第一話
今にも泣き出しそうな三月の空の下を、羽田空港行きの電車が走っていた。
その車内のドアの側に、グレーのジーンズと黒いジャケット姿で、左肩に青色と黄色のストライプのトートバッグをかけた少年が立っていた。
少年がスマートフォンの時計を見ると、時刻は午後三時を少し過ぎていた。そして、深呼吸をひとつした後、窓の向こうの空を見つめながら「由夏ちゃん」とつぶやいた。
同じ頃、羽田行きの飛行機の窓際に一人の少女が座っていた。
少女は両手をシートベルトのバックルに重ね、座席にもたれながら窓の向こうの景色を眺めていた。そして、機内にシートベルト着用のチャイムが鳴ると、やや目を細めながら「春人君」とつぶやいた。
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春人の部屋の目覚まし時計から正午のアラームが鳴った。
春人はゆっくりと目覚まし時計に手を伸ばし、スイッチを切った。
「早いな、もう昼か」とつぶやくと、トレーナー姿の春人は勉強机で背伸びをし、使っていた文房具をノートとテキストのしおりにして、キッチンに向かった。
キッチンに入ると春人は大きな鍋に水を注ぎ、ガスコンロに置いて火をつけた。続いて水に対して一%の塩を計って鍋に入れ、スパゲッティの乾麺を用意した。
次に、春人がコーヒーメーカーの準備をしていた時だった。
「おはよう、春くん」と、寝室からパジャマ姿で出てきた母親の綾子が、眠気をたたえた声で春人に挨拶した。
「おはよう、母さん。夜勤お疲れ様」と、春人が挨拶と慰労の言葉を言った。
「母さん、お昼だけどボンゴレでいいかい?」
「本当に? やった! ちょうど食べたいって思ってたんだ。やっぱり愛し合う男と女には通じ合うものが……」
「やっぱしボロネーゼにするわ」と、春人が綾子の言葉を遮った。
それを聞いて綾子は駄々をこねたが、結局、あきらめて洗面所に向かった。
その頃、春人の部屋に置かれたスマートフォンに電話がかかってきた。その画面には「長谷川由夏」の名前が映し出されていた。
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由夏は新札幌駅の待合所からスマートフォンで春人に電話をかけていた。しかし、つながらなかった。
由夏はため息をひとつつくと、電話を切り、青色と黄色のストライプのキャリーバッグを引いて改札前に進んだ。
由夏は、ブラウンのミドルロングヘアーに、大きな襟がついたネイビーのモッサコートとチャコールのロングブーツ姿で、中学生になってかけはじめた赤いメガネには、カラフルなクリスタルが施されたグラスコードが付けられていた。
由夏が駅の電光掲示板を見ると、新千歳空港行きの列車が八分後に到着すると表示されていて、彼女はそれに乗ることにした。
その間も、由夏は自然と衆目を集めた。十五才にしては高い背丈と、大人びたファッションのためだが、由夏は全く気にしなかった。
由夏は改札を通ってホームに進んだ。そこで列車を待っている間、由夏はメガネを外し、空を見上げた。
由夏の視界には、薄い水色の空が広がっていた。そしてその空の色は、春人と初めて会った日のことを由夏に思い出させた。
間もなく到着した列車はかなり混雑していた。
大きな荷物を持っていた由夏は早々に座るのをあきらめ、デッキにいることにした。由夏はキャリーバッグの取っ手を収めて、椅子の代わりにしてその上に腰かけた。
由夏は腕を組んで窓に顔を向けた。動き出したデッキから見える景色は、由夏には見覚えがあった。
由夏が東京を離れて初めて北海道に来た日も、空港から同じ列車に乗った。その時、車窓から見えた牧歌的な景色に由夏は見とれてしまった。そして、列車が両脇を斜面に囲まれた場所を走り抜けると、突然、魔法の様に現れた都会的な景色。
「次の新札幌っていう所が由夏の新しいお家だよ」
そう教えてくれた母親の里香は、遠くに行ってしまった。
由夏が幼い日の記憶を再生させていると、まるで逆再生の様に車窓に牧歌的な景色が現れた。
それに気づいた由夏は、この列車に乗っている訳を思い出して、もう一度春人に電話をかけた。けれど、今度もつながらなかった。
「変わっちゃったのは、私たちか……」
無常を嘆くその手に握られた画面には「伊藤春人」の名前が映し出されていた。
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春人と綾子は食卓で向かい合わせに座り、テレビを見ながら昼食のボンゴレを食べていた。
綾子が「春くん、せっかくの春休みなんだから、遊びに出かけたらいいのに」と尋ねた。
春人は「確かにそうだけど、来月から高校生になるんだから、しっかり予習しないと不安だからね」と答えた。
その言葉を聞いた綾子は立ち上がり「さすが春くん、いい子、いい子」と笑顔で春人の頭を撫でた。
「母さん、やめてよ。皿に髪の毛落ちるって」そう言いながら春人は皿を食卓の奥にずらした。
だが、しばらくすると綾子の手が春人の頭の上で止まった。そして「でも、無理しちゃだめだよ」と穏やかに言った。
その言葉を聞いた春人は、皿を手前にゆっくり戻しながら「ありがとう。気を付けるよ」と答えた。
しばらくテレビの音だけが室内に響いた。
春人は沈黙に耐えられなくなり、わざとフォークを雑に動かしてスパゲッティを口に運んだ。
すると綾子はそれを感じ取り、椅子に座り直して笑顔を春人に向けた。
「それじゃ、ママ今日は非番だし、久しぶりに一緒にデートにでも……」
「実においしかったな、ごちそうさま。僕は勉強するから。母さんはゆっくり食べてていいからね」と春人は皿を持って立ち上がり、キッチンの流しに向かった。
「え~いいじゃない、春くん、お出かけしようよ」
「だめだよ。あっそうだ。母さんパジャマにソースついてるよ」と言って自室に向かった。
「あ~そんな~買ったばっかりなのに」
そんな、いつもの春人と綾子の日常が、横浜のマンションにはあった。
「さあて、ブースト上げてがんばりますか」と、春人は両手でうなじに手をかけながらつぶやき、自室の勉強机の椅子に座った。
春人がさっき閉じたノートとテキストを開こうとした時、机の上のスマートフォンに着信があったことに気づいた。
春人がスマートフォンを手にとって情報を確認した瞬間、彼は驚いた。
スマートフォンには「長谷川由夏」から二件の着信があったという表示があった。
二人は普段、連絡を取ることはよくあったが、それはメールやアプリを使ってで、電話で話すことは滅多になかった。それが二人の暗黙の了解だったからだ。
着信時間は数十分前だったので、春人はすぐに由夏に電話をかけた。
呼び出し音はすぐに途切れ、列車の走行音と由夏の声が聞こえてきた。
「はい、もしもし、由夏だよ。春人君、聞こえる? ごめんね、うるさいところから」
それは春人にとって久しぶりに聞く、成長した由夏の声だった。
「もしもし春人です。聞こえるよ。久しぶりだね。どうかしたの?」
「うん。実は今ね、電車乗ってるんだ。今、南千歳を出たとこさ」
「南千歳って……新千歳の手前でしょ?」
「そう。えっとさ、春人君。急な話なんだけど、ウチ今から東京に行くのさ。二時発の羽田行きで」
「えっ、今から東京に?」と、春人は驚いた声で聞いた。
由夏は「それでさ、春人君。もし春人君の都合がよかったらだけど、会えないかな?」と、少し緊張した声で尋ねた。
由夏の発言に春人の鼓動は高まり、彼は暫し言葉を出せなくなった。
「春人君、春人君、聞こえる?」
由夏の問いかけで我に返った春人は「あっ、大丈夫だよ。僕はしばらく暇だから、いつでも会えるけど。由夏ちゃんは何か東京に用事でもあるの?」と聞いた。
「えっと、特に用事はないんだ。ただ、学校が休みだから、暇をもて余してさ。そしたら、パパが東京に旅行に行ってきたらって言ってくれて」と、由夏が少しゆっくりと答えた。
「……由夏ちゃん一人で? わかった。羽田まで迎えに行くよ。二時発なら三時半頃に羽田に着くよね」
それを聞いた由夏は「違う、違うよ。迎えに来てって意味じゃなくてさ、春人君の都合がいい時にウチが出向くから、ちょっと会ってくれないかなって意味さ」と慌てて説明した。
それに対して春人は「いや、僕が行きたいんだよ。迎えにね」と、穏やかだが意志を感じさせる声で答えた。
「……それじゃ、甘えちゃおうかな」
「いいんだよ、由夏ちゃん。それじゃ、到着ロビーで待ってるよ」
「わかった。第一ターミナル側に着くから。本当にありがとね」と、少し上ずった声で由夏が礼を言った。
「うん、待ってるよ……由夏ちゃん」
「うん、後で会おうね……春人君」
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春人は三時十五分に羽田空港の駅に着いた。
春人はホームで第一ターミナルを確認し、そちら側に向かって歩き始めた。
改札を抜けてしばらく歩くと、吹き抜けがある場所に出た。そこは、春人には見覚えのある場所だった。
春人が十歳の時、綾子に連れられて東京にやって来た時に通った場所。そして、表面ではいつもの様に優しい綾子だったが、それが春人には悲壮に思えてならなかった場所。
「僕が支えてあげなきゃ……か」春人はエスカレーターに乗りながら、その時に思ったことをふとつぶやいた。
春人は一階の到着ロビーに着くと、電光掲示板を見て由夏の便の到着時刻とゲートを確認した。
それを済ませると、春人は近くのベンチに座り、少し速くなった息を整えた。そしてさっきの由夏との会話を思い返した。
あまりに唐突な由夏の言動と、心の中から拭い去れない違和感。それが春人にある予感を抱かせた。
数分後、由夏が乗った便が到着したことを告げるアナウンスが流れたので、春人はゲート前に移動した。
やがて由夏と同じ便の乗客と思われる人々が出てきたが、手荷物を預けていない初めの一群に由夏はいなかった。
ゲートの奥の手荷物受取場には乗客がいて、自分の荷物を受け取った順に、一人また一人とその場を離れていった。
その状況に、便を間違えたのではと春人は不安になって電光掲示板を再確認しようと歩き出した。
その時、春人のスマートフォンに電話がかかってきた。それは由夏からだった。
春人はそのことに気づくと、ゆっくり立ち止まって電話に出た。
「もしもし、春人です」
「もしもし由夏だよ。今、ベルトコンベアの所にいてさ。荷物受け取るの手間取っちゃって。春人君は今、どこにいるの?」
「到着ゲートの前にいるよ。二時の新千歳発だから、場所は合ってるはずだけど」
「わかった。今、そっち行くね」
二人は回線を切らずに、無言のまま耳にスマートフォンを当てていた。そして、お互いの姿を探していた。
先に「発見」をしたのは春人だった。キャリーバッグを引いて歩く長身の少女を見つけたのだ。
「由夏ちゃん見える? 左手振ってるのが僕だよ」と、春人が電話で由夏に語りかけた。
すると、その少女はゲートの奥で立ち止まった。
そして「見えたよ、春人君……」と、由夏が小声で語りかけた。
春人の耳には、由夏の深い息をする音がスマートフォンから聞こえてきた。
すると「ごめん、電話切るね」と、何かを隠す様に由夏が告げ、電話は切られた。
急に切られた電話に春人は訝しがったが、視線の先の由夏が右手にスマートフォンを握ったまま、ゆっくりと腕を下ろす姿を認めると、彼も無意識に同じ仕草をした。
由夏と春人は、そのまま暫し見つめ合った。
二人を隔てるゲートを乗客が通り過ぎる度に、一方通行の自動ドアが開いては閉じた。
やがて他の乗客がほとんどいなくなり、空のベルトコンベアが動きを止めた頃、由夏は袖でひとつメガネの下辺りを擦り、ゆっくり歩きはじめた。
それを見て春人も歩み寄ろうとした。
けれど、ドアに威圧的に描かれた赤と白の印が、春人がしようとしたことが禁制であることを示していた。
そのことに、春人は地団駄を踏みたくなるもどかしさに駆られた。
由夏はゲートに近づくにつれ、次第に歩みを速め、小走りになった。しっかりと春人を見つめながら。
そして、ゲートの自動ドアを由夏が通り抜けると、引いていたキャリーバッグから左手を離し、春人に抱きついた。
由夏の大胆な行動に驚いて体を強張らせた春人だったが、すぐに抱き締め返した。
「由夏ちゃん……焦らすなんてひどいよ……」
「ちょっとくらい良いしょや……ウチは五年も待たされたんだよ……」
春人は、由夏の体から香るミントの香水を感じながら、再会の喜びを噛み締めた。
そして由夏は、春人の服から漂う洗剤の香りを感じながら、再会の喜びを噛み締めた。
第二話に続く。