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第八話

 朝食を終えた私は、今日一日は家にいることを決め込んで自室へ戻ろうとした。

 席を立とうとして、先ほどまで台所で近藤と井戸端会議のように話し込んでいた母が椅子が地面に擦れた音を聞いたのか振り返った。

「戒、体調は?」

「平気。母さんこそ、大丈夫なの」

 昨夜、母は死体を眼前で目撃した。人間がバラバラになって死ぬ瞬間も見てしまった。私は、母がここまで正常なことの方が気になった。母はそういうものに弱い。人の血や、傷ついた姿を見る時は必ず目を背ける。私が喧嘩して帰ってきた時、いつも母は目線に困っているのだ。

「あんまり覚えてないの。そうしてくれた方がむしろいいんだけど」

「ならいい」

 泡だらけの皿を手にしながら母は何かを言いかけたが、家のチャイムが鳴った。母は皿を落としそうになるほどに飛び上がった。私も身構えてしまった。

 この音は、昨夜の音であった。私、そして母に一生消えることのないワンシーンを生み出した、悲劇の始まりを告げる音であった。小鳥が外で鳴いているような気がするが、リビングは全ての音が遮断されていた。

 通勤の準備をしていた父がリビングに現れるのはチャイムが鳴ってから数秒した時だ。私達を見回すと、何も言わずに玄関の方へと向かった。私はどこかで、何も起こらないことを期待していた。

 目の前で人が死ぬという事を視た私は、臆病になっていた。

「戒いますかー?」

 聞こえてきたのは菊元の声であった。いつの間にか目を閉じていた私は、声が聞こえた途端目を開けると同時に早歩きで玄関へ向かった。無性に菊元の顔を見たくなった。

 私が玄関にいくと、父は横に退いた。制服姿の菊元が笑顔で私を迎えた。

「おっはよー! 大丈夫か? このまま学校にいくつもりだったんだけど心配だから来ちまったよ。あれ、準備まだしてねーのか?」

「今日は休むことにした」

「あー、そうか。まあそれがいいよな」

 いかにも残念そうな顔であった。菊元は顔によく出る。どんなに鈍感な人物でも、菊元の顔を見れば一目で感情が知れることだろう。

「私も休もうかなあ」

「単位」

「ひっ、変な事言うなってば! 確かによくサボるけどよぉ? 今日に限ってはいいと思うんだよなー! 戒の付き添いってことでさ」

「ただ休みたいだけじゃないの」

 私が溜息混じりに言葉を吐くと、菊元は大げさに頭を掻いてみせた。屈託のない笑みは、彼女の悪気の悪気の無さを表している。

 隣にいた父に目を合わせた。

「本当は感心しないが、今日だけだったらいいぞ。上がって今日はゆっくりしてろ」

 菊元ははしゃぎながら父に頭を下げた。私は言葉に出さず、菊元と同じような思いを目で伝えた。

 

 父の許しを得て、私ともう一人は私の部屋へ戻った。母と近藤には、父の方から言ってくれるそうで、安心して寛ぐことができるようになった。

 菊元は我が家のようにベッドの上に転がった。確か昨日だったか、菊元と似たようなことをしでかした近藤という女がいた。二人の共通点を見つけたが、れっきとした大人が高校生と同じ事をするとは、如何なものであろうかと私は近藤に苦言を言いたくなった。

「何か飲み物とか、お菓子とかいる?」

 椅子に座ろうとして、私におもてなしの心が蘇った。

「いらねーや。朝ごはん食べてきたし」

 私は今度こそ椅子に座った。

 どうしてか、私はその後の静かな空間に戸惑った。時の流れしか感じない静寂は、私が生きる世界の中で唯一無二の悦楽の空間であるはずだ。

 いつもは賑やかな二人が、一人欠けたことによってできた静寂。なぜ耐えられないのか理由を探すことさえ億劫に感じてしまう。

 寂しさ。普段私が考える事のない、明らかに珍しい感情が芽生えていた。

「このベッド欲しいなあ。すげーふわもこ」

「ふわもこ?」

「ふわふわもこもこしてるって意味だぜ。なんかこう、今の私にピッタリだぜ」

 私は何か、会話を終わらせない言葉を思いつこうとした。菊元が喋ったことで、気分は和らいだのが分かったからだ。無理にでも続けようとした。

「なあ、美奈(みな)

 私は初めて彼女を下の名前で呼んだ。

 驚いたのか、体を天井へ向けたまま美奈は椅子に座っている私の方へ顔を向けた。

 なんとも言えない、倦怠感を感じさせる表情をしていることに気づいた。

「大変なことになったかもしれない」

「大変?」

 彼女は枕の上に肘を乗せ、手のひらで自分の頭を支えて体ごと私の方へ向けた。話の質が変わったことに気づいたのだ。

「大変ってなんだよ」

「公園で逃げる時、女がいたことを覚えてる?」

 美奈は最初、うーんと目線を上にあげて唸っていたが、合点がいったように頷いた。

「あの女が家にきたんだ。今もまだいる」

 美奈の表情が止まった。

「へ、へえ戒って嘘つけるようになったんだな! 感心するぜ?」

「嘘じゃない。あの女の名前は近藤といって、色々私に情報を与えた」

 半信半疑、というような目をしている。

「どんな情報だ?」

 昨夜近藤から聞かされた事を、なんの脚色もせずにそのまま美奈へ伝えた。聞いている最中、彼女は独り言のようにポツリと何らかの言葉を漏らしながら頭と心の整理を行っていた。

 外から入る涼しい風に頭を撫でられながら、私は自分がコンサイバーであるということ以外、全てを話し終えた。小さい声で喋った事もあり外には聞こえていないだろう。風が言葉を運ばない限り。

 話が終わった後、再び静けさが蘇った。いつの間にか美奈は座っており、口を半開きにしたまま何か言おうとしている。彼女の口からは単語すら出てこない。どうやら、私の話を全て信用してくれたみたいだ。

「戒、逃げよう」

 ようやく、美奈はそう言った。

「こんな街にいちゃ危ないぜ。その近藤とかいう女、なんかヤバい気がする。理由なんてねえけど、とにかく逃げよう!」

「どこに?」

「それは……どこでもいいだろ! あ、なら学校だ! 学校に住み着くんだよ。確かコンサイバーは学校には来れないんだろ?」

「来ても能力は使えない」

「なら、学校が安全だ! ずっと寝泊まりしようぜ。先生に許可がもらえりゃいいだろ」

「なんて言って許可をもらうつもり」

 美奈の饒舌ぶりはついに止んだ。

 コンサイバーと私が言ったところで馬鹿を見る目を向けられることは間違いない。後、個人的な理由であるが学校に許可を貰うという事が好きではなかった。今まで散々歯向かってきたのもあれば、学校というものが嫌いだという理由もある。

 美奈の反撃に、私はそれらの言葉を用意していたが、ついに彼女は反論をしなかった。

「どこに行っても同じなんだよ。私は」

 隣の街に行っても、隣の県にいっても、隣の国にいってもその隣の国にいっても、どこにでもコンサイバーはいる。それに、近藤は私の後を追うだろう。あの女はどこか、私を必要としているみたいであるからだ。

「なあ、美奈」

 私は振り出しに戻ることにした。

「なんだよ戒」

「私から離れろ」

 美奈が驚かなかったことに、私は驚いた。演技派の彼女はどんな些細な事でも空を飛ぶ勢いで反応を見せるのだ。表情とポーズのレパートリーが多い彼女は、目を少し大きくした後俯いた。

「いうと思ったぜ」

 私は一呼吸置いた。

「ごめん。悪い」

「悪くねーよ。私の事を思ってなんだろ、嬉しいぜ。だけど、私は戒の側から離れたくねえ。私の場所はここしかねえんだからな」

 彼女は私の場所を取るために、彼女の家を除く全ての場所を捨てた。

 私の口は重かった。鉛のように、吐息さえ、満足に出入りしなかった。

「死にたくないなら、そうするしかない」

「何言ってんだよ、戒。お前、何弱気になってんだよ。いつも守ってくれたじゃねえか」

「あいつらは人間じゃない。私は、人間からしか美奈を守れない」

「そんなことねえって!」

「昨日は私が負けた! 友人も一人死んだ!」

「昨日のことだろ!」

 美奈は立ち上がった。沈んでいる私の手を取って、力を入れて握った。

「戒。頼む、お前の側にいさせてくれよ。そうすることでしか私生きてけないんだよ。足手まといには絶対ならない。戒の言う事なら頑張って聞いてやる。……今までの分、感謝してきた分を返してえんだよ」

 逆であった。いつもは、喧嘩に負けて悔しそうにする美奈を慰めるのが私で、仕返しをしてやるのも私だ。

 私は慰めた後、美奈や冴が以前にも増して成長することに疑問を抱いていた。ただ慰めているだけなのに、どうして人間はここまで成長するのだろうか。今この時、その理由が分かったような気がする。

「わかった」

 ふっ、と美奈は意味ありげな含み笑いを漏らした。

「なんだよ」

「いやあ、珍しいなって。戒の弱気な姿、まあ昨日もみたんだけど、やっぱり新鮮でさ。私からしてみれば戒は最強だから」

「それも昨日までの話。結局私の敗北だった」

 美奈が何かを言い返す前に、「だけど」と私は付け加えた。

「今日から取り戻す。美奈の前だけでも最強でありたい」

「おう! それでこそ戒だぜ!」

 美奈が手をパーにして私に突き出してきた。私はすぐには応じることができなかったが、やがて私も同じように手を出した。

 乾いた音が室内に広がった。

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