。
新鮮なミルクは町に行かねば手に入らないから、彼らにはとりあえず水とスープで我慢してもらうことにする。
暖炉の前に戻ると、毛布に埋もれたまま猫たちは眠っていた。
テーブルに器を置いてソファに座り、猫たちを眺めながら朝食を取る。
あとは猫たちの体力次第だ。目覚めればもう大丈夫。
「……大丈夫だとは、思うけど」
黒猫が目覚めたのは、夜だった。
毛布に包んだ二匹を膝に乗せて撫でていると黒い方がピクリと動いた。
「大丈夫よ。二人とも、もう大丈夫」
言い聞かせるように囁くと耳が動き鼻が動き、そしてゆっくりと目が開いた。
「……気分はどう?痛いところはない?」
毛布から出してやり、背中を撫でる。
「痛くない」
「は?」
期待していなかった返事があった。
猫が喋るはずがない。
返事をした黒猫も、目をぱちぱちとさせている。
お互いにきょとんとした顔で視線を合わせる。
「あなた、人間の言葉を話せるの?」
「そんなはず、ない」
「……そう」
顎の下を撫でてやるとゴロゴロと喉を鳴らして喜んだ。こういう仕草は猫そのものだが。
「猫、なのよね?」
「猫」
「ずっとこうしてお話しできるの?」
「できない。今、できた」
「……わたしのせいかな」
調合した薬と己の魔力が混じり合って良い影響だけを与えるわけではないことを知っていた。むしろ我が身で痛いほど自覚させられていた。
「話ができるの、辛い?」
「あなたが助けてくれた?」
「……そう言えると良いのだけれど。おかしなところはない?動いてみて」
少し体を動かした黒猫が軽やかに膝から飛び降り、部屋の隅まで駆けて行ってまた膝に戻って来る。
「おかしくない」
見上げてくる頭を撫でてから、少し微笑んだ。
「良かった」
「……話ができるの、良い」
すりすりと頭を寄せてくるのに、撫でて応える。
「弟も、大丈夫?」
「ああ、兄弟なの?目が覚めれば大丈夫、傷はもう塞がっているから」
「よかった。ありがとう」
白猫に顔を近づけて様子を見、目を細める。
「死ぬんだと思ってた」
「……」
白猫の横で丸くなる。
「生きてる」
「……」
撫でると心地好さそうに目を閉じた。
「もう少し、眠っていて良い。弟が起きたら、起こしてあげる。ここには危険はないから」
ソファで猫たちを抱いて転寝していると、もぞもぞと動くのが分かって目を開く。
黒猫がララを見ていた。
「まだ起きない」
「体力を消耗しているときは、たくさん眠らないと回復しないから」
「……そう」
白猫に毛づくろいをしようとして、止めて、ララを見る。
「大きくなった?」
「……ごめん」
「ごめん?」
「たぶんわたしの力の使い方のせい」
「良い。大きい方が良いし、喋れる方が良い」
「良い子」
頭を撫で、二匹をそっとソファに下ろしてから立ち上がる。
「お腹、減っていない?お水持って来るね」
少し待つように言い置いて、水とスープを持って部屋に戻ると黒猫が首を上げた。
「あ、弟が起き……っだめ!」
突然白いものが飛びかかってきた。
白猫か、と思ったが液体を持っている為避けられず、こぼさないように、トレイを傾けないようにするのが精いっぱいだった。
「だめ!」
黒猫が白猫に飛びかかって押さえつける。
「……どうしたの」
トレイをテーブルに置いて二匹に近づき、白猫の方が警戒心を露わにしているため床に膝をついて目線の位置を下げる。
「助けてくれた、もう大丈夫」
黒猫が必死に宥めようとしているのが分かる。
「にんげん!」
「うん、人間だけど、大丈夫」
白猫も話せるようになってしまっているようだ。
「おいで。わたしはあなたたちを傷つけない」
「……血が出てる」
「大丈夫」
手の甲を引っかかれたため皮膚に刻まれた爪痕に血が浮いている。
「おまえが傷つけたよ」
黒猫が白猫の頭を押さえた。
「……血、やだ」
白猫は赤い血を見た途端に脱力して、抗わない。
「おまえが爪でした」
言い聞かせる黒猫。
「……ごめんなさい」
素直な白猫のようだ。
混乱していたのだろう。無理もない。
「大丈夫。おいで」
黒猫が力を緩めると白猫が恐る恐る近づいてきた。
「いたい?」
「痛くない」
ぺろ。
ざらりとした舌が傷を舐める。横から黒猫も舐め始めた。
「しぬ?」
「これくらいじゃ死なない。わたしの薬は何でも治す」
大丈夫、と二匹の頭を撫でて引き離す。
「たすけてくれた、ありがとう」
白猫が上目遣いに言った。
「良いの。わたしもやりすぎた部分がある。できればしばらく様子を見たいのだけど、ここにいる?」
「いる」
「いいの?」
「良い。あなたたちの面倒を見る」
「かわいくしてる」
「ん?可愛く?」
「かわいくないといけない」
「……?」
白猫が言うが意味が分からず黒猫を見る。
「かわいくないから、殺される」
ため息をつき、二匹を撫でる。
「何もしなくてもかわいいから大丈夫。ずっとかわいい」
「お手伝いするから」
「うん。する」
「猫はお手伝いなんてできない」
「にんげんじゃないから?」
「そう、人間じゃないから」
「話せるようになったから、人間になれない?」
「……無理だと思う。話せる猫はいないから、ずっと面倒見る」
「ずっといっしょにいる?」
「そう。ずっと」
言葉を話す猫など外に出せるわけがない。捕まって、何をされることやら。
「にんげんになる」
「いや、なれない……って、ああ……」
「……なった」
「なったね」
「だいじょうぶ?」
「痛い?」
黒髪と白髪の青年が顔を覗き込んでくる。黒猫と白猫だったものたちだ。
「血を舐めたからか、そうか。血の契約か……」
頭を抱えるのを心配そうに見つめられて、首を振る。
「助けたつもりだったけど、巻き込んだみたい。悪いけど運命共同体としてずっと一緒に生きて」
「ずっと一緒にいる」
「うん」
「とりあえず猫になろうか。明日町に行って服を買おう」
猫たちは人間の体にすぐ慣れた。
眠るとき以外は人間の体で暮らしている。
いろいろと手伝ってくれるので助かってはいるが、人間としての知識に乏しいため最初から教えることの方が多い。
「シュヴァルツ」
「はい、ララ様」
黒猫はシュヴァルツと名前を付けた。従順で素直な性格だ、弟の面倒も見ている。
「ヴァイスと一緒に、おやつの時間」
「おやつ」
喜々として寄ってきたのは白猫のヴァイス。少しの警戒心をまだ持っているが人間全体に対する不信感だろう。
これから先の付き合いも長くなるのだし、気長に関係を育んでいけると良い。
特殊な魔力を持っているが故に、助けた動物と血の契約を結び、主従関係になってしまった魔女。
薬師として生計を立てているが、自身の体で実験をしているうちにいつの間にか体内の時間を止めてしまったらしかった。
長い時間を歩むのならば、猫たちが傍にいるのは心強い。
事情を知った猫がそれからも瀕死の動物を見つけてきては強引に治療をさせて仲間を増やしていくのは、魔女も計算外のことだった。