第九話
平日の昼、学校にある椅子の上で退屈に苦しめられなければならないこの時間に家のベッドで、それも親友という肩書の人物と一緒に時間を過ごすというのはこれほどまでにない幸福であった。それは昨日の今日だから、精神が落ち着かないからこそ得られるものであるだろう。
自分よりも強い相手に勝つ優越感とは違った幸福感があった。
そういう時に窓から景色を見てみると、いつにも増して綺麗に見えるものだ。外の香りさえ、今は満足感を鮮やかにする一つの飾りであった。
昼一時頃、私と美奈は空腹を感じて一階へ降りた時、ちょうど玄関のチャイムが鳴った。母ではなく、近藤が「はーい」と声を出した。
「今の声……」
美奈は私の家にきて近藤に挨拶をしたことがない。一瞬、彼女の表情が強張ることに気づいた。
私の家は階段を降りてすぐ左を向くと玄関があり、そのすぐ近くにリビングへと続く扉がある。その扉が開かれ近藤が姿を表すと、美奈は私の手を握った。近藤は私達に気づくと、軽く会釈をした。
「いこう、戒」
私の家の来客を近藤が対応することに戸惑うが、私は美奈に促されるままリビングへと出向いた。そこには母が椅子に座って本を読んでいた。
「あ、ごめん! まだ全然用意できないわ」
「別にいいっすよー! ねえねえ戒、せっかくだから一緒に作ってみようぜ。こういうこと、一回もしたことないよな?」
私は頷いた。学校にある家庭科の授業は、全て他人に任せている。
「素敵な提案ね。お母さんは戒の作る料理気になるわ」
「こう見えて女子力高いんじゃないですかあ? きっと!」
私はいつもなら面倒くさいといって椅子に座るところだが、今日は機嫌がすこぶる良かった。料理という全く関わらなかった分野にも興味を持ち、私はまた美奈に促されるままキッチンへと向かった。
「何を作るの」
「うーん……」
美奈は許可を取らずに冷蔵庫を開けた。寛大な母はそれを気にもとめず、「オムライスとかどうかしら? 個性でるでしょ、あれ」と言った。
「ああ、それいいっすねえ! よっしゃ戒、作るぜ!」
「お前は作れるのか」
私は気がかりであった事をそのまま聞いた。一年程の付き合いを美奈としているが、料理が好きだということを彼女の口から聞いた事が一度もない。
「色んなことをやってみるのが私の取り柄なんだぜ!」
私は料理をする前から、ぐちゃぐちゃになったオムライスを想像した。ここまでくればもうスクランブルエッグだ、と私は思った。
美奈に冷蔵庫をあさられるのは癪だったので、私が卵を手にしてまな板の上へ置いた時、玄関へ通ずる扉が開いて近藤が姿を見せた。
「戒ちゃん、ちょっと」
明らかに美奈は嫌な顔をした。
「戒はこれから料理をするんですけど」
「それもかなり魅力的なんだけど、優先順位はこっちの方が高いのよ」
内に潜む予感に耳を傾け、私は近藤に従う判断を下した。
「美奈、悪い。すぐに戻る」
「分かった。その、気をつけろよ」
美奈は菜箸を手にしながらそう言った。
私が近藤の後に続くと、玄関には白く染まった髮の男が立っていた。スーツ姿で眼鏡をかけており、大企業の勧誘男みたいなイメージを持ったが、人を射抜くように鋭い目は、同時にスパイの印象も私に与えている。
「戒だな」
男はそう言った。彼は私よりも背が高く、見下されるように見えて仕方がない。挑戦的な口調も私の神経を揺さぶった。
「頼みがある」
「それに伴う礼儀が必要だと思うけど」
しかめっ面をしながら、白髪の男は私を睨んだ。
「まあ、戒ちゃん。話を聞いてあげて。友達を長く待たせたくないでしょ」
「あんたが私を呼んだんだろうが」
険悪な雰囲気に私は苛立ちを覚えた。先ほどまでの幸福感が消え去ってしまい、それがもう二度と返ってこないみたいで。
美奈を待たせたくない。私は男の言い分を聞くことにした。
「話してみろ」
「私の能力を消してくれ。お願いだ。それ以上は何も望まない」
白髪の男は目を瞑り、ようやく律儀に軽く頭を下げた。近藤に呼ばれた時点でこの男の狙いは検討がついていた。近藤は色んな奴に私の能力を知られてしまっていると語っていたからだ。私は驚くことはなかった。
「近藤、どうやって能力を使えばいい」
私の尋ねに、近藤は考える時間を作っているようだった。
「感覚を掴めないと能力は使えないわよね。うーん、どうしようかしら」
近藤の言う通り、能力を使ったことのない私からしてみれば、それを使うというのは考えられない感覚であった。能力を使う、とはどういう感覚なのか。
私は強気になって男に近づき、右腕に手をかざした。
「右腕にCON細胞があると、なぜ分かった」
男は尋ねた。
「ぼろぼろの包帯で巻いて、左腕よりも多少肥大化してる。一見してすぐ分かった」
コンサイバーは見た目が普通だと聞いた。この男はどうやら、コンサイバーが表に出ているようだが。
「戒ちゃん、ほとんどのコンサイバーはこんな風にならないわ。というよりも、どうしてこんなに包帯で巻かれているのかは私も気になるんだけど」
「俺はこの腕が嫌いだ。ただそれだけの話だ」
男は腕を睨んだ。
私はかざした手に集中し、経験した様々な感覚を使って能力が使えるのか試してみた。数分試したが、結局手が暖かくなっただけで何も変わりはなかった。
「やっぱり無理そうね。ケルヴィンって言ったかしら、あなたの名前。今日中には無理だと思うわ」
「まさか、お前、嘘を吐いたというわけじゃないだろうな。裏切られるのはもう懲り懲りだぞ」
「嘘じゃないわ、本当よ。どうして私が見ず知らずのあなたに嘘をつかなくちゃいけないのかしら? お金も何ももらってないのに」
ケルヴィン、というのが彼の名前らしい。ケルヴィンは舌打ちして、周りを見渡した。やがて何も八つ当たりできそうなものがないことを知ると、ドアノブに手を掛けて扉を開けた。
「次会った時は、なんとかしてみせるわよ」
「裏切るなよ」
私は黙って聞くしかできなかった。分からないこと以外ない世界に入り込み、質問は本当なら山積みなはずだ。だが、何を聞けばいい? 何を知ればいい? 答えを出す前に、玄関扉の閉まった音で現実に戻された。
「とりあえず能力を使えるようにならなくちゃね」
用が済んだと思い、私は美奈の所へ戻った。
キッチンの上は先ほどと何ら変わりはない。彼女は私が戻るのを待ってくれていたのだ。
「そんじゃー作ろうぜ! 美味しく出来るといいなあ」
美奈の無邪気さは、私の中にある鬱憤を和らげた。私は卵を手に取り台の角でヒビを入れると、容器の上で割った。同時に、近藤がリビングへと戻ってくる音がした。卵黄は、綺麗な丸い形で落ちてきていた。
「美味い!」
丸い皿の上に乗った、程よく焦げ目のついた円形の薄い卵の上にケチャップで書かれたマスコットキャラクター。美奈はそのオムライスを一口食べて、きちんと味わう程の時間をかけずにすぐにそう言った。胡座をかきながら、両膝を忙しなく動かしている。
「うん、美味い! 私達料理の才能って実はあったんじゃない」
そして、きちんと味わってから再びそう言った。
「やっぱり戒には私と同じ料理のセンス有りね」
「どうも」
「すげーよ戒! 喧嘩だけじゃなくて、料理も得意とか惚れ直しちまうよー!」
「どうも」
「やるわね戒ちゃん」
褒められることが妙にむず痒い。私も口にしてみて確かにできた味ではあると思ったが、絶賛されるのは想定外であった。喧嘩で強いと言われるのとは、何だか違った感覚ではないかと思う。
「今度から夕食任せるわね」
「嫌だ」
ただ、達成感だけは得ていた。美奈と一緒に作ったものの、実は美奈はほとんど私に作らせているようなものである。何度か肘鉄でも入れようかと思う程である。上手に気を利かせて私をコントロールし、なんとか殴られずに済んでいる。
「なあ戒、さっきのはなんだったんだ?」
私は迷った。オムライスに描かれているネズミのマスコットキャラクターを見ながら、こいつが代わりに説明すればいいんだがと願ってみたものの、それはありえなかった。私の能力でこのネズミに語らせることはできないものか。
ケチャップを操る能力を持っていたところで、使い所は今くらいしかないだろうが。
「なんでもない」
私は自分の口で、そう答えた。
「なんだよう。教えてくれてもいいじゃないかよ」
美奈は対面に座っている近藤に視線を送った。
「戒ちゃん、教えてあげてもいいんじゃない?」
「いいのか?」
近藤があまりにも簡単に物を言ったおかげで、私は驚いてしまった。自分がコンサイバーだと知られることになる。そうなったら、美奈も自然と巻き込まれることになる。
「友達でしょ」
「そうだぜ!」
美奈は声高らかに便乗した。
「戒、私はあんたの友達だぜ。どんなことだって驚いたり、失望したりしない。お前のことはよくわかってるつもりだぜ。だってもう一年経つだろ。それだけありゃ戒の事を知るのは十分なんだぜ!」
一年で私の事を知られるほど、私は奥が深くない人間ということだろうか。
「それに、一人でも仲間がいた方がいいでしょ。戒ちゃんの助けになるわよ、この子。私が保証してあげる」
「あんたが保証するんじゃない」
「あら、ごめんなさいね。だけど、仲間が一人いるだけで大分違うわよ。私のこととかあまり信用できてないと思うし」
スプーンを握った美奈はしきりに首を縦に振った。
「私を頼ってくれよな! いつも戒に頼ってばっかだから、こういう時しかかっこいいこと言えねえんだ。だから言わせてくれよっ」
「言うだけ?」
「ちゃんと助けるからさ!」
このやりとりを、母はくすくすと笑いながら見守っていた。母は既に説明を受けているらしかった。いつもの好奇心旺盛な母なら、美奈と同じように私の秘密に飛びつくだろう。
私は、自分がコンサイバーであることと先ほどのケルヴィンの事を話した。美奈は口についたケチャップをティッシュで拭いたり米粒を取ったりと落ち着きがなかったが、しっかりと話は聞いていた。話している最中、ちらりと斜向かいにいる近藤を見てみた。彼女はどこか上の空といった表情をしていた。
「以上。どう? 映画の俳優になった気分は」
「悪くねーぜ! 私はそれならー……あ、キャシーって名前とかいいよな。なんだかんだ最後まで生き残りそうな名前してるぜぇ!」
「違和感ないね」
「戒は、そのままカイでいいか。って、そうじゃなくて! おいおい、大丈夫かよ戒! そのケルヴィンとかいう奴、能力者だって言ってるんだろ? もし次戒が能力使えなかったら、コンサイバーの掟だかなんとかって奴で戒殺されちまうんじゃねーの? ほら、自分の能力知られたから口封じってことでさ」
昨日の公園であったことと、夜の出来事を思い出した。私は美奈から視線を逸らした。
「なあ近藤さん、なんとかなんねーのかっ。早く戒の能力を出してやれよ」
美奈は本気で心配しているようで、早口になりながら近藤へ言葉を飛ばした。美奈は私の話を疑うことなく全て信じていた。
「すぐにできる方法はあるんだけど、これは最後の切り札ね。もっと他の方法を考えなくちゃいけないわ」
「その方法って?」
「言えないわ」
そういって、近藤は皿の上に残った昼食の最後の一口をスプーンの上に乗せた。
「こんなこと言えたもんじゃないのよね」
彼女はスプーンを口に入れたまま、飴を舐めている時に出すような声を出し、食べ物を飲み込んだ。
「教えてくれてもいいんじゃない」
「だめよ。……能力については安心なさい。私がなんとかして、その感覚を教えられるようなシチュエーションを考えとくからね」
こうして我が家の昼食は終えた。奇妙な面揃えだが、不思議といつもより充実感を得ることができた。




