第六話
由夏、春人、そして綾子を乗せた電車が多摩川の鉄橋に差し掛かった。帰宅ラッシュの車内では、三人がつり革をつかんで立っていた。
暗闇の多摩川を渡る電車の窓には、車内の光景が鏡の様に映っていた。
その窓に映る光景を由夏は見つめていた。右隣に立つ春人と左隣に立つ綾子、その二人の間に立つ由夏。
幼い頃は見上げる存在だった綾子が、今や由夏の方が長身になっていた。そして、由夏が見下ろす存在だった春人が、今や同じ背丈になっていた。
うっすらと窓に映る自分たちの姿に、由夏は時の流れを感じていた。
「あと五分くらいで降りるよ」
「うん」
由夏が春人に返事をすると、ちょうど電車が途中の駅に停まった。
由夏は窓の向こうの街の景色を眺めながら「この辺り、随分変わったんですね」と綾子に語りかけた。
由夏の幼い頃の記憶では広大な空き地だった場所が、現在は高い建物が林立する街に変わっていた。
「そうね。ここ何年かで急に開発が進んだわね。由夏ちゃんはこの辺りに来たことがあるの?」
綾子の質問を聞き取った由夏は、思い迷いながら綾子に顔を向けた。
「小さい頃、横浜に住んでいた曾祖母に会いに行く時、この電車に乗っていたんです」
「聡子のおばちゃまね」
「はい、そうです。ご存知だったんですか?」
綾子が自分の曾祖母を親しげに呼んだことに、由夏は驚きの表情を見せた。
「学生の頃、よくお宅に招いていただいて、ケーキを作って振る舞ってくれたの。生粋の淑女なのに、気さくでお茶目な所もあってね」
綾子は言い終えると、由夏を見上げていた顔を窓に向け「とても懇意にしてくれてね……」とつぶやいた。
「そうでしたか。私が会いに行っていた頃には、曾祖母はもう高齢でしたので、曾祖母の料理などは食べたことがないんです。でも、気さくでお茶目な性格だったのは私も覚えています」
そして、再び動き出したモーター音とアナウンスが車内に響く中、「曾祖母とは長いこと会えていません」と由夏が声をこぼした。
綾子は由夏を一瞥すると、「そうだったの……悲しいわね」と言って同情した。
その言葉が頭に浸透するのを感じた由夏は、曾祖母に関わる過去のことを思い出して春人に顔を向けた。
「ねえ、春人君。ウチが小学校一年生の時にバレエの発表会に出たの覚えてる?」
「うん。もちろん覚えてるよ」
「あの日、ウチが着てたロマンティック・チュチュと黒のドレスは、ひいおばあちゃんが贈ってくれたものなの」
「あの日着てたもの……」と、春人はなつかしむ様につぶやいた。
「そう。もうどこにあるかもわからないけどね」
そう言って口元に笑みを浮かべると、由夏は窓に顔を向けた。幼い頃にはまだ工事中だった高架線からの夜景が、彼女には儚く見えた。
間もなくして、電車は彼らの目的の駅に到着した。
プラットホームに降り立つと、由夏はキャリーバッグを引きながら、綾子と春人の後ろをついて歩いた。
「この駅に来るのは初めてだな。いつも通り過ぎるだけだった」
由夏は前を歩く春人に話しかけた。
「駅ビルにデパートがあって、駅前に商店街もあるから、便利な街だよ」
改札の手前を歩きながら、春人が由夏に街のことを教えた。
三人が改札を抜けると綾子が「由夏ちゃん、何か買っていくものあるかしら? あったら、そこのデパートに寄るけど」と、由夏に問いかけた。
「いえ、今のところ間に合っています」
「なら、このまま家に行くわね」
三人は駅を出ると、商店街を歩き始めた。
由夏は、自分が知らない街を馴れた様子で歩く春人と綾子の後ろ姿を、少し離れて見つめていた。
そうする内に、由夏の心に沸き上がる思い。
一人、息子を連れて自分の故郷に舞い戻る母親。それは一体どんな心境なのだろう。
そして、母親に連れられて知らない街を歩く息子。それは一体どんな心境なのだろう。
無意識に右の奥歯を噛み締めながら、由夏は五年前に同じ道を歩いたであろう親子を想像した。
「気をつけて、由夏ちゃん」
周りに気を配らずに歩いていた由夏に、綾子が声をかけた。
「あっと、すみません」
声に気づいた由夏のすぐ横を路線バスが通り過ぎた。
春人と綾子は、バスをやり過ごすために電信柱の手前に立ち止まっていた。
「この道、歩道がない上にバス路線だから馴れないと歩くの大変なのよ」と、綾子が由夏に話しかけた。
「確かに知らないで歩くと、戸惑っちゃいますね」
三人は再び歩き出した。
春人が後ろを歩く由夏に「北海道だと歩道がない道なんてほとんどないから、僕も最初は戸惑ったよ」と話しかけた。
「そう言えばそうだね。でも、ウチにとっては懐かしくも感じるな。こういう街並み」
由夏は街を見回しながら言葉を返した。
それを聞き取った綾子は「そうよね。由夏ちゃんは東京生まれなのよね」と前を向きながら言った。
「はい……そうです」
由夏は胸がストレスを受けるのを感じながら、後ろ姿の綾子に返事をすると、自分が何の気なしに言った戯れ言を後悔した。
春人も由夏の異変に気づいた。「過去」に敏感になっていることに。
三人は交差点で赤信号を待つために立ち止まった。
そこで春人は、雰囲気を変えるために綾子に顔を向けた。
「ところで、母さんがさっき警察署で言ってたことなんだけど」
「警察署で言ったこと?」
「そう。由夏ちゃんのこと。僕は由夏ちゃんのこと何も話してなかったのに、母さんは知ってたでしょ?」
春人の疑問に由夏も続いて「私も理解しかねているんです。誰にも知られない様に準備して来ましたから、なぜ父がそれを知って綾子さんに連絡できたのでしょうか」と彼女に尋ねた。
綾子は由夏を見ると申し訳なさそうな顔をした。
「そのことで、由夏ちゃんと弘さんに謝らないといけないの。実はね、弘さんから連絡があったと言うのは嘘なの」
「嘘……ですか?」と、由夏は首を傾げた。
春人は両手をこめかみに当て「いや、でも、由夏ちゃんがこっちに来てたことは母さん、知ってたでしょ? 警察の方はそう言ってたよ」と、混乱しながら綾子に問いかけた。
「由夏ちゃんがこっちに来ていたのは知っていたのよ。知ったのは、今日の午後だけどね」
由夏と春人は事情を把握できずに、お互いの顔を見つめた。
その一方で、綾子はそれを面白がっている様だった。
「わかりません。綾子さん、教えて下さい」と、由夏が答えを求めた。
すると、綾子は由夏に近づいて鼻で大きく息を吸った。
「そうそう。このミントの香水。小さい頃からいつも使ってたのよね」
その行動に合点がいかない由夏。
「驚いたな。春くんの洋服を洗濯しようとしたら、微かにこの香りがしたんだもの……」
「香りですか?」
初めは単なる会話だと由夏には思えた。だが、すぐに別の考えが浮かんだ。
同時に春人も何かを思い出す様に、うつむき加減に目を見開き、こめかみに当てた両手で髪をくしゃくしゃと握り締めた。
過去にもあったことではないかと、由夏と春人は考えた。
由夏は、右手に握るキャリーバッグの取っ手を意識して強く握った。そうしないと、手を離してしまいそうだったからだ。
そんな彼らを、小さな街灯が舞台照明の様に照らし出し、道路を走る自動車の走行音がBGMの様に響いていた。
綾子は由夏から顔を離すと、彼女を見上げた。
「驚いた? 春くんの服は洗濯前に必ず臭い嗅いでるから、すぐにわかったのよ」
「…………綾子さん……今、何ておっしゃいました?」
「だから、春くんの服は洗濯前に"必ず臭い嗅いでる"って言ったのよ」
「……春人君、私の耳がおかしくなってしまったのかしら。今……綾子さんの口から『文法上おかしな副詞と動詞』が発せられた様に聞こえたのだけれど……」
由夏は綾子から二歩離れて春人に問いかけた。
春人は両手をこめかみから下ろすと、由夏に顔を向けた。
「……確かに『彼女』の口から言葉が発せられたのは聞き取れたよ。ただ、僕にはそれが『文法上おかしな副詞と動詞』を超越して、『母親としてあるまじき言動』に思えてならないんだ……」
そう言う春人の表情には、無念さが滲み出ていた。
「なんということかしら。春人君にも聞こえていたのね。綾子さんが人知れず内包するシュヴァルツな一面が……」
由夏が無表情で返事すると、綾子は感慨深そうな表情を見せた。
「ああっ、小さかった二人が、そんな高度な会話ができるほど大きくなったのね」
その見当違いに発言振る綾子に、由夏と春人のミゼラブルは更に大きくなった。
「じゃあ、行こうか、由夏ちゃん」
「そうだね、春人君」
由夏と春人は、青信号になった歩道を歩き出した。
「そんな、待ってよ」
二人の後ろを綾子が慌てて付いて行った。
春人と綾子が暮らす五階建てのマンションは、小さな坂を登った所に建っていた。
三人はエレベーターで三階に上がると、春人と綾子が暮らす部屋に向かった。
綾子は「遅くなっちゃったね。二人ともお腹空いたでしょ?」と、由夏と春人に尋ねた。
「そうですね。昼に軽く食事しただけですから」
「母さん、もう食事の用意してくれたんだよね?」
春人の尋ねに、綾子は「ええ、作ってあるわよ。春くんが好きなバターチキンカレーをね」と答えた。
その料理名に、由夏は困惑した。だが、顔には出すまいと必死に堪える。
「えっと、由夏ちゃんは辛いもの食べられる様になったかい?」と、春人が心配そうに由夏に尋ねた。
由夏は「ウチはもう十五歳だよ。大丈夫に決まってるよ」と、出来るだけ冷静に答えた。
由夏と春人の会話を聞いていた綾子は「ごめんね。由夏ちゃんが今日、家に来るとは思ってなかったから」と、心苦しそうに言った。
「いいえ、私がご迷惑をおかけしてしまいまして」
由夏は頭を下げて答えた。
そうする内に、三人は廊下の突き当たりの部屋の前で立ち止まった。
綾子が「さあ、着いた。ここが私達の部屋よ」と由夏に言いながら鍵を開けた。
「角部屋なんですね」
そう由夏がつぶやくと、綾子は両手を両頬に当てた。
「そう。陽当たりが良くてね。春くんとの愛の住み処には最適……」
「さあ、入って由夏ちゃん」と、春人は綾子の言葉を遮り、由夏を招き入れた。
「はい、おじゃまします」
春人に続いて由夏が入室した。
春人が照明を点けると、由夏には、真っ直ぐ伸びたフローリングの廊下と、両脇に四ヶ所の木製のドアが見えた。
春人は由夏のキャリーバッグを持つと、玄関から一番近い右側の部屋に入っていった。
「この部屋は普段使ってないから、由夏ちゃんはここを使って」
由夏も部屋に入ると、そこはベッドと化粧台が置かれ、外の廊下に面した磨りガラスの窓がある洋室だった。
「もう、ひどいよ二人とも……」
部屋に入ってきた綾子の文句に、由夏と春人は苦笑いするしかなかった。
「毛布は押し入れに何枚かあるから、自由に使っていいからね。電気ストーブがあるけど、由夏ちゃんは使うかしら?」
「いいえ、ストーブはなくても大丈夫です」
由夏がそう返事をすると、三人は一段落付いた気持ちになって安堵の表情になった。
「それじゃ、ゆっくりしてね。私は夕御飯の準備するからね」
そう告げると、綾子は部屋を出て行った。
春人がキャリーバッグをベッドの脇に置こうとすると、由夏が「ねえ、春人君の部屋に行きたいな」とねだった。
春人が「いいけど、何もないよ?」と、後ろの由夏に言いながらキャリーバッグを置いた。
「春人君が……どんな場所で過ごしていたのか、見てみたいんだ」
両手を後ろに組ながら、由夏は春人の背中に語りかけた。
春人は左肩に掛けていたトートバッグを右手に持つと、振り返った。
「意味深な言葉だね……」
「……そうかもね」
二人はそう告げ合うと、静かに笑った。
「じゃあ、付いて来て」
二人は廊下を歩いて、由夏の泊まる部屋の斜め向かいにある春人の部屋に向かった。
春人の部屋のドアにたどり着くと、由夏が「えっと、やっぱりさ、急に入って大丈夫?」と、探るような口調で尋ねた。
「えっ? 大丈夫だけど」と、不思議そうな様子で答える春人。
「そう……」
「何? 気になることでもあるの?」
春人の言葉に、由夏は遠い目をして右手でグラスコードを擦っていた。
「こう見えてもね、パパに躾られたの……男の部屋に、女は急に入っちゃいけないって」
春人は由夏が何を言っているかわからなかった。
「でも、安心して。ベッドの下は漢の治外法権だってことくらいわかっているわ」
「!!!」
春人は理解した。由夏が"そういう類い"の物について話しているのだと。
「な、何を言い出すのさ!」と、春人はうろたえた。
「例え、春人君がどんな"エデルトゥ"な趣向を持っていても、ウチは受け入れるからね」
そう言うと、由夏はレンズ越しに色っぽい視線を春人に送った。
春人は思わず目をそらして「からかわないでよ、由夏ちゃん。さあ、どうぞ」と言うと、ドアを開けた。
「ごめんごめん。それでは、失礼します」
由夏が暗い部屋に入って行くと、ひんやりと乾いた空気を肌に感じた。
後ろの春人も部屋に入ると、明かりを点けた。
蛍光灯の明かりが春人の部屋を照すと、由夏にとって見覚えのあるポスターが真っ先に彼女の目に入ってきた。
由夏はベッド脇の壁に貼られたポスターを認めると、ゆっくりと前に進みながら感慨深くそれを見つめていた。
やがて立ち止まると由夏が「ロニー……」と声をこぼした。
「そうだよ。ロニーのポスターだよ」
「これ、パパの部屋にも貼ってあるよ。ひょっとして……」
由夏は喋りながら春人に振り向いた。
「弘さんがくれたんだ。楽しかった頃に……さ」
春人はドアの淵に寄りかかりながら、慈しむ様に言った。
「知らなかったよ」と、春人を見据えながらつぶやく由夏。
そこに、廊下を歩いてくる綾子の足音が聞こえてきた。
「春くん、買ってきて欲しい物があるんだけど……あら、二人ともここにいたのね。何かあったの?」
綾子が部屋の前に来て、由夏と春人に尋ねた。
「今、春人君の部屋を見せてもらっていたんです。そうしましたら、見馴れたポスターを見つけたんです」
それを聞いて部屋を覗く綾子。
「ああ、そのF1のポスターね。えっと、何て言う名前のレーサーだっけ」
「ロニー・ピーターソンだよ」
横から春人が助け船を出した。
「そうそう。ロニー・ピーターソンね」
綾子は両手を合わせると、春人のトートバッグに目を向けた。
「春くんのトートバッグ、私が作ったのよ。春くんが何年か前に『ロニーのヘルメットと同じ柄のが欲しい』って珍しくねだるから」
由夏もそのトートバッグを見つめた。
春人は気恥ずかしい気持ちになって、雰囲気が変わってくれないかと思っていた。
すると、由夏も口を開いた。
「実は私のキャリーバッグも、父に頼んで塗ってもらったんです。ロニーと同じ柄の物が欲しくなって」
「そうだったのね。やっぱりそれは、弘さんの影響?」
「そうですよ。私と春人君のF1好き、特にロニーのファンなのは父の影響なんですよ」
由夏が笑いながら答えると、つられて春人と綾子も笑った。
三人が食事を終えると、綾子と由夏はキッチンで後片付けを始めた。
「ごめんなさいね。今日に限って辛い料理にしてしまって」
綾子は右手にスポンジを持ちながら由夏に話しかけた。
「いいえ。春人君が買ってきてくれたクリームで綾子さんが調味して下さったので、とても美味しくいただきました」
綾子の左に立つ由夏は、クロスで皿を拭きながら笑顔を浮かべて答えた。
「綾子さん、明日はお仕事なんですか?」
「そうなの。由夏ちゃんをどこかに連れていってあげたいんだけど、あいにく金曜日まで出勤日が続くのよ。ごめんね」
「いいえ。私の事はお気遣いなく」
そこに、風呂から上がった春人が緑色のパジャマを着てやって来た。
「お風呂上がったよ。お次どうぞ」
春人が二人に声をかけると、綾子は由夏に顔を向けた。
「由夏ちゃん、先にお風呂入る?」
尋ねられた由夏は、キッチンの壁にかけられた時計に目を向けた。
「どうぞ綾子さんが入って下さい。私は今朝、入りましたので、明日の朝、シャワーだけ使わせていただければ」
由夏がそう言うと、春人も「そうだよ。母さん、明日は朝から仕事なんだし。残りの洗い物は僕がやっとくから」と言った。
「それじゃ、お願いするわね」
そう言うと、綾子は手を洗ってキッチンから出て行った。
「由夏ちゃんも洗い物は僕に任せて、休んでよ」
「そんなのダメだよ。せめて洗い物くらいしないと、失礼だよ」
由夏はクロスを置くとスポンジを取ろうとしたが、春人が止めた。
「由夏ちゃんはお客さんだからいいんだよ。それに、今日は色々あって疲れたでしょ」
由夏は後ろめたそうな顔をしながらも「わかった。じゃあ、もう寝るね」と言って、春人に後の事を任せることにした。
「うん。ゆっくり休んでよ」
「ありがとね、春人君。お休みなさい」
春人の右肩に左手を置いて由夏がささやくと、由夏はキッチンを後にした。
青のパジャマ姿の由夏はベッドに仰向けになり、天井を見つめながら枕元のスマートフォンでクラシックを聞いていた。
明かりが消された部屋には、窓から廊下の蛍光灯の明かりが射し込んでいて、ランダム再生に設定されたスマートフォンは、その空間に歌劇「トスカ」のアリア「歌に生き、恋に生き」を奏で始めた。
それに気付くと、由夏は右手の甲を額に置いてアリアにじっと聞き入った。
そしてアリアの最後に差し掛かると、一度息を深くしてから、イタリア語の歌詞を口ずさんだ。
「Perché me ne rimuneri cosi? (なぜこの様な報いをお与えになるのですか)」
次話に続く。