第三話
まあ座りなさい、と促され私はリビングの窓の近くにあるL字型のソファーに腰掛けた。右腕が鋭く痛む。
「その右腕、大丈夫?」
先ほど公園であったことが全て夢であったかのように、ロングコートの女は軽やかに言ってみせた。
私と同じ黒色の髪で、後頭部に短く結んであり肩までかかっていない。今はコートを脱いで黒色の目立つシャツを着ている。清楚であり、大人を匂わせる風格を持った女性であることは確かだが、その両手にはナイフが握られていたのだ。信じ切ることはできない。
「平気」
私は淡白に答えた。
「何かあったの?」
私の向かい側には長方形のテーブルを間に挟んでロングコートの女と、私の母が座っている。
女はテーブルに寄りかかりながら背後にいる私を見た。
「喧嘩で、少し」
父の姿はなかったが、それは仕方ないことだろう。もう少しで午後七時が訪れようとしている。母と父の会話を聞いている限り、新しいプロジェクトの予定が急遽変更されて、それに対応できそうになくて云々かんぬんといったところだ。未社会人の私に詳しいことは分からない。
「それならいいけど、あまりに痛いようだったら……」
「大丈夫。それより、この人は?」
ぶっきらぼうな言い方に客人は微笑んだ。
それとは反対に母親は、私の言い方に焦ったらしい。
「この人は、えっとその、弁護士様よ。お父さんの同じプロジェクトの仲間の一人」
私は、驚いた。
「弁護士がプロジェクトって言うか」
「僕も最初は変な感じだったんですけど、ほら、業界用語とかってあるじゃないですか」
今まで空気の中に溶け込んでいた男子生徒がようやく現れた。彼は私の座っているソファの後方にあるダイニングテーブルの椅子に腰を預けていた。
私は振り向いて男の顔を見た。
「名前は?」
「僕は、苅田涼って言います。二年B組にいて、学級活動のトップを担ってるものでして」
色白で、スポーツとは無縁そうな細身の体をしている。慇懃であり、遠まわしな言い方に私は苛立った。
「ちょっとまって」
苅田が言葉を続けようとするのを遮って、私はその場の雰囲気を止めた。ちょっと、待てよ。
「弁護士が来たって、それもしやウチが何か犯罪沙汰でも起こしたってことか?」
「違う、全然違うわね」
女が言った。
「戒、最近起こってる無差別殺人事件のこと知らない?」
母はいつもの穏やかな口調ではあったが、そこから発せられた普通ではない響きのある言葉に沈黙した。
「……知ってる」
「僕も聞いたことがあります。確か、決まって犯人は人目のないところでやるんです。そして残忍な殺し方をする。つい先日、この家の近くにある商店街のちょっとした裏道で起きてしまいました。そうでしたよね、戒さん」
「……」
「あれ、違いましたか?」
「帰らないの?」
苅田は言葉を詰まらせた後、自信に溢れた先ほどまでの態度はどこにいったのか何かを失ったように下向きになった。と思えばすぐに顔を上げ、急に余所余所しくし始めた。
「まあまあ、戒、この子は意識を失ってたみたいだからって近藤さんが連れてきてくれたんだから」
「誰それ」
「私よ、私」
客人の女が小さく手を上げて左右に振った。
「近藤湊が本名ね。よろしく、戒ちゃん」
「ちゃんで呼ばないで」
「いいじゃない。戒ちゃんって呼びやすいんだけど、戒ちゃん」
「だから呼ぶなってば」
既に子供の頃に卒業したあだ名の一つだ。それに、母親にしか呼ばれたことがない。私は男の生き様を真似ていたため、誰からも戒と呼ばれてきたし、その方が心地が良かった。
今更かっこ悪い、ちゃんだなんて。
「僕も、いいと思いますけど」
「うるさい。で、その事件が何」
無差別連続殺人事件。そう、つい先日起きた。私の高校にいる男子生徒が四肢切断、圧迫機で押しつぶされたような状態で見つかったと聞いた。
「お父さんが心配してるの。もしかしたら、あなたに被害が出てきてしまうんじゃないかって。だから近藤さんについていてもらいたいってことになったの」
「ボディガード?」
「おおよそそんな所。戒も安心でしょ? 確かにあなたは喧嘩が強いけど、何かあったら私、もう考えるだけで怖いわ」
冴の代わり、ということになるようで、何やら納得の難しい話ではあった。だが、近藤という女は強い。私を襲ったあの大男を簡単に仕留めている。
私は敗北の味を悔しく飲み込んだ。
戦術、武術の享受ができるかもしれない。
「わかった」
「認めてくれてありがとう、戒ちゃん」
「うるさい」
「それにしても、お父さんも考えることが普通じゃないよね。ボディガードに女性をつけるなんてね」
母の言う通り、一般の目から見れば近藤は一般の女性の部類に含まれる。確かに一般とは違った風格を得てはいるが、強さ、とはまた違う。上品なマダムといった風格だ。
「公史さんの判断は正解よ」
公史とは私の父の名前だ。
「私、とっても強いから」
「へえ、何か格闘技とかされてた訳では……」
母の敬語はむず痒い。今まで聞きなれていなかったからだが、それ以前に母が使い方に慣れていないはずだ。敬語とは無縁な世界で生きてきたから。
こう見えて、母は私と似たように子供の頃は不良であったと聞かされている。社会人になる前に年上の父と結婚し、私を産んだ。
「うーん、まあちょっと触っただけね。後はまあ、元々の実力ね」
私と同じコンサイバーとして。近藤は確かに、あの時そう言ったのを私は聞いた。近藤も、あの男と同じように化け物に違いない。
今ここにいるのは私を殺すためだろうか。あの男と同じように。
それにしては随分と遠回りなやり方だ。あれほど化け物のような力を持っているならば、今ここにいる全員を殺すことは簡単だろう。
近藤の目的は、本当に私の護衛にあるのだろうか。先ほどの出来事もまた、私を守るためだったのだろうか。
「あ、そうそう戒ちゃん。後で話があるから、時間に余裕持っといてね。それと、苅田君も同席してもらいたいわ」
「僕もですか?」
「結構大事なことだから。二人にとってね」
それから私達は母の作った夕食を食べて夜を過ごし、残すところは風呂に入るのみとなった。近藤は本物の護衛人のように私を見守っている。
鬱陶しく感じてしまったが、今は堪える時である。
「風呂くらい一人で入れる」
私はバスルームにまで侵入した近藤に向かって、やや棘を絡ませた言葉を投げてやった。ボディガードとはここまで過保護なのだろうか。
「私、女よ」
「コンサイバーは余所見をする暇をくれないほど危険か」
例えば、人間じゃなければ風呂の排水溝から突然出てくるかもしれないし、天井を突き破ってくるかもしれない。近藤はそこまで考慮しているのだろうか。
私は服を脱がずに、近藤からの言葉を待った。
「イエスかノーなら、イエスね。ま、だけど私はここで見張ってるだけにするわよ。コンサイバーがどんな奴らとかっていう話は後でしてあげる。あと、私がここにいる理由は別にもう一つある。あと、今色々日常が変わりつつあることも教えなくちゃね」
「早めに風呂を出る。後ろ向いてて」
質問したいことが私は山ほどあった。向こうから話し合いの場を設けたことはむしろ好都合だ。私はオカルトに興味はないが、退屈な日常に大きな変化がもたらされるとなれば、興味深い。内心期待もしていた。
コンサイバー、能力者。私は彼らに特別な感情を抱いていることはない。だが、無意識のうちに私は惹かれているはずだ。そうでもなければ、今こうして近藤という女を認めてはいないだろうからだ。