第二話
由夏と春人は、いそいそとエスカレーターに向かって歩いていた。
数分前、五年ぶりの再会に気持ちが高揚した二人は、到着ロビーで抱き締め合った。そのせいで二人は周りから注目を集めてしまい、その場を離れることになった。
二人がエスカレーターに乗ると、由夏が右肘を手すりについて、後ろに立つ春人に向き直った。
「どうだった? ウチらまるで映画のワンシーンみたいだったしょ?」
「本当に、いや参ったよ」と、春人はうなじに両手をかけながら答えた。
「それにしても、やっぱり東京は暖かいね。ちょっと汗かいちゃた。北海道も段々、暖かくなってきてるけど」と言って、由夏は手で顔を扇いだ。
「そりゃそうさ。こっちには『春』があるからね」
それを聞いた由夏は、エスカレーターを降りると振り向きざまに「そういう感性、春人君らしいや」と、笑いながら語りかけた。
その言葉に、春人は頬を指で掻きたくなる衝動に駆られた。
二人は券売機の前に進むと路線図を眺めた。
「由夏ちゃん、旅行はいつまでなの?」
「五日後に帰りの飛行機を予約してあるから、それまでだよ」
「そうなんだ。泊まる所は決まってるの?」
「今日と明日のホテルは予約できたんだ。西新宿のホテルにね。ただ、それ以降はまだ決まってないんだ」
それを聞いた春人は「じゃ、僕の家に泊まればいいんじゃない?」と由夏に提案した。
その言葉に、由夏は胸の奥が締め付けられる感覚に襲われた。そして、「それは……ご迷惑おかけすることに……」と伏し目がちに答えた。
その言い回しに、春人は由夏の心情を察した。
「そっか。じゃ、取り敢えず新宿まで行こうか」と、春人は穏やかに言った。
由夏は「配慮してくれたのに、ごめんね」と、申し訳なさそうに答えた。
二人は改札を通ってホームに向かった。
歩きながらも、由夏はさっきの会話を引きずっていて、表情が曇っていた。
その様子を見て、春人は由夏の気持ちを切り替えるために話しかけた。
「話には聞いてたけど、そのグラスコードきれいだね」
春人の少し後ろを歩いていた由夏は「ありがとう。ウチもかなり気に入ってるんだ」と答え、彼の横に並んだ。
「それは買ったの?」
「そうだよ。スワロフスキーを使ったやつ、ススキノで見つけたんだ」
「グラスコードにスワロフスキー……さすが由夏ちゃん、相変わらずおしゃれだね」と、笑って誉める春人。
「そんな、大げさだよ」
春人の言葉に笑顔を取り戻す由夏。
由夏は、気落ちした自分を春人が気遣ってくれたのだと察した。そして「ありがとう」とつぶやいた。
由夏と春人がホームに着くと、都心方面行きの電車が停車していたので、二人は乗車して席に座った。
車内は乗客がまばらで、間もなくドアが閉まり、電車は動き出した。
由夏は足の前に置いたキャリーバッグを開け、中からオレンジ色の水筒を取り出した。
「あー喉渇いた。春人君も飲まない?」と、由夏は左に座る春人に勧めて水筒を振った。最初は振る度に水筒から水の音がしたが、次第に音がしなくなった。
その変化から、春人は水筒の中身がすぐにわかった。
「それ、ビターココアでしょ? 昔から好きだったもんね」
「お見事! 正解です。正解者には特典として由夏ちゃんとの間接キスが贈呈されます!」と、由夏がおどけて見せた。
苦笑いする春人を尻目に、由夏はカップにココアを注いで一口飲むと、それを彼に差し出した。
春人がカップをそっと受け取ってそれを見ると、オレンジ色の縁にうっすらルージュの跡が付いていた。
そのことに戸惑った春人は、こっそり位置をずらして口を付けようとした。
すると由夏が「あー、今、カップずらしたしょ? それじゃ間接キスになんないしょや」と言って、ほっぺたを膨らませた。
幼い頃と変わらない可愛らしい言動をしつつも、息で膨らんだリップが艶やかさを醸し出す由夏。
春人は観念して、カップを少し持ち上げて見せ、ルージュの跡に口を付けた。
飲みやすい温かさのココア。甘さを連想させる香りとは裏腹に、下手なブラックコーヒーより深い苦味。それに加えて、少しの気恥ずかしさを春人は感じた。
「苦いけどおいしい。ごちそうさま」
春人は飲み干したカップを由夏に返した。
ちょうどその時、電車がトンネルを抜けて地上に出た。
二人が振り向いて外を眺めると、小雨が降っていた。
「降ってきちゃったか」と春人がぼやいた。
それに対して由夏は「雨だ。すっごい久しぶり。今年になって初めて見た」と、感慨深く言った。
「そっか、北海道では冬は雨降らないもんね」
「そうだよ」
由夏は窓越しに雨の街を見つめていた。
その表情を、春人はそっと見つめた。
すると由夏が英語の歌を口ずさんだ。
その聞き覚えのある歌に、春人はすぐに反応した。
「ジーン・ケリーの『雨に唄えば』だね」
春人がそう指摘すると、由夏は歌いながら右手の親指と人差し指を合わせて丸を作って見せた。
春人が五年ぶりに聞く由夏の歌声。
それを春人は、目を閉じて聞き入った。
踏切の警報と、電車のブレーキ音には及ばないその歌声は、春人には澄んだオカリナの様に聞こえた。
ーーーーーー
二人が新宿駅に着いたのは夕方だった。
夕方の新宿駅は混雑していて、大きな荷物を持った由夏は息が苦しそうだった。
「キャリーバッグ、僕が持つよ」と、ホームで春人が由夏に話しかけた。
「ありがとう。それじゃ、ウチがトートバッグ持つよ」
お互いの荷物を持ち替えた二人は、改札を出るとコンコースを進んで地下道に向かった。
人々が行き交う地下道を歩いていると、由夏が周りを見回し始めた。
「この地下道、昔と違って明るくなってる」
「由夏ちゃん、前に来たことあるの?」
春人が何気なくした問いかけに、由夏は少し勇気を出して答えた。
「うん……パパがね、昔この辺りで働いてたんだ」
「そうだったんだ」
「それでね、時々『あの人』に連れられてパパの仕事終わりに迎えに来てたんだ」
「そう……だったんだ」
安易に由夏の過去を聞いてしまったことに、春人は自分を責めたくなった。
二人は無言で地下道を歩き続けた。何か話さなければと思いつつも、直前の会話のシリアスに言葉が出ない。ビジネスマンや学生が行き交う雑踏の騒音さえ、今の二人にはありがたかった。
沈黙が破られたのは、二人が地下道から外に出た時のことだった。
雨は既に止んでいた。
二人の視界には、雲が茜色と藍色の縞模様に織り成された夕焼けが広がっていて、窓張りのビルにその光が反射していた。
「きれいだな。あの頃と変わらない」と、由夏がため息まじりに漏らした。
「北海道では見られない景色だよね」
「そうそう」
夕焼けに癒された二人は笑顔を取り戻して、湿った道を歩いた。
その道を歩きながら、由夏はもう一度、勇気を出して春人に話しかけた。
「ウチのパパさ、いつも春人君のこと、気にかけてるんだよ。まるで息子を心配する父親みたいに」
その言葉に、春人は意表を突かれた。
「口には出さないけど、パパは息子が欲しかったみたいでさ。だから、きっと春人君にその姿を重ねてたんだと思うんだ」
由夏の言葉と自分の記憶が符合することに、キャリーバッグを引く左手に力がこもる春人。
「だからさ……いつか、また会ってあげて」と、由夏はやや目を細めて春人に語りかけた。
春人はすぐには返事できなかった。
しばらく数メートル先の道を見つめ、その後、唇を噛み締めながら空を見上げる春人。
やがてゆっくりと由夏に向き直ると「わかったよ。教えてくれてありがとう」と、由夏に礼を言った。
由夏には、春人の目尻が光っている様に見えた。その表情から、春人の五年間の苦悩がどれほど深かったのかを由夏は察した。
由夏はまた沈黙に陥るのを嫌った。
そこで、由夏は数歩駆け出すと、手を後ろに組んで春人に振り返った。そして「相変わらず泣き虫なんだから~」と、後ろ歩きしながらからかって見せた。
「なんでさ、誰が泣き虫なのさ」
「泣き虫さん、こちら、手の鳴る方へ~」
「言ったな! 待て~」
二人は夕暮れのビル街を走り出した。
身軽な由夏は、ブラウンのミドルロングヘアをなびかせながら。
キャリーバッグを引く春人は、黒いジャケットをなびかせながら。
二人が高架橋を潜ると、由夏だけが右にある階段を駆け登り、振り返って春人を見下ろした。
キャリーバッグを持つ春人は、階段の手前で立ち止まって、銀色のビルを背に立つ由夏を見上げた。
階段をはさんで、由夏と春人は深く息をしながら見つめ合った。
「何度目だろうね?」と、由夏が声を張り上げた。
「何がだい?」
「見つめ合うの……何かに隔てられて」
由夏のその言葉が、単に物理的な意味ではないことを春人はすぐに理解した。
「そんなもの、何度だって乗り越えて見せるよ!」
整ってきた息に、春人は決意の言葉を乗せた。
その言葉を受け取った由夏は、思わず胸の上に両手を重ねた。
春人はキャリーバッグを持ってゆっくり階段を登り、由夏の前に立った。
さっきまでとは違う胸の高まり、そして三月の風の冷やかしを感じる二人。
「つかまえた……」
「……つかまっちゃった」
微笑みながら、二人はつぶやいた。
その時、春人のスマートフォンが鳴った。
春人がそれをポケットから取り出して画面を見ると、綾子からの着信だった。
「やっば、母さんからだ。ごめん、由夏ちゃん、ちょっと待って」
春人は由夏に詫びて電話に出た。
「もしもし、母さん……えっ、何? どうしたのさ?」
隣にいる由夏は、その口調に何かあったのかと心配になったが、すぐに杞憂だとわかった。
「いや、そうじゃないよ。ちょっと出かける用事ができてね、母さん寝てたからメモだけ置いてきたの。そう、ぐれてないから」
『ぐれてない』という言葉に、由夏は口に片手を当てて笑いをこらえた。
「確かに遅くなって悪かったよ。すぐに帰るから。えっ、場所? 今、新宿にいる……だから、ぐれてないって言ってるべや」
由夏の笑いはますます大きくなり、両手を口に当て始めた。
「わかったから。もう泣かないで、もう泣かないで。もう四十三才なんだから泣かないで」
ついに『決壊』した由夏は、春人から離れ、高架橋の赤レンガの壁に両手を突いて大笑いした。
「すぐ帰るからね。それじゃあね」
春人は電話を切ると、大きなため息をついて由夏を探した。
その頃、由夏はとうとううずくまってしまった。
「ごめん、由夏ちゃん」と、春人は恥ずかしさでいっぱいになりながら言った。
「信じられない、こんな笑えること……人生最大だわ」と、由夏はなおも笑っていた。
春人は由夏の背中を擦って落ち着くのを待った。
「大丈夫? 落ち着いた?」
「大丈夫、ココア飲んだら落ち着いた」
外はすっかり暗くなっていた。
「ホテルすぐ近くだから、もうここでいいよ。早くお家に戻ってあげて」
「わかった。それじゃ、後で連絡するよ」
「うん。今日はありがとう」
そう告げた由夏は、何かを言いたそうな様子だった。
それに気づいた春人は、思いついたことを実行することにした。
「えっ? 春人君、何?」と、由夏が驚きの声を上げた。
春人はひざまずくと由夏の右手を取った。そして「由夏さん、明日も会ってくれますか?」と尋ねた。
由夏は余りのことに狼狽した。
「だめですか?」と、由夏を見上げる春人。
周囲の人々は何事かと二人を遠巻きに見ていた。
由夏は「はい、会って下さい」と答えた。
「ありがとうございます」
そう言うと、春人は由夏の右手の甲に口づけをした。
「はっ、春人君!」
その行動に、由夏の頭はブロー寸前になってしまった。
春人はゆっくりと手から口を離し、由夏を見上げた。
「どうさ? 本当に映画のワンシーンみたいだべ?」と、すました顔で言って見せた。
「は、はんかくさいことすんなや!」
由夏は肩にかけていたトートバッグで春人を叩いた。
「由夏ちゃん、やめてよ。それ、僕のだよ」
「うっさい、キザなことしといて」
日の暮れたビル街で、由夏と春人はふざけ合った。足りない思い出を、少しでも補う様に。
第三話に続く。