第五話
私は蓄積された空気を入れ替えようと窓に近づき、鍵に手をかけた。比較的小さなクレセント錠ではあるが、一部が錆び付いてしまい少し力を入れなければ開かないようになっている。
「開けないで」
近藤は早口で私を止めた。今までゆったりしていた調子が急に変わり、彼女の言うことを聞くのは癪であるが手を止めてしまった。
「何」
「聞かれるかもしれないでしょ?」
「ここは二階だけど」
「コンサイバーにあなたの常識が通用すると思うなら、変えた方がいいわねその前提」
私の怒りは、ついに制御値を超えた。
「いい加減にしろよ」
後ろを振り返り近藤を睨みながら、私は壁を殴った。木製の音と同時に苅田は飛び上がる。小さく家が振動する錯覚。
「へえ」
それでも尚私の机に座ったまま頬杖をつく彼女に、私は咄嗟の怒りに任せ自分でもあり得ないと思うほどの速度で掴みかかった。彼女が化け物のように強いとか、私の右腕が痛いとかはもう関係なかった。
「お、お……落ち着いて、戒さん」
苅田を無視し、私は猪のように走り始めた。
近藤は姿勢を変えることなく片手で私の左手を抑えこむ。反撃することを許さず、私はすぐに足で近藤の座る椅子を蹴った。調子を崩した近藤は片手を離し、机に手をついている。起き上がらせてたまるものか!
私は顔を下に向けている近藤の顔を、足の甲で思い切り蹴りあげた。
「戒さん!」
近藤が立ち上がると同時に額に入ったため、立ったまま後ろによろけている。苅田が止めにくる前に、私の一撃でこの女に思い知らせてやる。こいつの護衛なんか必要ないということを。
私は左腕に力を込め、横から大きく振り上げた。
「やんちゃな子ね」
よろけていた近藤は、その状態のまま私のことを見ずに刹那的に回避し、空振りとなった私の左腕を掴んで自分の腕と絡ませ、二回ほど回転したあと私の背中はいつも寝る時に感じるような布の肌触りを得ていた。
衝撃は負傷している右腕にも伝わり、思わず呻いた。
「いきなり殴りかかってきてどうしたの?」
私がもう暴れないことを見越したのか、近藤は私から離れて倒れた椅子を元に戻すと、再び座りながらそう尋ねてきた。
幸いにも母親に今の騒ぎは気づかれていないらしく、私は本音をばら撒いてやることにした。
「人の家に勝手に上がり込んで、与太話を聞かされて、お前の家じゃないってのに私に窓を開けるなと命令した。何様だ、お前」
そんなことか、クックックと彼女は笑みを漏らした。さっき額に攻撃を受けたはずなのに、何もなかったかのようだ。赤くはなっているが、本人はそれすら気づいてない様子だ。
「確かに命令口調だったのは私が悪いわね。ただ、まだ与太話って思ってるんだったら、戒ちゃんあなた、死ぬわよ」
「近藤さん、だからもう、あまり刺激しない方が」
近藤は手で苅田を制した。
「苅田君、あなたは信じられる? コンサイバーのこと」
頭の良いA組の苅田は、さすがの賢こさでも即答はできない様子であった。
「本当なら信じたくないですよ。ですが、見てしまったからには否定はできないんです。ただあの力は、もしかしたら最新技術を利用した筋力増幅装置みたいなのが入っていたかもしれませんし、断定的に判断はできません」
苅田の言うとおり、実際にそういう装置を見たことはないがあるかもしれないし、あの男は何らかの薬物をやっていて無駄に力が強かったとも言える。
私が苅田の意見に同調しようとして口を開きかけた時、間が悪くも玄関のチャイムが鳴った。一階にいる母が対応するだろうから、居留守を決め込むようにベッドの上から動かなかった。
………………。
………………。
室内に意味不明な沈黙が訪れた。チャイムの音がこの部屋の時間を止める合図だと言わんばかりに、誰も喋らなくなったのだ。不審に思い、私は体を起こした。
「どうした」
近藤から余裕が消えている。今は険しく、室内ドアの方向をただ見ているだけである。苅田は私と同じく、変わった雰囲気に困惑しているようであった。
「答えて」
「ちょっと、静かに」
「また――ん、んぐぐ」
近藤は私の口を手で塞いだ。力が強く、開放されたく片手で押し戻すが私の望み通りにはならない。諦めて大人しく進展を待った。
「苅田君。下の様子を見に行ってもらえるかしら」
「僕がですか? わかりました」
苅田の困惑は未だに続いているようではあったが、逆らうのはためらわれるようであり、素直に従っていた。何を察したのか苅田は静かに扉を開け、足音を大きく立てないように出て行った。
近藤が顔を近づけてきた。私はいつまで口を塞がれればいいのか。
「現代風に今の状況を言うなら、"やばい"かも」
近藤は耳打ちした。何がやばいのか、私は横目で彼女に問う。
「後で話そうと思ってたんだけど、コンサイバーは全世界的に指名手配されているのよ。彼らを殺すためのとある組織がいるんだけど、その組織は表に出てくることが一切ないから戒ちゃんは知らないでしょうね。多分、その組織がきちゃったかも」
ようやく近藤は私を自由に喋らせるようにしてくれた。肺が空気を求め、思い切り吸った後落ち着き、私も小声で近藤に質問した。
「なんでウチに。バレたのか」
コンサイバーもその組織も信じてはいないが、場の緊迫感やなかなか戻らない苅田を考え、茶番でないことを知り始めていた。
「惨殺死体があったのはこの辺よね。だから多分その聞き込みみたいなもの。コンサイバーっていうのはね、能力を使うと必ずその場に痕跡が残るようになっているから、それを見つけたんでしょうね。だから周辺にいる家にその組織が聞き込みをしている」
「なら、隠れる必要はないはず」
「いいから私の言うことを聞いて。お願い、戒ちゃん。後で全部説明するわ」
「……その呼び方やめろ」
きゃあああ――
母の声。一日に何度も聞きたくないような人間の叫び声が一階から聞こえた。
「戒ちゃんここで待ってて!」
緊迫感は頂点に達した。先ほどまでの貫禄はどこへ行ったのか、近藤は勢いよく部屋から飛び出していった。
「待てよ! 私も連れてけ!」
近藤の言うことは元から聞く気がなかった。私はベッドから飛び降り、近藤の後を追った。
玄関を汚している血は苅田のものでなければ母のでもなかった。多分、そこに倒れている、男性か女性かは分からない人間の血であろう。母は腰を抜かし、苅田は倒れている。意識を失っているのだ。頼りない。
「莢江さん、逃げなさい!」
近藤が母の肩を揺さぶるも、母は動じない。
私は母の視線の先を見てみた。つまり、玄関の外、扉の向こう側だ。
そこには見ず知らずの男がいた。両手を前に垂らして興奮気味に呼吸を荒くしている。返り血を浴びていて、目を見開いて、――男は私を見た。
「へ……へっへへ見つけた見つけたァ」
「戒ちゃん、二階に逃げてて! 早く!」
暴走気味に私は体をぶつけながら階段を駆け上がり、鍵のかかっていない父の部屋に入った。私の部屋は隠れる場所がないが、父の部屋だとそこかしこにある。箪笥の中だとすぐに気づかれてしまうかもしれない。なら、ベッドの下か。
「何だ、これは……?!」
私がしゃがもうとすると、地面が湿っていることに気づいた。怪しげに顔を近づけると、突然その染みのように広がるそれが膨らみ始め、なんと伸びているではないか。
脳が理解するのに時間を掛け、私は地面から伸びた紐のような細長い水に首を巻きつかれた。巻きつきながらも、その水は徐々に太くなりついには私の首を覆うマフラーになってしまった。
首から感じる滑りを帯びたそれは、地面にうつ伏せに倒れた私の足も捕らえ、身動きを取れなくさせてしまった。夢か? これは。
扉が開いた。
トチ狂った男が入ってきて、扉を閉めると、施錠した。
「誰だ、お前は誰だ!」
足と首にはナメクジに覆われているように気色悪い感覚が遅いかかる。男は私の質問には答えず、私の顔の前に座ると、ヘッヘヘヘ、と笑った。男の笑い声もまた気色の悪いもので、私は鳥肌を立てた。
「あの近藤とかいう女から聞かされてた通りだった……。さあ、戒とやら! 私の呪縛を解いてくれ。この忌々しい私の細胞を焼き消してくれたまえ!」
分からない分からない。この男は本当に日本語を喋っているのか? 私に何を求めている。
「何をしている、早く消せ! もしや、お前は戒じゃないのか、そんなはずはない」
体がひっくり返った。この男は一度も手を私に触れていないというのに。軽々しくひっくり返された。この水が私を操ったとでもいうのか。
「女だ……。なら、やっぱりお前は戒なはず。おい、何をしている! 早く使え! さもなければ殺す! 殺すゥうう」
男は狂乱している。
そんなに叫んで警察を呼ばれないだろうか。近所迷惑ではないだろうか。私は死を覚悟するつもりで目を閉じた。
「この細胞のせいで! 私は苦しんだ! 死ぬこともできず友を助けることもできず、誰もかも、ああ! ああああ――」
不意に男の声が止まった。私は目を閉じていたので、何があったのかは分からない。
いつの間にか男の背後にいた近藤が、男の首を掴んでいた。
「何をする、離せ離せ! 誰だ!」
「怖い思いさせてごめんなさいね戒ちゃん。すぐに終わらせるから」
「き、貴様近藤ォ! 私を裏切ったな! やはり都合の良い事なんてなかったんだ、運命は私をどこまで苦しめる気だ。もういい! 私以外の人間はしね! 同志もしね! 絶対許さんぞ!」
じたばたする男を掴み、近藤は冷静に一言告げた。
「お前は目的を見誤り過ぎている。人間に受けた仕打ちをそのまま人間に返すのがコンサイバーじゃないはずだ。一遍死んで、頭を冷やしてまた戻ってきなさい」
驚くほど冷たく、低い声だ。私はこの時、初めて近藤という女性を見たのかもしれない。
近藤は男の顔を蹴り飛ばした。男は本棚の方まで飛ぶと動かなくなり、倒れてきた本棚の下敷きになって、多分、息絶えた。