第三話
午前七時半、西新宿のホテルの一室。
窓から射し込む高層ビル街の朝日が、由夏が宿泊する部屋を照らし出す。
椅子の背もたれにかけられたモッサコート。
壁に立てかけられたロングブーツ。
枕元にモータースポーツ誌が置かれたベッド。
窓の下に横たわる開けられたままのキャリーバッグ。
テーブルの上に置かれたグラスコード付きの赤いメガネ。
ブランケットの上に脱ぎ捨てられたパジャマと下着。
そして、バスルームから響くメロディ。
洗面台に置かれたスマートフォンから流れる曲を聴きながら、由夏は入浴していた。
スウィング・ジャズの演奏が終わると、次に流れて来た曲は“Nat King Cole”の"L-O-V-E"だった。
それまでは静かに聴いていた由夏だったが、"L-O-V-E"がかかると両手を後頭部に組んで歌い出した。
流暢な英語のデュエットがバスルームに反響した。
その曲が終盤に差し掛かった頃、由夏はある考えを思いつき、右手の指を鳴らした。そして浴槽から出てスマートフォンの演奏を止めると、春人に電話をかけた。
ーーーーーー
午前七時半、横浜のマンションの一室。
カーテン越しに窓から射し込む春の朝日が、春人が暮らす部屋を照らし出す。
ハンガーラックにかけられたジャケット。
勉強机のフックにかけられたトートバッグ。
クローゼットの上に置かれたヴァイオリンケース。
本棚に納められた楽譜。
ラックに並べられた映画のDVD。
壁に貼られた、青色と黄色のヘルメットが操る黒いF1マシンのポスター。
枕元にしおりをはさんで置かれたサンテグジュペリ。
そして、室内のスピーカーから響くロッシーニの「どろぼうかささぎ」序曲。
ベッドの上でロッシーニを聴きながら、睡眠から起床へとギアをシフトさせる。それが春人の目覚め方だった。
春人は右手の甲を額に乗せて、カーテンの隙間から窓の向こうの空を垣間見た。
青い空と白い雲がうっすらと見え、どこかから聞こえる雀のさえずりが、春人にはまるでオーケストラと共演している様に聞こえた。
曲がもうすぐ終わろうという時、ベッド脇の棚に置かれたスマートフォンが鳴った。
春人が上半身を起こして画面を見ると、由夏からの着信だった。春人はオーディオの演奏を止めて電話に出た。
「はい、もしもし」
「もしもし、春人君おはよう。まだ寝てたかな?」
春人の耳に、反響した由夏の声が聞こえた。
「いや、もう起きてたよ。由夏ちゃんこそ寝起きじゃないの?」
「違うよ。今、お風呂入ってるんだよ」
「だからか。昨日と違う声に聞こえたのは」と、春人は体を起こしてベッドの横のカーテンを開けながら話した。
由夏は笑いながら「自分の娘が裸で男の子と電話してるなんて、パパが知ったら大変だわ」と話した。
窓から見える春の街の日常と、電話の向こうの非日常が春人の頭の中で交わる。そのちょっとしたカオスが、由夏との再会という記憶に霞をかける。
「こうやって由夏ちゃんと話してること、昨日の朝には想像もできなかったよ」
「そうだね。でも、わからないよ。明日にはもっと想像できないことが起こるかも」
春人はベッドから降りて室内を歩きながら「由夏ちゃんったら、不安になることよしてよ。あれ、ところで何かあったの?」と尋ね、勉強机の椅子に座った。
「そうそう。今日の待ち合わせ場所なんだけどさ、変えたいんだ。昨日は春人君がホテルまで来るって言ってたしょや。それじゃ悪いからさ」
由夏の話し方は、いたずら心に満ちている様に春人には聞こえた。
「由夏ちゃん、何かしようとしてるでしょ?」
「ふっふっふ、バレたか。いやさ、せっかく西新宿に泊まってるんだから、春人君と行ってみたい所があってさ」
「それは構わないけど。場所はどこなの?」
春人は机にあった東京の地図をめくりながら聞いた。
「それはまだ秘密だよ。新宿のどこかなのは確かさ」
「それじゃわかんないよ」
「じゃ、今はヒントだけ。『ウチと春人君の関係』かな」と、由夏の楽しそうな声が春人に聞こえた。
「そんなこと言われても……」
その時、春人の部屋のドアがノックされた。
「うわ、母さんだ。電話切るよ」
春人が慌てて口元に手を当てて由夏に告げた。
「わかった。後で連絡する。ごめんね」
春人は電話を切ると、スマートフォンを隠してからドアを開けた。
そこにはパジャマ姿の綾子がいた。焦点の合っていない目をして。
その姿に、春人は思わず右足を半歩後ろにずらしたが、気を取り直して綾子に向き合った。
「おはよう母さん」
「……おはよう、春くん……」
抑揚がない話し方。そのことに、春人は綾子が昨日のことを引きずっていると理解した。
「えっと、よく眠れたかい?」
「……うん、よく眠れた……三時間半くらい……」
その「リアル」な睡眠時間に、春人は困惑した。
「……春くん……まだ怒ってる?」
「えっ? どういうこと?」
「……だって春くん、昨日の夜から目を合わせてくれないし……」と、今にも消えてしまいそうな声で綾子が聞いた。
それを聞いた春人は、膝を曲げて綾子と同じ目線に屈んで目を合わせた。
「違うよ。怒ってないよ。ただ昨日、僕が家に帰ったら家中真っ暗だったでしょ? それで居間に入ったら母さんがロウソク灯してテレビの前で膝抱えて、スタンリー・キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』をまばたき一つせずに見てたから、驚いただけだよ」
春人は諭すように綾子に語りかけた。
「……そうだったんだ……」
「そう。だから安心して」
春人は姿勢を元に戻し、手を前に組んだ。
「それに、母さんに連絡せずに遅くまで出かけたのは、僕が悪かったよ。ごめんなさい」
春人は頭を下げた。
春人の言葉を聞いて綾子は幾分落ち着きを取り戻した。
「それじゃ、チューしてくれたら……」
「さあ、朝食にしようね。しっかり食べて、ちゃんと寝ないと明日からの仕事に差し支えるよ」
春人が綾子の両肩に両手を当ててそう言うと、彼女を居間に連れていった。
春人は綾子をソファーに座らせると、キッチンでパンケーキを作り始めた。それは、綾子の大好物だった。
「実はね、母さん。今日も出かける用事があるんだ」
「えっ、そうなの?」
綾子は見ていたテレビの画面からキッチンに顔を向けた。その表情には、不安が見てとれた。
「大丈夫だよ。今日は遅くならない様にするから」
「どこに行くの?」
綾子の質問に、どう答えていいか春人は一瞬迷った。由夏からは、自分が東京に来ていることを誰にも言わないでほしいと頼まれていたからだ。
春人は心の中で綾子に謝った。
「欲しい楽譜があってね。昨日は新宿を歩いて探したんだけど、見つからなくて。だから、今日は御茶ノ水に探しに行こうと思ってるんだ」
春人はじっと蛇口を見つめながら、嘘をついた。
春人の姿を見ていた綾子は、小さくうなずきながら微笑み、「わかったよ、春くん。気を付けてね」と話しかけた。
「ありがとう。見つかったら弾いて聞かせてあげ……」
その時、春人は焦げた臭いを感じた。春人がフライパンを見ると、パンケーキから白い煙が上がっていた。
「しまった! 焦がした」
春人はターナーでパンケーキを持ち上げると、それを皿に乗せた。
すっかり焦げたパンケーキを見ながら、春人は心の中で「お天道様にはお見通しか」と思った。
ーーーーーー
午前十時四十分、西新宿。
白いジャケットと紺のチノパンに身を包み、昨日と同じトートバッグを肩にかけた春人が、地下道を歩いていた。
春人は、恥ずかしさと困惑が入り交じった思いでいた。
その理由は、数十分前に由夏から送られてきた『由夏と春人の関係』というサブジェクトが付いたメールだった。
春人が電車の中でメールを開いた瞬間、彼は目を疑った。
そこには「十一時にここで待ってるよ」というメッセージと共に画像が添付されていた。その画像は、西新宿に置かれた"LOVE"という赤い大きなモニュメントの物だった。
「嘘でしょ……由夏ちゃん」
それが車内で口をついて出た言葉だった。
春人が茶色のビルの脇から地上に上がると、約束の場所が目に入った。そこは交差点の近くだった。
春人は交差点を渡ってモニュメントの前に着くと、スマートフォンの時計を確認した。時刻は約束の十五分前を示していた。
春人は周りを歩いて由夏を探したが、まだ来ていなかった。そこで、春人は近くの木陰に入って一休みすることにした。
春人が木陰に入ったちょうどその時、彼の前を白いセーターを着た小さな女の子が通り過ぎた。そして、その後ろから両親らしき男性と女性が続いて通り過ぎた。
春人は彼らのことをそっと見た。
先を歩いていた女の子は踵を返すと、男性に近づいて何かをねだる様な仕草をした。
すると、男性は女の子を抱えあげて肩車をした。
女の子の嬉しそうなその声が春人の耳にも届いた。
微笑ましい家族の光景。
けれど、そんな光景にも、春人はどこか悲しい物を感じてしまう。
そうするうちに、春人は由夏から送られてきたメールのサブジェクトを思い出した。
『由夏と春人の関係』
「由夏ちゃんと僕の関係……」
そうつぶやくと、抗い様のない運命と理不尽な過去が春人の脳裏をかすめた。
春人は彼らから目をそらすと、ゆっくりと木を見上げた。
春人の瞳に映る木漏れ日。
「どうして僕たちは変わっちゃったのかな……」
春人は、木葉の先の太陽に問いかけた。答えてくれないとはわかっていても。
春人はその光景を見つめ続けた。何のためにそこにいるのか忘れてしまう程、風に揺れる春の木漏れ日は春人にとって美しかった。
その春人の背後から、黒いロングカーディガンを羽織った長身の少女がゆっくりと近づいた。
春人がため息をついた時、突然、後ろから誰かが彼に抱きついて、両手で彼の両目を覆った。
「うわっ」
木漏れ日のまぶしさから、いきなり暗闇に陥った春人は驚愕して身じろいだ。
「だぁ~れだ」
春人の体の動きが止まった。
その声音。その香り。そして、その感触。
春人がすべてを感じ取った時、もう戻ることのできない、遠い日の記憶が、走馬灯の様に蘇った。
その刹那、春人の覆われた両目から涙が溢れ出た。
「えっ、どうしたの?」
春人の視界を塞いだ少女は、両手に感じた温かい物に困惑して両手を離そうとした。
けれど、春人は自分の視界を塞ぐその両手に、自分の両手を重ね合わせた。
「ボクノタイヨウ」
「……はると……くん……」
「僕の太陽だよ……由夏ちゃんは」
「ワタシノハル」
「……ゆかちゃん……」
「私の春だよ……春人君は」
二人は震える手をゆっくりと下ろした。
春人はほろほろと涙を流しながら、恐る恐る振り返った。
そこにいた由夏もほろほろと涙を流していた。
「春人君ったら、どうしたのさ。春人君のせいでウチも泣いちゃったしょや」
由夏は涙声で春人に文句を言った。
「本当のことを言っただけだよ」
春人は涙声で答えた。
「本当に、相変わらず泣き虫なんだから」
由夏は右手を春人の左頬に添えて慰める様に言った。
それを聞いて、春人も右手を由夏の左頬に添えた。
「そういう由夏ちゃんは、相変わらずおしゃれだね」
その様子を、白いセーターを着た女の子が肩車されながら見ていた。
「パパ、ママ、あのお兄ちゃんとお姉ちゃん、なかよしさんだね」
第四話に続く。